遠野家の朝は早い。
月姫本編の主役である遠野志貴の朝は確かに遅い。これでもかと言うぐらいに遅い。
もともと朝が弱い上に夜出歩くことが多いのだから、推して知るべし、といった感じである。
よって朝は慌ただしく、ゆっくりと家の中を見る機会は少ない。
しかし、志貴以外の住人は毎朝規則正しく目覚め、自らのやるべきことをこなし、余裕を持った時間どりで自らのスケジュールをこなす。
そして、そんな朝から物語は始まる。
AM5:00 琥珀 自室
ピピ……カチッ
枕元で鳴り出した目覚し時計のアラームのスイッチを切り、琥珀は目を覚ました。
冬の寒い時期でなくても、朝の布団から離れるにはある程度の精神力を要する。
「うー……えいっ!」
少し気合いを入れて、腹筋の要領で上半身だけを起こす。
「うー。まだ眠いですねー」
起きる体制は整えたのだが、どうも頭がはっきりしてくれない。
ぶんぶんと頭を左右に振り、意識を徐々に覚醒していく。
「志貴さん、最近腕を上げましたからねえ。わたしも気をつけないと」
そうつぶやくと、部屋の片隅を見る。
そこには15インチのテレビとゲーム機、そして座布団が二つ置いてある。
この家には元来、ゲーム機はおろか、テレビやラジオ、さらには漫画や雑誌といった娯楽になりそうなものは存在していなかった。
まあそれは、遠野家の人間は一般の人間とは一線をかくし、異種の血を色濃く受け継ぐ言わば人外の生物であるため、周囲と交わること無く閉鎖的な生活をおくってきたことが原因の一つである。
特に先代の槙久は自分の子である秋葉や四季、さらには養子である志貴や使用人たちにもその辺りを厳しく禁止し、外から来る情報といえば、その時はまだいた分家の一族の人間からの伝え聞きか、毎朝夕届けられる新聞ぐらいだった。
そんな環境で育ったために秋葉はそういった「低俗な」ものを嫌い、決して手に入れようとはしなかった。したがって、遠野家のリビングには未だにテレビはない。
そう考えると、特に給金を受け取っていない琥珀の部屋にテレビとゲーム機、さらには最新ソフトまでを所持しているのは不思議ではあるが。
「さて、それじゃあお仕事にまいりますか」
そう言って、部屋の鏡台で手早く髪をとかし、タンスからいつもの服を取り出して着替える。
タンスの中にはいつもの割烹着と、少しの私服。隅のほうにはこっそりと白衣やらチャイナ服、あまつさえは翡翠のものとの同じ型のメイド服があるのは秘密だ。
「なにかと便利ですしねー」
くすくすと笑いながら、誰に聞かせるでもなくそう言い、何事も無かったかのようにタンスを閉める。
そして、部屋を出て琥珀は食堂へと向かっていった。
AM5:00 翡翠 自室
ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ……カチッ
枕元で鳴り響く目覚し時計のアラームスイッチを切り、翡翠は目を覚ました。
「うー……」
実は、翡翠は朝は弱い。とは言っても、一般家庭並の時間であればさして問題はない。
しかし、自分はメイドであり、ここは遠野家だ。
当主である秋葉が5時ごろには目を覚ます以上、それより前に起きなければいけない。
「むー……」
再びそう唸ると、ごしごしと目をこする。
幾分目が覚めてきたところで布団から起き上がり、姿見で寝癖を整えた後にクローゼットに向かう。
手入れがゆき届いているそれは、翡翠が戸を引くと音もなく開く。
そして、中からいつものメイド服を取り出し、のそのそと着替える。
袖を通し、襟を締め、カチューシャをつける。
いつもの衣装を一つずつ身につけていくたびに段々と目が覚めていき、全てを身につけるころには完全に目が覚める。
「この服は、いわばメイドとしての戦闘服なのです。暑いからって脱ぐわけには行きません!」と言ったのは誰だっただろうか。
あの言葉は真実であると最近気づいた。
メイド服を着ると、それだけで気分が引き締まり、眠気も冴える。身体能力も20%は上昇する(推定)
まあ、この気持ちはメイドをしたことのある人以外はわからないだろうけれど。
「よし、と」
もう1度気合いを入れ直して、翡翠もまた食堂に向かった。
AM:5:30 翡翠&琥珀 食堂
「おはよーございまーす」
「おはようございます」
遠野家に仕える2人のメイドは食堂で顔を合わせ、朝の挨拶を交わしていた。
志貴が帰ってくる前のこの館には、分家の人間がかなりの数「客人」として住んでいたので使用人も多数いた。
そのため、その日の仕事のスケジュールを確認するために朝の食堂でこうやってミーティングを行っていた。
「じゃあ、わたしは秋葉さまを呼んできたあとにいつもの仕事をします」
「わたしは、志貴さまを起こしてさしあげた後にいつもの仕事をします」
まあ、この館で仕えるべき人間は2人しかいないし、各々専属のメイドという形になっているので、ミーティングを行う必要はない。
しかし、長年の習慣と、「姉妹間でのコミュニケーションは大事なんですよー」と言う琥珀の意見から、このミーティングは続いている。
普段はこのまま仕事を開始するのだが、たまに意見が出ることがある。
「はい、翡翠ちゃんにお願いがありまーす」
「……なんですか?」
「たまにはお世話する人を交換」
「却下します」
ノータイムだった。
「……たまにはいいじゃない」
「それより、わたしのクローゼットから持ち出したメイド服を早く返して下さい」
容赦はなかった。
「あははー。気づかれちゃった?」
「この家には他に服を盗むような人はいませんから」
「ちぇ」
「では、今日も1日仕事をがんばりましょう」
「おー」
「あと、メイド服は朝のお仕事が終わったら没収します」
「翡翠ちゃんのケチー」
こうやって、遠野家の朝は始まる。
AM5:45 琥珀 秋葉の寝室の前
琥珀の主な仕事は、料理と住人の健康管理である。
しかし、朝食は前日のうちに下拵えが済んでいて、後は軽く調理をするだけになっているし、健康管理は食事を除くと結局のところ看病・手当てと言った事後の内容になるので、さしてすることはない。
よって、秋葉付のメイドである琥珀は、打合せのあとに秋葉の部屋に来て、扉をノックする。
コンコン。
「秋葉さまー、朝ですよー」
「ええ。今行きます。」
一応、主人を起こすために来ているのであるが、秋葉が定められた時間に起きていないことはめったにない。
