会長、風邪をひく
「中浦〜、中浦〜」
そろそろ正午になろうというころ、目的地に着いたわたしは電車から降りた。
手には大きなスポーツバッグ。
いつもは部活に行く時に使う鞄だけど、今日はバスケットボールもバッシュも入っていない。
中に入っているのは十日分の着替え。
お母さんは「もっと少なくして向こうで洗濯させてもらえばいいじゃない」とか言ってたけどそう言うわけには行かない。
離れ離れになってからもう一ヶ月。
久しぶりに会うのだから、しっかりとお洒落したい。それが乙女ごころというものだ。
そう、わたしは電車でたっぷり三時間かけて会いに来たのだ。
わたしの、世界で一番大切なお兄ちゃんに―――
「僕、藤ノ宮付属に行く」
お兄ちゃんがそんなことを言い出したのは去年の夏ごろだった。
わたしだって知っている進学校の名前。
遠く離れているその学校に、どうしてお兄ちゃんが行こうとしたのかはわからない。
それを聞いたお父さんは『よし、愛かったら行ってもいいぞ。住む場所とかは何とかしてやる』と言ってその時は終わった。
まあ当然だろう。お兄ちゃんの成績は悪くないけど良くもない。しいて言えば中の上って感じ。
だからお父さんも記念受験みたいな感じで受けさせたみたいなんだけど……
見事に受かった。
あれはさすがにびっくりした。
先生に聞いてみたけど、うちの学校であそこに進んだ人は始めてらしい。まあ距離の問題もあるだろうけど。
でもまあそんなわけで、お兄ちゃんは約束どおり向こうでマンションを借りて引っ越していった。
少し寂しかったけど笑顔で見送った。ここで泣いて引き止めるなんてみっともないことはしたくなかったから。
「じゃあがんばってね、お兄ちゃん」
「うん。イサも休みになったら遊びにおいでよ」
最後に交わした言葉がとっても嬉しくて、我慢できずにちょっと泣いてしまったけど、最後は笑顔で見送れたから良かったんだと思う。
まあそんなわけで兄妹の感動的な別れの日から一ヶ月。正確にいうなら三十五日。
ゴールデンウィークになったのでお兄ちゃんの家に遊びに行くことにしたのだ。
今日来ることはお兄ちゃんには伝えていない。
久しぶりに会うんだからびっくりさせたかったので、お母さんに電話してもらったのだ。
『優、あんた今度の連休何か予定あるの?』
『全然。生徒会の仕事もないらしいからゆっくりしてるよ』
そんな電話の内容を聞かせてもらって、さすがにびっくりした。
生徒会に入るのがおかしいとは言わないけど、一年生が−しかも入学したばかりの生徒が生徒会に入るってのはなかなか無いことだと思う。
さすがわたしのお兄ちゃん。
『仕送り送ってあげるから、今度の休みは一日家にいなさいよ』
『うん、わかった』
お母さんに裏工作もしてもらってばっちり。
さすがに留守の家の前で途方にくれるのは勘弁してもらいたい。
それに嘘はついてない。
わたしが持ってるスポーツバッグの中にはお母さんからの仕送りも入ってるんだし。
そんなことを考えつつ、地図を頼りに歩くこと三十分。
目的地に到着した。
始めてみるけど、結構立派なアパートだ。
なんでもお父さんの友達が大家をしているマンションで、家賃も大分負けてもらってるらしい。
「307、307……」
お父さんから渡されたメモには『第二藤村コーポ307号室』と書いてある。
階段を上がり、三階に。
最上階の一番端がお兄ちゃんの部屋だった。
表札にはしっかり『朝倉 優』と書いてある。
「すぅー、はぁー。すぅー、はぁー」
深呼吸をして心を落ち着け、携帯用の鏡で自分の顔をチェック。
にっこり笑う。
うん、問題なし。
ちょっと汗かいたのでそれだけ拭いて、扉の横にあるチャイムに指を伸ばす。
ピンポーン
反応が無い。
ひょっとして留守だろうか。
お母さんの電話を忘れてしまったんだろうか。
それは困る。
とても困る。
でも、ふと見ると電気のメーターは回っている。
ひょっとしてチャイムが聞こえなかったのかもしれない。
「よし」
もう一度深呼吸して、チャイムを鳴らす。
ピンポーン
「はーい」
よかった。今度はチャイムがなったらすぐに中から女の人の声で返事が……女の人?
