――その日は朝から騒がしかった。
騒がしい物音と、もれ聞こえてくる話し声で目が覚めた。
枕もとに置いてある携帯電話を手にとり、そのディスプレイを見る。
11:39
「もう昼間じゃねえか」
誰が聞いているわけでもないが、とりあえず文句を言ってもぞもぞと起き上がる。
どうやら外には誰かいるらしく、芸術的なまでに防音効果が皆無な壁を通して
「――いの字ならその部屋だ。物音がしたから、もう起きたとは思うが」
「ありがとうございます」
そんなみいこさんと他一名の会話が聞こえる。
いかんいかん。呆けてないで早く目を覚まさないと、誰だか知らないがぼくの部屋に――
「師匠ー、起きてますですかー?」
誰かって言うか姫ちゃんが来た。
結構遠慮なくどんどんと扉を叩いている。
ああ、そうか。そういや今日は姫ちゃんが引っ越してくる日だっけ。
一昨日連絡があって「じゃあ朝から手伝うよ」「それは非常に助かります。ししょーがいれば鬼に鉄棒ですよ」とか惜しいやり取りをした記憶がある。
姫ちゃんにしては結構合ってた。
ああ、そうだ。だから今日は早起きして引越しを手伝う予定だったんだけど――まあ、予定は予定だ。
そもそもこの戯言遣いの言葉を信じることのほうが間違っている。
言っててちょっと自分でもどうかと思うが敢えてそこからは目を逸らそう。
「ししょー? 起きてないですか?」
「非常事態なのかもしれません。紫木、突入しますよ」
「起きてる、起きてるよ!」
ぼうっとしていることすら許されない。
築何年か数えることすら嫌になったこのおんぼろアパートでは室内から外の人間の声を聞くなんて朝飯前だし、その気になれば扉を吹っ飛ばして突入することなんて児戯にも等しいが、そんなことをされては困る。
このアパート出て行くときに敷金が返ってこなくなる。
いや、そもそも払ってないけど。
まあさておき敷金云々の問題がなくとも扉が無くなってしまうと色々と不都合がありそうなので、ぼくは慌てて玄関に向かう。
そして安っぽい鍵を開け、一応引越しを手伝うと言う約束を反故にしてしまったことを詫びるために「ごめんごめん」と口に出しつつドアを開けると
「ゆらーりぃ……」
死人がいた。
そのまま扉を閉めた。
「ししょー?」
扉の向こうから姫ちゃんの抗議の声が聞こえた。
いや、それどころじゃない。
まあ待て落ち着け戯言遣い。
状況を整理しろ。
さっきから声がするので姫ちゃんがこのアパートに引っ越してきたのは間違い無い。
空き部屋は一階しかないはずだからあそこだろう。七波の隣ということには同情を禁じえないが。
まあとりあえず姫ちゃんが引っ越してきてぼくの部屋に挨拶に来た。
それは問題ない。
というかこれから付き合うことになる近所の人に対する作法としては当然のことだ。
僕はしなかったけど。
ダメじゃねえか。
「ししょー?」
ドンドンドンとまたノックが再開された。
まあとりあえず現状までは許容した。
そして姫ちゃんはどうやらこの戯言遣いの弟子を自負しているらしいので、そうすると弟子が師匠のところに挨拶に来るのは当然だろう。
そう思ってさっきドアを開けたら死人が――いや、僕の目の前で結構無残に死んでいたはずのあの娘がいたので驚いた。
しかし、落ち着いてみればただそれだけだ。
死んでいたはずの人間が生きていたことなんて――
「やっぱり非常事態なのかもしれませんね。西条、突破しな――」
「待て待て、今開けるから!」
ぼくの部屋の扉の無事と、今後の風通しに比べれば些細な問題なので慌てて扉を開けた。
そして扉の前にいた娘は
「ししょー、今日からよろしくお願いしますですです」
戯言遣いの弟子である《病蜘蛛(ジグザグ)》紫木一姫と、
「おねがい……します」
前会ったときのように、独特のリズムでそういう《闇突》西条玉藻と、
「末永く――よろしくお願いします」
そう言ってにこりと微笑む《策士》萩原子荻と、
「いの字、相変わらずモテモテだな」
隣の部屋の前でそこはかとなく冷ややかな目をしてこっちを見つめるみいこさんだった。
なんだか大ピンチな気がするけど、みいこさんには後でしっかり説明すれば問題ないだろう。とりあえずそういうことにしておく。
断じてそういうことにしておいて、ぼくは三人に挨拶を返す。
「ああ、うん。こちらこそよろしく」