楽なのはいいのだけど、何だか物足りない気もする。
「それでは失礼しますー」
秋葉が起きていることを確認したあと、着替えを部屋の前において、ここでの仕事は終了する。
着替えは部屋の中に持っていくのが決まりなのだが、少し前に秋葉に「明日から着替えは部屋の前においておけばいいわ。琥珀も朝は大変でしょうから」と、言われたのでそうしている。
部屋の中に入るぐらい大した手間ではないし、それを省いたからと言って何が変わるわけでもない。
それでもまあ、自分の主人の思いやりではあるし、少しでも手間が省けるのなら逆らう理由も無いし、秋葉だって抱いて寝ている志貴のぬいぐるみ(自作)を見られたくはないだろうし、ましてや毎朝志貴の人形(自作)に向かって恥ずかしい挨拶をしているのを見られたくはないだろうし、っていうか下手なものを見てしまうと「略奪」されてしまうので、このまま食堂に向かって朝食の準備を始めることにしている。
「さあ、お料理お料理〜♪」
AM6:15 琥珀 居間
「おはよう、琥珀」
「あ、おはようございます秋葉さま」
挨拶を聞き、料理が一段落した琥珀が手を拭きながら、居間のほうまで来て秋葉を迎える。
「一応聞くけど、兄さんは?」
「予想済みだと思いますけれど、全然まだです」
「全くもう、あの人は。」
そう言いながら秋葉は席につき、テーブルの上においてある新聞に目を通す。
以前はこんな話をしていたら『わたしは不機嫌ですっ!』というオーラを放ちながら新聞を読み、志貴がきたとたんに糾弾を始めたのだが、最近はそういうことも無くなった。
まあ、秋葉の性格が丸くなったのかもう諦めたのかは不明であるが。
「そうですよねえ。志貴さんがもう少し早く起きてくれればみんな揃って朝ご飯を食べられますのに」
「ええ。あの人は普段から『家族の団らんってものは大切だと思うんだ』とか言いながら自分ではもう」
ふう、と半分諦めたようなため息を吐き、琥珀が用意してくれた紅茶に口をつける。
その後しばらくは、取り止めの無い話を続ける。
琥珀が椅子に座らず、秋葉の後ろに控えていることを除けば仲のいい友人同士の会話のようにも見える。
「志貴さんも、愛しい人とのんびり食事を取りたいと言う秋葉さまの気持ちを考えて欲しいですよねえ」
「ええ、本当にあの朴念じ……って何を言わせるんですか琥珀っ!」
顔を真っ赤にして、琥珀の用意してくれた紅茶カップを握り潰しながら叫ぶ。
「あははー、駄目ですよ秋葉さま。あそこまでしておいて、今更気づいてない人はいませんよ?」
「あう……」
先日の自分の行いを思い出し、顔から湯気を出しそうになりながら言葉に詰まる。
「さあ、お仕事お仕事―」
楽しそうに、本当に心の底から楽しそうに去っていく琥珀を見ながら、「遠野家で一番権力を握っているのは琥珀なんじゃないだろうか」というかねてからの懸念事項を真剣に考えはじめていた。
AM6:00 翡翠 志貴の部屋の前
朝の打合せの後、翡翠は志貴の部屋の前に来る。
琥珀が秋葉つきのメイドであるように、翡翠は志貴つきのメイドなので毎朝志貴を起こしに行く。
志貴の部屋の前につくと一度深呼吸をし、扉をノックする。
コンコン。
返事はない。
コンコン。
全く返事はない。
「失礼します」
そう言って、扉を開けて部屋に入る。
中は全く灯りがついていないので暗く、夏だと言うのに窓まで閉め切っているので、普通の人間であれば歩くことも難しいだろう。
しかし、翡翠はまるで夜目が利くかのようにスムーズに部屋の中を歩き、窓の前まで来ると遮光カーテンを開き、窓を開ける。
外には屋敷の庭が広がり、さわやかな日差しが降り注ぐ。
太陽をまぶしそうに見上げた後、後ろにゆっくりと振り向く。
そこにはベッドがあり、自分の主人である遠野志貴が健やかに眠っている。
「……」
その安らかな寝顔をまたまぶしそうに見つめた後、翡翠は志貴にゆっくりと近づく。
「……志貴さま、朝です。そろそろお目覚めになって下さい」
ベッドの脇に立ってそう呼び掛けるが、志貴からは何の反応も返ってこない。
志貴の反応が無いことを確認すると、翡翠はベッドの脇にまた一歩近づく。
「志貴さま、お目覚めになって下さい。秋葉さまがお待ちです」
ゆさゆさ。ゆさゆさ。
それでも何の反応も返さない志貴であるが、しばらく根気良く続けていると志貴が反応を返す。
「うぅん……」
反応、と言ってみてもかすかにみじろぎ、唸るだけだが。
しかし、ここに来たころの志貴はゆすられようと何をされようと、全くもって反応を返さなかったのだから、それに比べれば格段の進歩である。
翡翠の技術が上がったのか志貴が健康になった影響かはわからないが、このまま続けていれば起きそうである。
時計を見ると、6時30分。
このペースで起きてくれれば45分には目覚めるだろう。
「志貴を自分の手で起こし、朝の挨拶をすることができる」ということに嬉しくなり、さきほどと比べて幾分力を込めてゆする。
ゆっさゆっさ。ゆっさゆっさ。
「うううん……」
また唸った。あと一息である。このまま起きてくれば朝の挨拶の後に会話を楽しむことができるかもしれない。
嬉しくなった翡翠は、ラストスパートと言わんばかりに志貴をゆさぶろうとする。
「翡翠……」
びくっ。
志貴に突然自分の名前を呼ばれて驚く。
目覚めたのだろうか。志貴を起こすことに初めて成功したのだろうか。そんなことを考えていると、志貴はまた「むにゃむにゃむにゃ……」となにか呟きながら寝返りをうった。
……寝言のようだ。
多少がっくりしたが、あと一息だと思うので気を取り直して志貴をゆさぶりにかかる。
すると、
「翡翠ぃ〜」
志貴は甘い声でそう呟き、布団を抱きしめた。
「……」
あまりのことに一瞬呆然としていると、志貴の行為はエスカレートしていく。
「翡翠ぃ〜〜」
より一層甘い声を出し、抱きしめた布団にほお擦りをする。
どうやら寝ぼけているようである。
しかも、その寝言と行動から見るに翡翠の夢を見ているのであろう。
「……」
起こそうかとも思うのだが、志貴の幸せそうな寝顔とその夢の内容を想像すると、全く動けなかった。
「翡翠ぃ〜〜〜」
さわやかな朝の日差しと風が吹く部屋の中で、布団を抱きしめて悶える志貴を前に翡翠は顔を真っ赤にしてただ立ち尽くしていた。