がちゃ。
ドアが開いて中から女の人が顔を出す。
うん、女の人だ。髪は短いし背は高いけど、誰がどう見ても女の人だ。
ああ、あれだ。
うっかり隣の家のチャイム鳴らしてしまったんだろうか。
お母さんに『イサミ、はしゃぎすぎてドジするんじゃないわよ』って言われたのになんのこと……ってそんなわけはない。
さっきも確認したけど表札には確かに『朝倉 優』とある。
えーと、つまり。それは。
「あの、どちらさま?」
女の人に聞かれた。
いけない。ここでおろおろしてても始まらない。
疑問があるなら払わなきゃ。
「あの、えーと。ここは朝倉優さんのおうちだと思うのですが」
動揺を抑えきれず、ちょっとどもりながらそう聞くと、女の人は『うーん』と少し考えてからにっこり笑って口を開いた。
「私、ここに住んでるの」
世界が凍った。
ワタシココニスンデイルノ。
『ワタシ』=この女の人が
『ココ』=お兄ちゃんの家に
『スンデイルノ』=暮らしているってことだろう。
でもつまり、それは。
「あの、えーと、それは。お兄ちゃんと」
「ああ、優くんの妹さん? 私のこと、お義姉ちゃんって呼んでいいのよ?」
世界が砕け散った。
ワタシノコトオネエチャンッテヨンデイイノヨ。
『ワタシノコト』=この女の人のことを
『オネエチャンッテ』=義理の姉と言う意味でお義姉ちゃんって
『ヨンデイイノヨ』=呼んでくれても問題無いってことだろう。
っていうかそれはお兄ちゃんがこの人と
「葵さん、戻って来ないと思ったら何やってるんですか……ってイサ?」
思わず意識がどこかへ旅立ちそうになる中、そんな声でなんとか留まった。
男の人の声っていうか、わたしのことを『イサ』って呼ぶ人は一人しかいない。
「お兄ちゃん、この人と結婚するの!?」
「あ、葵さんまた性質の悪い冗談を!!」
玄関先まで出てきたお兄ちゃんの胸倉を掴んで問い詰めると、お兄ちゃんはさっきの女の人−葵さんって言うらしい−に即座に食って掛かった。
そしてその女の人は
「はっはっは。ごめんごめん」
すっごく爽やかに笑いながらあっさりそう言った。
「えーと、さっきのは……」
「ああごめん、嘘」
また、すっごく爽やかに否定された。
ああ、産まれて始めて知った。
爽やかな笑顔って使いようによってはこんなにムカツクものになるんだ。
「まあここで立ち話もなんだし。中に入ってもらったら?」
「いやここ、僕のうちなんですけど……」
「じゃあ、妹さんそのまま立たせとくの?」
そう言われてお兄ちゃんはわたしのほうを向いて、ほっぺたをぽりぽりと掻いた。
照れてる時のお兄ちゃんの癖。
「まあ、とりあえずどうぞ」
「そうそう。何も無いけど遠慮しないで」
「いやだからここ僕のうちなんですけど……」」
お兄ちゃんは一応抗議してみるけど、葵さんはにやにやと笑ってるだけだ。
それを見て諦めたように「ほら、荷物」って言ってわたしのバッグを受取ると、奥の部屋に引っ込んでしまった。
そして葵さんはさっきから何も変わらず笑顔を浮かべながら目の前に立っている。
「ほら。えーと、イサ……」
「イサミです」
「うん。じゃあイサミちゃん、中に入りなよ」
そう言って今度はわたしの方に笑顔を向ける。
さっきまでの人をからかうような笑顔じゃなくて、優しい笑顔。
でも警戒を解くわけにはいかない。
警戒を解く前にひとつ聞かなきゃいけないことがある。
「あの、葵……さんでいいですか?」
「うん。何?」
「葵さんはどうしてここにいるんですか?」
ここ。もちろん『お兄ちゃんが一人暮らししている家』という意味で。
あんまり威張れた話じゃないけど、『その辺の不良なんか即座に逃げ出す』と評判の眼力を込めて睨みつけながら。
でも葵さんは、全然気にした風もなく変わらない口調で聞き返してきた。
「優くんが生徒会の手伝いしてるって話は?」
「聞いてますけど」
「私、そこの副会長なのよ。それで今日は他のメンバーと一緒に優くんのうちに遊びにきてるの」
もう一度じっと見つめる。
それでも葵さんは全く目をそらそうとしない葵さん。
「……嘘はついてないみたいですね」
それだけはわかった。
まだ全部を信じるわけにはいかないけど、やましいことはなさそうだ。
まあ、性別はともかく休みの日に遊びに来る友達がいるってことはいいことだと思う。
「じゃ、納得してもらったところでどうぞ」
促されて、小さく「お邪魔します」と言って中に入る。
「ここが居間ね」
ここまで自然にこの家に馴染んでいるというのはなんだか腹が立つ。
やっぱりこの人は警戒しなきゃいけない――
「まあ、安心しなさい。私が貴女の義姉になることはないから」
「いやなにをそんなわけのわからないことをいってるんですか」
慌ててとりつくろったけど、全然効果はないみたいだった。
葵さんはまた楽しそうに――さっきお兄ちゃんをからかっていたときみたいな顔で笑って、言葉を続ける。
「貴女の義姉さんになるのはこっちの娘」
「はい?」
思わずそう聞き返したけど、葵さんはそんなこと気にせずふすまを開けた。
そこには。
「あの、えーと。お久しぶり―――」
「何でアンタがこんなとこにいるのよっ!!」
そこにはお兄ちゃんと、何故だか顔を赤くして慌てふためきながらわたしに挨拶してくる憎いアンチクショウがいた。
後に藤ノ宮大学付属高校生徒会副会長が語る「嫁姑十日戦争inゴールデンウィーク」が今始まった。