7:58 ロビー 志貴&秋葉&翡翠&琥珀
「どうして兄さんは時間通りに起きることができないんですかっ!」
「いや、でも今時の高校生が朝6時に起きるってのはどうかと思うぞ」
「そういうことは、一度でいいからきちんと起きてから言って下さい!!」
「……はい。すいませんです」
今日は、久しぶりにかなりピンチな時間である。
最近はなかなか起きないといっても一応朝食を摂る時間ぐらいはあるのだが、今日は本当にギリギリである。
「はい、志貴さんの分の朝ご飯です」
「ありがとう、琥珀さん」
琥珀がお盆に乗せて志貴の分の食事を持ってくる。
ハムの乗ったトーストと牛乳と言った、こういう状況でも食べ易い朝食を用意してくれた琥珀に感謝しつつ志貴はそれを受け取り、租借する。
「ほら兄さん、早くしてください。遅れちゃうじゃないですか!」
「いや秋葉、急いでるんなら先に行ってくれても」
「いつまでもくだらないことばかり喋ってないで、早く用意してください」
「……はい」
そんないつもの朝の掛け合いをしているうちに、志貴の準備は整う。時間は8時1分。久しぶりに本当にギリギリである。
車で行けば楽々なのだが、それは志貴が嫌がるのでやめることにした。よって学校までは徒歩である。
まあ、そのために遠野家専属の運転手が一人クビになったりしたのだが、それはまた別の話。
「いってきまーす」
「いってきます」
慌ただしく玄関から出て行く兄妹を見送るメイドの姉妹。
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃいませー」
志貴と秋葉、自分たちの主人が坂を駆けていき、見えなくなると2人は屋敷に戻る。
「さあ、それじゃあ朝ご飯にしましょうか」
「はい」
使用人は主人と共に食事を摂るわけには行かない。
志貴は4人いっしょでの食事にこだわるのだが、これは長年のあいだに身についてしまった習慣なので、すぐ変えるというわけにもいかない。
それでも最近、志貴の要請によって休みの日は4人一緒に食べるようにはなった。
……いや、本当は4人いっしょに食事を取っても問題はないのだが、平日の朝食は志貴が朝早く目覚めてくれないと不可能だし、夕食は志貴が門限通りに帰ってこないと無理だ。よって、平日は必然的にバラバラになる。
まあ、志貴以外の3人で食事してもいいのだが、それだとあからさまに志貴を仲間外れにしているようで気分がよくない。
2人は食堂に戻り、朝食を摂る。メニュー自体は秋葉の食べるものと変わりはなく、姉妹で会話を楽しみながら食事を進める。
「「ごちそうさまでした」」
さすが双子、という感じで、2人揃って食後の挨拶をする。
「さあ、今日もお仕事がんばりましょー」
「はい」
「じゃあ、わたしは食器を片づけて庭の手入れをしてきますね」
すっくと立ちあがり、鼻歌を歌いながら仕事を始めようとする姉に向かって翡翠が声をかける。
「姉さん」
「なあに?翡翠ちゃん」
「とっととわたしのメイド服返して下さい」
「ちぇ」
AM9:00 琥珀 厨房
「ふふふふ〜ん♪」
厨房では、琥珀が鼻歌を歌いながら食器を洗っていた。
「きゅっきゅきゅのきゅ〜♪」
楽しそうに歌いながらもその手は休むこと無く、手際よく食器を洗いつづける。
そして、ものの10分も経つと食器洗いは終了する。
「さて、それじゃあ次は庭のお手入れですねー」
遠野家の仕事は、琥珀と翡翠の手によって分担されている。
琥珀は炊事、洗濯、庭の手入れなどなど。
ちなみに、翡翠は主に掃除、物置の整理など。
仕事の種類は自分のほうが多いのだが、この広大な館を一人で掃除している翡翠はどうみても大変そうなので、一度手伝いを申し出たことがある。
実際、琥珀の仕事は庭の手入れをそこそこに切り上げれば短時間で済み、自由にできる時間は多い。
それに比べると、潔癖症で妥協を許さない翡翠は毎日の掃除だけでも相当な時間をかけている。
以前、翡翠に手伝いを申し出たこともあるのだが、「姉さんが掃除すると、その後始末のほうが大変なのでやめてください」と真顔で断られた。
まあ、それは事実なので返す言葉も無かったが。
「お皿整理するのは大丈夫なんですけどねー」
そう。洗い終わった食器を食器棚に並べ、使いやすく整理するのは得意中の得意である。
遠野家の厨房のことなら任せとけ、と言った感じだ。
「でも、皿時計はすぐ割っちゃうんですよねー」
……もはや理論ではなく、なにか別な力が働いている気もする。
AM10:00 琥珀 裏庭
厨房での仕事の後に洗濯をし、それらを干したあと、琥珀は裏庭に来る。
そこには様々な植物が生えており、厨房での仕事が終わった後にはそこで育てている草花の手入れをすることになっている。
いつもの笑顔を浮かべたまま、そこにある植物に水をやり、雑草をむしる。
結構な重労働なはずなのだが、そんなことは微塵も感じさせず、琥珀は楽しそうに作業を続ける。
「お花さん、お花さん〜♪」
歌まで歌いながら。
まあ、おそらくは「作詞作曲:琥珀」な歌の歌詞のセンスはさておき。
そこ生えている植物は多種多様で、鑑賞用のものから薬にもなるもの、さらには……
「キジも鳴かずば撃たれまいに〜♪」
……まあ、世の中には知らないほうがいいこともある。
「あははー」
楽しそうに笑いながら作業を続ける琥珀。
まあ、いくら苦にはならない作業と言っても、量が量だけにそれなりの時間がかかる。
あらかたの作業を終え、一段落したころには太陽も高く昇っていた。
「そろそろ、昼ご飯の支度をしなきゃいけませんねー」
かがみこんで葉の手入れをしていた琥珀は、ぱん、ぱん、と着物の裾をはたき、立ち上がる。
「にゃー」
「あれ?猫ちゃん」
いつからいたのか、裏庭の片隅には黒い子猫がいた。
最近、屋敷の敷地内で良く見る猫で、最初はノラかとも思ったのだが、首につけている大きな黒いリボンときれいな毛並みを見ると、飼い猫なのかもしれない。
「ほーら、おいでおいでー」
そう言って、かがみこんでから何度か手招きしてみたが、こちらをじっと見ているだけで寄ってこようとはしない。
この前から何度かチャレンジしているが、ずっとこんな調子だ。
しばらく続けていると、館のほうから足音が聞こえてくる。
「姉さん、そろそろ昼ご飯にしませんか」
「そうね。行きましょうか」
翡翠に言われて、また立ち上がる。
「さあ、今日はパスタにでもしましょうか」
「おまかせします」
そう言いながら屋敷のほうに向かうと、少し離れたところをさっきの黒猫がついてくる。
どうやら嫌われているわけではないようで、琥珀は少しほっとした。
「……レンさんもいっしょにご飯にしますか?」
「レンさん?」
「ええ。この前志貴さまに聞きました。この子の名前です」
「レンちゃん?」
「にー」
翡翠に教えられた名前を呼ぶと、猫が返事をする。
「……志貴さんの猫なんでしょうか?」
「さあ。わたしもそう聞いてみたんですが、志貴さまはあいまいに笑うだけでしたので」
「……やましいことがありますね」
「そう思います」
姉妹が立ち止まり、猫に関して話し合っていると黒猫―レンがひょこひょこと寄ってきて、琥珀の肩にぴょん、と飛び乗る。
「あらあらあら」
レンの予想外の行動に珍しくわたわたと慌てていると、そんなものは全く気にしてないかのように琥珀の肩の上に落ち着く。
「あら。そこが気に入ったんですか?」
自分の肩の上に落ち着いたレンの真っ赤な目をみつめながら、琥珀がそう聞く。
しかし、猫のレンが返事を返すわけもなく、「?」と言う感じで首をかしげるだけだ。
「さあ、とりあえずお昼ご飯にしましょうか」
翡翠の声は耳に届かなかったのか、琥珀はやけに上機嫌で館のほうに戻っていった。
PM1:15 翡翠 志貴の部屋
午後、食事を終えた翡翠と琥珀は昼からの仕事に戻る。
とは言っても、琥珀の仕事は夕方も近くなった時間にならないと仕事はない。
それまでは自由に過ごせる時間らしいので、どこかで何か色々とやっているらしい。
しかしまあ、翡翠も命は惜しいし、琥珀が妹相手だからと言う理由で手加減するとも思えないので、不覚は追求しないことにしている。仕事もあるんだし。
さて、翡翠の仕事と言えば掃除だ。
住む人間こそ少ないが、この屋敷はかなりの広さを持っているので結構な時間がかかってしまう。
しかも、潔癖症の翡翠は掃除に対して妥協と言うことをしない。
翡翠が掃除した後は、まさに塵一つ残っていないと言う表現がふさわしい。
しかも、この広大な屋敷に対して、そんな徹底した掃除を午前中だけでほぼ完了させる。昼からは別なところの掃除だ。
そう。自分の主、遠野志貴の部屋。
「失礼します」
志貴は学校に行っているので誰もいないのはわかっているのだが、一言断りを入れてから部屋に入る。
朝、翡翠は結局志貴を起こすことのできなかったので、志貴は慌てて着替え、部屋を出ていった。
翡翠もそれについていき、そのまま屋敷の掃除を始めてしまったので志貴の部屋は朝のまま、ベッドのシーツは乱れているし、慌てて教科書を机から引っ張り出し、鞄に詰め込んだので引き出しは半分開いているし机の上には今日使わない教科書は出したままだ。
「レンさま、掃除をしますので少し席を外していただけないでしょうか」
その声を聞き、志貴のベッドの上でしあわせそうに丸まっていたレンが顔を上げ、翡翠のほうを見る。
そして、そのまましばらく翡翠のほうに目をむけ、翡翠とじっと見つめあう。
「1時間程度で終わりますから」
翡翠の言葉を聞くと、多少不満気な表情を浮かべながらベッドから降り、またぴょん、と出窓のところに飛び乗る。
「ありがとうございます」
「に」
『気にしなくてもいいよ』とでも言うかのように一声鳴くと、晴れた日差しの中でぬくぬくと丸くなる。
そして、翡翠はレンなどいないかのように掃除を始める。志貴の部屋名だけに他の部屋よりも幾分念入りに。
掃除を始めてしまうと翡翠が声を出すこともなく、レンも「我関せず」と言う感じで眠っているので特にコミュニケーションと言ったものはない。
しかし、こう見えてこの2人(1人と1匹?)は仲がいい。
その証拠に、翡翠が掃除をしていても部屋を出ていこうとはしないし、レンがいる出窓のところを掃除しようとするとレンはそこをどいて、翡翠の手によってベッドメークの終わったベッドの上にのり、また丸くなる。
しかし、ベッドの上に乗る時も極力ベッドが乱れないように静かに乗るし、むやみやたらと爪を研いだり、屋敷の中を汚したりはしない。
ある意味、非常に猫らしくないかもしれない。
ちなみに、秋葉が近づいてくるとレンは逃げる。それはもう猛ダッシュで。
秋葉が近づいてきただけで逃げ出すので、ひょっとしたら秋葉はレンの存在すら知らないかもしれない。
「……翡翠ちゃーん」
「はい?」
掃除を終え、一息ついていると窓の外から琥珀の呼ぶ声が聞こえる。
声の聞こえた窓のほうに行って下を覗き込むと、琥珀が洗濯物をとりこんでいた。
ふと、時計を見ると午後3時。かなり掃除に没頭してしまっていたようだ。
「翡翠ちゃん、お茶にしませんかー」
「はい、今行きます」
洗濯物を取り込み終わったらしい琥珀に呼ばれ、ぱたぱたと駆け出す翡翠。
しかし、部屋の扉のところで何か思い出したように足を止め、振り向く。
「失礼しました」
「にゃ」
レンの返事を確認すると、翡翠は下に降りていった。
PM3:00 翡翠&琥珀 居間
遠野家の居間。
普段、食後には秋葉がティータイムを過ごす場所であり、秋葉が登校前に志貴を待つ場所であり、朝寝坊したり門限を破ったりする志貴を秋葉が詰問する場所である。
いや、本当は家族団らんの場所なので揃って食後のティータイムを過ごし、談笑する場所である。
志貴が早起きして、門限を破らなければそう言った用途に使われるのだろうが、まあそれはありえない話である。
しかしまあ、今は詰問される志貴も詰問する秋葉も学校に行っており、不在のため、翡翠と琥珀の団らんの場所となっている。
真ん中にあるテーブルにはティーセットが並べられ、その脇にあるソファーに翡翠と琥珀が座り、最近あった出来事や夕食の献立、そして最近ではもっぱら志貴の話題で会話を楽しんでいる。
「姉さん、そのお皿は?」
床に置かれた少し深めの皿に気づき、翡翠が琥珀に問い掛ける。
「あ、レンちゃんの分です。ひょっとして来るかなー、と思って」
「レンさまは志貴さまの部屋でお休みのようでしたので、来ないのではないでしょうか」
「あー、それは残念ですねー」
珍しく、本当に残念そうに琥珀がそう言う。
普段は『裏の権力者』『黒幕』『割烹着の悪魔』『ほうき少女まじかるアンバー』などの2つ名が示すように、様々な権謀術数をはりめぐらす琥珀が、こうやって感情を隠しきれずに表情に出してしまうことは珍しい。
過去に様々なことがあり、人への接し方がひんまがってよじれてどこかに行ってしまったような姉であるが、その分、自分に対して無防備に接してくる動物にはちょっと違った感情を抱いてしまうのかもしれない。
そんなことを考え付いた翡翠は、提案する。
「レン様をおつれしましょうか。まだ志貴さまの部屋にいらっしゃると思いますが」
「え?あ、いいですよ。レンちゃんも気持ち良く休んでるんでしょうし、翡翠ちゃんもあんまりお茶飲んでないじゃないですか」
翡翠が心配してくれたことに気づき、少し「しまった」という顔をした後に普段通りの笑顔を浮かべてそう応える。
「いえ、志貴さまの部屋の掃除がまだ途中でしたので。お帰りになる前に済ませてしまわないと」
翡翠は、琥珀がなんと言おうとレンを連れてくる気のようだ。
この娘は、普段はあまり我を出すことはないが、一度決めたらテコでも動かないところがある。
しかも、それが他人を気づかっての行動だったらなおさらだ。
「ありがとう。それじゃあ、お願いしようかな」
「はい。まかせてください」
姉の言葉を聞き、優しく微笑んだ翡翠は席を立って2階の志貴の部屋に向かおうとする。
「あ、そうそう。ちょっと待って翡翠ちゃん」
琥珀はそう言って、慌てて台所のほうに走っていき、少し経つと手に皿を持って戻ってくる。
「さっき、お料理のついでにクッキー焼いてみたんですよ。すっかり忘れてましたー」
おどけたように自分の頭を小突きながらそう言う。
「それじゃあ、一ついただきます」
皿からチョコチップの入ったクッキーを一つつまみ、そのままかじる。甘みは多少抑え目に作ってあるが、美味しかった。
「今度、翡翠ちゃんもお菓子作ってみますか?志貴さんも喜びますよー?」
「……お願いします」
「翡翠ちゃんもお菓子だったら上手く作れるかもしれませんしね」
頬をほんのりと赤く染める翡翠と、その前でにこやかに話す琥珀。
少し間を置いて、翡翠の頬の赤みが取れたころに翡翠はきっを取り直すと2階に向かう。
「あ、翡翠ちゃん。迷惑ついでに志貴さんの服、しまっておいてちょうだい」
「はい。掃除が終わったら戻ってきますから」
「うん。それじゃあ、お願いね」
琥珀の言葉に微笑みながらうなずくと、志貴の服を持ち、翡翠は2階への階段を上っていった。
PM3:35 翡翠 志貴の部屋
コン、コン
「失礼します」
翡翠は志貴の部屋の前に来ると、律義にノックをしたあとにドアを開け、部屋の中に入る。
「にゃあ」
レンは、かわらず志貴のベッドの上で丸くなっていた。
「レン様、姉さんが下でミルクを用意して待っています。行ってあげてくれませんか?」
レンの赤い目をみつめ、翡翠がそう言うと、レンは嬉しそうにベッドを飛び降りた。
「にゃ♪」
部屋から出る時に一度振り返り、翡翠に向かって一声鳴いたあとにドアの隙間をくぐって下に向かう。
翡翠は無言で頭を下げ、レンがいなくなったあと、1分ぐらいしてから頭を上げる。
「さて、志貴さまの服をしまいましょうか」
そう呟くと、翡翠はテキパキと志貴の服を洋服ダンスにしまいはじめる。
本来、遠野家には衣装部屋があり、当主とその家族は服をそこにしまっておく。
自室にはせいぜい、上に羽織るものと本や小物などぐらいしか置かないのがこの家での「普通の」生活だった。
前当主の槙久もそうだったし、現当主の秋葉も秋葉も同じである。
何か物が増えたら新しい部屋を使えばいい。それだけの話である。
無論、有間の家から遠野家に戻ってきた志貴も同じような生活を送ってもらう予定で、この屋敷には志貴専用の衣装部屋も用意されているし、書斎や倉庫も使おうと思えばいつでも使える。
それらの部屋に保管されたものは翡翠が責任を持って管理する。
ちなみに、琥珀に任せると大変なことになるので却下。
さておき、そう言った部屋は用意されており、秋葉の口から説明もされたのだが、志貴は「いや、落ち着かないし私物も少ないから自分の部屋に置いてくれ」と言い、それらの部屋が役立つ機会は今のところ無い。
まあ、志貴が部屋の中に服を置いておきたいのは「落ち着かない」といった理由のほかに、明らかに「夜、屋敷を抜け出る時に不便」といった理由があるのはわかっているのだが、もう今更妨害する気もわかないし、最近では血まみれになったり死にそうになって帰ってきたり、ということが無くなったので志貴の衣服は部屋の中の衣装ダンスにしまわれている。
いや、もちろん夜抜け出したらしっかり咎めるが。ある意味日課だし。
そんな解説をしている間も翡翠はてきぱきと志貴の服をタンスにしまっていく。
志貴はそもそも、あまり服装には頓着しないほうなので服の数は多くない。
よって、数分で完全にしまい終わる。翡翠が整理しただけあって、引き出しの中は実にきれいに並んでいる。
まあ、下着をしまう時になって思わず顔を赤くして硬直してしまい、若干のタイムロスがあったりしたけれど。
引き出しの中に私服と下着をしまいおわると、次は制服用のYシャツである。
どれもこれもアイロンがかけてあり、のりもキッチリ効かせてある。
さきほどとなんら変わることのないペースでYシャツを手に取り、しわがつかないように細心の注意を払いながら1枚1枚クローゼットのハンガーにかけていく。
もくもくと作業を続ける翡翠の目に、見慣れないものが入った。
姿見だった。
服を着た人間が自分の全身を確認できるような、そんな鏡である。
まあ、この屋敷はやたらめったら広いし、姿見の5枚や6枚あったところでなんら驚くことはない。
秋葉の部屋にもあるし、琥珀や翡翠の部屋にも置いてある。
まあ、まだまだ枚数はあるはずだし志貴が姿見を持っていていけないと言うことはない。
しかし、志貴が着替えたあとにじっくりと自分の着こなしかたを確認するとは考えにくい。
毎日志貴を起こしている翡翠は知っているが、志貴が起きた後、5分以内に部屋を出てこなかったことはめったに無い。
たまにはあったが、それは二度寝してしまった時だけである。
それに、さっきこの部屋を掃除した時はなかった。
とりあえず確認しておこうと思って近づいていくと、当然翡翠の姿が映る。
その時になって、翡翠は自分が志貴のYシャツを持ったままでいることに気づいた。
慌ててクローゼットの前に戻り、Yシャツをハンガーにかけようとしたのだが……
何だか気になって、姿見の前に戻ってくる。
しばらく、鏡に映った自分を見つめた後におずおずと自分の前に志貴のYシャツを持ってくる。
デパートの服売り場で似合うかどうかを確認するようにYシャツを自分の前にあててみる。
しばらくそうしていると、先日の出来事を思い出す。
姉に「志貴さんもめろめろですよー」と言われ、半ば強引に下着の上にYシャツのみと言う姿で志貴に迫ったのだが……
ボフッ。
顔から湯気が出るのを通り越して、そんな音を立てて湯気が一気に噴出したかのように顔を真っ赤にする。
あの時は、琥珀がどこからか調達してきたYシャツを着たのだが……今、翡翠は志貴のYシャツを手に持っていた。
しばらく、鏡の前に固まっていた翡翠だったが、意を決したように、再度鏡を見つめる。
階下に向かって耳を澄ませてみると、琥珀の楽しそうな笑い声が聞こえる。
恐らくレンといっしょに楽しく過ごしているのだろう。
それを確認した後にまた鏡のほうを見つめ、手に持っていた志貴のYシャツを、まるで壊れ物を扱うかのようにベッドの上に置く。
再び姿見の前に立ち、じっと見つめる。
そして、背中の方に手を回してエプロンの結び目をほどく。
しゅる
背中の結び目がなくなったことによって、今まで固定されていたエプロンは重みに負けて床に落ちる。
エプロンが無くなって、下に着ていた黒い服だけの姿になった翡翠は、そのまま迷いの無い動作で胸元のリボンを解いた。
ほどいたリボンを外して足元に落とすとそのまま迷い無く胸元のボタンを外す。
そして服を脱ぎ、下着を外す。
ぱさ、ぱさ。
全ての衣服を脱ぎ、生まれたままの姿になった翡翠はベッドの方に近づき、先ほどそこに置いた志貴のYシャツを手に取る。
Yシャツを両手で持ち、しばらくボーっとした目で見つめた後に、それを着た。
志貴の背丈は、同年代の若者と比べると特に大きいわけではないが、それでも翡翠と比べるとふた周りほど大きい。
袖や裾はかなり余り、肩幅もあっていないので何かの弾みでまたずり落ちそうである。
『志貴さまの……匂い・・・・・・』
ボーっとした頭でそんなことを考えつつ、志貴の匂いを全身で感じる為に、翡翠はそのまま志貴のベッドに倒れこんだ。
PM5:17 志貴&秋葉 遠野の屋敷へと登る坂
「へえ。そんな競技もあるんですか」
「うむ。うちの生徒はそもそもお祭り好きの奴が多いらしくって、学園祭や体育祭ともなるとそりゃあすごい騒ぎになるんだ」
「それは楽しみですね。浅上は基本的に大人しい生徒ばかりですから、そう言った催し物でも今ひとつ盛り上がらないんですよ」
遠野家へと買える道。
いつもの坂を登りながら志貴と秋葉は間近に迫った体育祭のことを話していた。
普段ならばここにアルクェイドとシエルもやってきて大騒ぎになりそうなものだが、今日はそうではないらしい。
「いやしかし、秋葉とこうやって二人で帰るのも久しぶりだよなあ。いつもは他に誰かいるのに」
「ええ。本当に珍しいこともあるものです」
―そのころ学校の裏庭ではー
「……うにゃー、妹めー……」
「……問答無用で直接攻撃とは……段々手段を選ばなくなってきましたね……」
アルクェイドとシエルが瀕死の重傷を負っていた。
「シエルー、あんた再生能力はどうしたのよー」
「ロアが死んでから、再生能力はかなり弱くなってるんです。なくなってはいないですけど。それより、死徒殺しの真祖の姫がなんで島国の吸血種にやられてるんですか」
「妹の『略奪』だけなら負けないわよー。この前見せたとおり」
「じゃあなんで」
「『共有』の能力で、ニンニクの臭いをありったけ送られたのよー。多分昼ご飯にでも食べた奴を」
「……無様ですね」
「にゃにおー!体治ったらこんどこそけちょんけちょんのぱーにしてやるー!!」
「……望むところです。10分もしたら動けるようになりますから、今日こそ因果の環から外してあげます」
「言ったわねー。後で吠え面かかせてやるー」
「それはこっちの台詞です」
……どうやら、今回は二人の出番はないようである。
―再び、帰り道―
「それじゃあ、見舞いにでも行ったほうがいいかなあ」
「……兄さんは、私といっしょに帰宅するのが嫌なんですか?」
志貴の言葉を聞き、秋葉は少しむくれてそう言う。
「あ、ごめんごめん。そんなつもりじゃないんだ」
「知りませんっ!」
志貴のフォローしつつの笑顔を見て、秋葉は少し拗ねたようにそう言うと道の前の方を向き、すたすたと歩き去る。
「悪かったよ秋葉、機嫌直せって」
「怒ってなんかいませんっ!」
後ろからの志貴の声を聞きながら、秋葉はすたすたと早足で歩いて行く。
まあ、早足とはいっても男の志貴からすれば結構簡単に追いつける速度ではあるが。
『兄さんはどうして誰にでもあんな笑顔を向けるんですかっ!』
そんなことを考えながら秋葉は歩いて行く。
志貴は、どうも昔から自分のことを過小評価しすぎるきらいがある。
ルックスも学力も、抜群とはいえなくても上のほうではあるし、運動神経は……貧血もちではあったが、一連の事件が終わってからはそれもなくなり、100%ではないにせよ健康体に近くなってきている。
そうなると、遠野家に来る前に七夜の里でそれなりの訓練をつんできた蓄積もあり、相当なものがある。
なんといっても、『眼』さえなければ肉体的には普通の人間と変わらないと言うのに、遠野の血を色濃く継ぐ自分や、吸血鬼の真祖のアルクェイド、埋葬機関の第七位のシエル、それに加えてアルクェイドやシエルが苦戦していた死徒、『混沌』ネロ・カオスや、反転して強化された遠野シキの体を乗っ取った『アカシャの蛇』ミハエル・ロア・バルダムヨォンといった者たちと戦い、それらを潜り抜けてきたのだ。
これで運動神経が悪いとか言うわけはないだろう。
……話がずれた。
さておき、そんな恵まれた能力を持ち、さらには実質三咲町を牛耳っているといっても過言ではない遠野家の長男である。
どうして自分が「女性に人気がない」とか思えるのか。
「ごめんごめん。秋葉と帰るのが楽しくないわけじゃないんだ。そう拗ねるなって」
考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか志貴が自分を追い抜き、目の前に立ってそう言った。
「な?」
……秋葉が弱い笑顔を向けながら。
「……べ、べつに拗ねてなんかいませんっ!」
思わず赤くなってしまったであろう顔を志貴からそむけ、そう叫ぶ。
「それならいいんだけど。もうすぐ家だし、帰ったらゆっくりと体育祭の説明でもしてやるよ」
「しょ、しょしょしょしょしょうがないですねっ!兄さんがそこまで言うならお付き合いしますっ!」
志貴の顔をマトモに見ることのできない秋葉は、やっとのことでそういうとすたすたと歩いて行く。
志貴も、それを見て微笑ましげに笑いながらついてくる。
全く持って、志貴は天性の女たらしだと思う。
本人は無意識にやっているのだろうが、あの笑顔とそつないフォローはまずい。
くらっとくる。大抵のことは許せる。いや、アレは反則。
『まだ、故意じゃないだけマシですけど』
そんなことを考えながら、坂を登る。
しかし、故意では無くとも自然に行ってしまうらしく、それに「くらっと来てしまった」女性は数多い。
今まで聞いた限りでも自分をはじめ、アルクェイドにシエル、琥珀に翡翠、さらには同級生の弓塚とか言う娘に、秋葉の後輩の瀬尾晶。
『……まさか、ほかにはいませんよね』
7人ほど数えたところで、再確認して見る。
実はこれに加えて夢魔のレンと、ひょっとしたら志貴の「先生」マジックガンナー・蒼崎青子もはいるかもしれないのだが、幸いながら秋葉はそれを知らない。よって、今のところ秋葉の心は落ち着いた。
そうして、二人で会話のような会話になってないような言葉のやり取りをしていると、やがて屋敷の前に到着した。
「あれ?」
「どうしたんですか?兄さん」
不思議そうな顔をしている志貴に向かって秋葉が問いかける。
「いや、いつもだったらこの時間には翡翠が出迎えてくれるはずなんだけど……」
そう言われてみれば、翡翠がいない。
普段、秋葉が志貴より早く帰ってくるときにもじっとここで待っていると言うのに。
「最近、兄さんがまともに帰ってくることなんかめったにありませんでしたから翡翠も愛想をつかしたんじゃないですか?」
「……今日は随分絡むな。秋葉」
「知りませんっ!」
自分といっしょにいると言うのに翡翠のことばかり気にする兄に向かって秋葉はそう言うと、自分で門をあけてずかずかと中に入って行く。
「秋葉―」
「何ですかっ!」
秋葉はいらだたしげにそう応える。
「10分ぐらいしたら今に来ないか?体育祭の話の続きしたいから」
「……え、ええ。10分後ですね?」
「うむ。まあ、少しぐらい遅れてもいいけど」
「いえ、ちゃんと10分後に行きますから。兄さんも遅れないで下さいねっ!」
秋葉はそう言うと館の入り口の扉を開け、挨拶しようとしている琥珀を尻目に、自分の部屋へと向かった。
急ぎながらも走ったりしないところはさすがだが。
「いっつもああだったら可愛いのになあ」
……やはり、志貴は天性の女たらしらしい。
PM5:30 志貴 志貴の部屋
「ふう、やれやれ」
あのあと、館の中に入ってみても翡翠はいなかった。
今を見てみると琥珀が黒猫の姿をしたレンと遊んでおり、翡翠はいなかった。
琥珀に聞いてみると、「志貴さんのお部屋を掃除するって言ってましたよー?」とのことだった。
まあ、翡翠に出迎えてもらえないことが不満とかそう言うわけではないが、普段と違うと言うのは何か落ち着かない。
でもまあ、今日は秋葉と待ち合わせ(と、いうほどのものでもないが)をしているので、あまり無駄な行動は取れない。
珍しく機嫌がいいし、その、なんだ。この前迫られて以来、なんだか秋葉を意識してしまう。
まあ、色々あったのでもう「妹」って感じがしなかったのは事実なんだが……
「ああ、もうっ!」
うだうだ悩んでいてもしょうがないので、とりあえず着替えて下に降りることにする。
自分から誘っておいて遅れたんでは、何を言われるかわかったもんじゃない。
「さて、そんじゃ着替えますかね」
そうつぶやきながら自分の部屋のドアを開け、中に入る。
見慣れた自分の部屋。
一応暖炉や机、洋服ダンスに小物入れ。後はベッドと、床に散らばるメイド服。どれも、いつも見慣れたかわりばえのしないモノばかりである。
とりあえず、当初の予定通り洋服ダンスのほうに近づき、着替えを
「……メイド服?」
私服に着替える為に制服を脱ぎ、とりあえず下のズボンをはき慣れたGパンにしたところでふと気付いた。
深呼吸して気を落ち着け、もう一度部屋を見回す。
暖炉……よし。備え付けてあり、ここに来たときからずっと存在している立派な暖炉である。冬はこれに火を入れ、暖を取る。
机……これもよし。元々置いてある机で、彫刻が施されたりしているので結構な値打ちものだろう。一度、落ち着かないのでもう少し安っぽい机にしようかとも思ったが、この屋敷との釣り合いを考えるとこれでいいのかとも思い、そのままにしてある。
洋服ダンス……問題無い。元々は無かったのだが、部屋が広すぎて落ち着かないし、いろいろと不便なので物置から引っ張り出してきた。いまさっきGパンを引っ張り出したところだ。次は上に着るシャツを引っ張り出す。
小物入れ……まあ、引き出しつきの小さなタンスと言うか何と言うか。もともと物を持つほうでもないので、これだけで事足りる。
ベッド……来たばかりのころは、豪華すぎてなんだか落ち着かず、あまり眠れなかったベッドだ。最近は慣れたのでそれはもう必要以上に眠れるが。
今はベッドの中で翡翠が寝ており、時折身じろぎをしている。余り深く眠れてはいないようだ。
次に問題のメイド服……
「ちょっと待て」
自分のベッドに翡翠が寝ている。翡翠も毎日働いていて疲れてはいるだろうが、ここで寝ているのはまずい。
秋葉や琥珀さんに見つかったらなんて言われるか。
「おーい、翡翠。起きろー」
枕もとに立ち、呼びかけて見る。返事はない。
「おーい。翡翠―。おーきーろー」
先ほどより幾分強めに呼びかけてみるが、反応はない。
……なんだか、普段の逆襲をされている気分になってきた。
なんだか、「負けてたまるかっ!」って気分になってきた。
「こら翡翠。起きろっ!」
ばさっ。
上にかかっている薄手の布団をはぎ、そう声をかける。
……マタデスカ?
そこに眠る翡翠は、裸の上にYシャツしか着ていなかった。しかもかなりぶかぶか。
ギギギギギギ
そんな音が立ちそうな動きで首を回し、床を見る。
さっき確認した、脱ぎ捨てられただろうメイド服一式と、靴と下着。
ああ、そうか。翡翠が全部脱いだからメイド服が床にあるのか。バッチリ謎は解けた。
これで何事も問題……
「問題あるってば」
今、当面の問題は「何故、床にメイド服が落ちているか」ではない。
『どういったわけか翡翠が裸の上にYシャツ1枚で自分のベッドに寝ている』ということだ。
「翡翠、起きろって!起きて服着ろって!!」
幾分声を荒げながら、志貴は翡翠に呼びかけつづける。埒があかないので肩に手をかけ、ゆさゆさと揺さぶりながら。
「うぅん……」
しばらく続けていると翡翠がうるさそうにうなる。起きる前兆っぽい。
「よし。おーい、翡翠―。起きろー。起きないと大変だぞー」
先ほどよりもしっかりと肩を掴み、ゆさぶる。
「ううん……志貴、ちゃん?」
「おお、翡翠。早く起きろ!」
やっと目覚めた翡翠は、どうやらまだ寝ボケているらしい。
普段だったら翡翠が自分を呼ぶ時は「志貴さま」なのに、今は、昔―まだこの屋敷に遠野シキがいた8年前―のように「志貴ちゃん」と呼んだ。
まあ、普段「志貴さま」と呼ばれるのも少し恥ずかしいが、昔のようにちゃんづけもちょっと勘弁して欲しい。
っていうか、今はそんなことを言ってる場合ではない。
「こら翡翠!いいかげん寝ぼけてないで起きないと大変なことになるぞ!」
そろそろ焦りも限界に来た志貴は、ベッドの上に上がって翡翠の上に覆い被さるような体勢で揺さぶる。
ちょうど、格闘技で言うマウント・ポジションの体勢が近いだろうか。
また眠りそうになる翡翠を懸命に揺り起こす。
「こら翡翠!いいかげんにしないと……」
「どうなるんですか?」
世界は凍った。
そんなわけはないんだが、その場の空気は確かに凍りついたような気がした。
少なくとも志貴にとっては。
声が聞こえた、部屋のドアの方をゆっくりと、ほんとうにゆっくりと振り向く。
するとそこには志貴の妹であり、遠野家の当主であり、この屋敷の主である遠野秋葉が腕を組み、こちらをしっかりと見据えながら立っていた。
ちなみに赤毛だった。とっても鮮やかな。
時計を見る。
壁にかけてある、美術的価値も高そうな時計は午後5時45分を指している。
「えーと。正確な待ち合わせ時間は決めていなかったのだから、5分過ぎたぐらいで迎えに来るってのもどうかと思うぞ?秋葉」
「ええ。多少はそんな気もしていましたが、兄さんとゆっくりお話をする機会と言うのも久しぶりなので、迎えに来てしまいました」
「えーと。俺ってそんなに信用無いかなあ?」
「いえ。それほどでもなかったんですが、どうやら評価は見直さなければいけないようですね」
「いや、見直さなくてもいいと思うぞ?」
「いいえ。妹を待たせておきながら、あられもない姿をした自分のメイドに欲情して半裸で押し倒すような人に対しては正当な評価だと思います」
「えーと。兄弟の間で誤解があるってのは悲しいことだと」
「ふわぉ〜あ」
志貴と秋葉が緊迫した会話をする中、翡翠が目覚めた。
「あ、志貴さま。おはようございます」
そう言いながら、翡翠が半身を起こす。
すると、もともと着ていたYシャツが大きく、そのシャツの両肩を志貴が握り占めていた為にするするとYシャツが脱げ落ち、翡翠の上半身があらわになる。
下着もつけていなかったため、必然的に上半身は丸裸だ。
その時、志貴の部屋にいた3人―志貴、秋葉、翡翠がそんな状況で、数瞬の間固まる。
「……」
「……」
「……」
最初に動いたのは翡翠だった。
決して叫び声を上げたりせず、自分を抱きしめるように縮こまった後に、顔を真っ赤にする。
そして、その両目からはじわじわと涙がにじみ始める。
「ちょ、ちょっと待て翡翠!誤解だっ!誤解してるっ!」
志貴が慌ててフォローを入れるが、時は戻らない。
「兄さん……」
「ちょっと待て秋葉っ!なんかお前の周り、紅い靄がかかってるっ!!」
「ええ、兄さん。これが紅赤朱です。人外の血を引くものがその力を最大限に引き出した時に見える力の奔流。この力の全てを使い……あなたの全てを『略奪』します」
「ちょっと待てえっ!!!」
「志貴さま……寝ている間に無理矢理なんて……」
「翡翠も火に油を注がないっ!!」
「大丈夫です。存在全てを「略奪」されてしまえば、兄さんは私の中で永遠に行きつづけられます。生涯を二人で歩みましょう」
「ちょ、ちょっとまてえぇぇぇぇっっっ!!!!!」
志貴の絶叫とともに、秋葉を中心に真紅の髪の毛が縦横無尽にはりめぐらされていった。
PM5:50 琥珀&レン 居間
「ちょ、ちょっとまてえぇぇぇぇっっっ!!!!!」
2階のほうから志貴の絶叫が聞こえてきた。
「あーあ。秋葉様、本気ですねー」
くすくすくす、といつものように笑いながら琥珀が言う。
「にゃー」
「そうですよ。レンちゃん。志貴さんはみんなのものなんですから。一人占めはいけません」
「に」
「ええ。前回は秋葉様が1歩リードしてましたけど、今日ので翡翠ちゃんも並んだでしょう。チャンスは公平じゃなきゃいけませんよね」
「にゃあ」
志貴の部屋から生死を賭けた戦いの音が聞こえてくる中、翡翠とレンはまるで言葉が通じているかのように会話をしていた。
「にぃ」
「あらあら。だめですよレンちゃん。そのクッキーにはお薬が入ってるんですから。レンちゃんもあれに巻き込まれたくないでしょ?」
「むにぃ」
「ええ。ここで2人で志貴さんの無事をお祈りしましょう」
「たぁすけてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
志貴の絶叫を聞きながら、琥珀とレンは奇妙な友情を結びつつあった。
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