まあ、引っ越してくる人間が一人でも二人でも三人でも――そして、その中に死人が一人いようと二人いようとたいした問題では無い。
元々このアパートに住んでいる人たちは癖のある人たちばかりだし、ぼくの周りなのだからそれぐらいの非常識が起きることぐらい、しっかりきっかり、何の問題もなく許容範囲だ。
しかしまあ、なんというかこの展開を前にして、ぼくがいえることはと言えば唯一つだけ。
「本当に――戯言だ」
近所の工場の、正午を告げるサイレンの音を聞きながらそう呟いた。
12:17
時計の無い(と言うか家具自体ほとんど無い)我が家において唯一時刻を知る手段である携帯電話のディスプレイはそんな数字を表示していた。
つまりさっき衝撃の再会を果たしてから十数分。
あの後みいこさんはさっさと自分の部屋に戻り、廊下にはぼくと女子高生三人が取り残されたので、とりあえず部屋に上がってもらった。って言うか上がりこまれた。
「適当なところに座ってよ」と言う間もなく三人とも思い思いに場所を決め、その配置から僕は姫ちゃんと玉藻ちゃんの間に座ることになった。
せめてもの逆襲とばかりに「まあ冷たいものでも飲んでよ」と三人に水道水をコップに入れて渡してみたが、玉藻ちゃんと姫ちゃんはそのまま普通に飲んだ。姫ちゃんにいたってはお替りまで要求してきた。子荻ちゃんはちょっと微妙な表情を浮かべたけど結局飲んで「結構なものを」と返してきた。
いかんぞ戯言遣い。自分の部屋と言うある意味究極に近いホームグラウンドにいると言うのに、防戦一方になってしまっている。
落ち着け。
ここはあの高校じゃない。
澄百合学園は――首吊高校はあの後、赤い請負人の手によって完全無欠に完膚なきまでに、一切漏れ無く廃校になったはずだ。
いくら目の前の三人がもう無いはずの学園の制服を着ていようと、ここは京都の骨董アパート、戯言使いの自宅なのだ。
「えーと、それじゃあ質問させてもらっていいかな」
「ええ、どうぞ」
僕の質問を予測していたのだろう、ちょうど向かいに座る子荻ちゃんがそう答える。
それはこっちも予測していた。
ぼくの質問に――戯言遣いの問いに答えるために必要な能力は《闇突》の速度や突破力ではなく。《ジグザグ》の捕縛力や殺傷力ではなく。《策士》の思考と弁舌に他あるまい。
「最初に、一番気になっていることからいいかな?」
「はい。隠し立てするつもりはありませんから、なんなりとどうぞ」
勿体ぶったぼくの問いに、子荻ちゃんも楽しそうにそう答える。
ああ、やっぱりこの子との会話は楽しい。
ただの言葉に思考を巡らせ、ただの会話を策戦とする、心地よい緊張感を持った会話は他の誰ともできそうにない。
「子荻ちゃんと、玉藻ちゃんは――どうして今ここに生きているのかな?」
そう、それが最大の疑問。
今ぼくの目の前でにこやかに微笑む二人――いや、片方はちょっとそういう感じの表情では無いが――萩原子荻と西条玉藻はあの日、首吊高校が無くなった日、他ならぬ紫木一姫に、その全身をジグザグにされて死んだはずだ。
しかしそんなぼくの質問も当然予測していたようで、策士はその口を開き、自らの言葉を武器として、戯言遣いに投げかける。
「それが策士の策です」
大暴投だった。
意味がわからなかった。
暴投っつーかもう例えるならばキャッチャーを狙わずピッチャーマウンドから観客席目掛けて160kmオーバーの豪速球をぶち込んだ感じだった。
バッターボックスでどんな球を打とうかと思案にくれていたぼくとしては唖然とするしかなく、どうしたものかと思っていると子荻ちゃんはもう一度言葉を発した。
「では逆に聞かせていただきますが。あの時あの場所で、貴方は西条の死亡を確認しましたか?」
「それはもちろん――」
今度は速度もコースもほどほどのボールだったので反射的に答えようとしたが、すんでのところで思いとどまる。
それを見て子荻ちゃんは楽しそうにくすりと笑い、何も言わずに僕の返事を待っている。
危なくまんまとひっかけられるところだった。
確かにあの時、首吊高校の中庭で西条玉藻の切断された頭部を――生首を見た。
しかしそれをじっくりと見たのか、それは確かにまごう事無く西条玉藻のものだったのかと問われると、そうであるとは言い切れない。
あの時ぼくは確かに人間の頭部を確認し、驚愕するのと同時に姫ちゃんに突き飛ばされ、その一瞬後に子荻ちゃんのクロスボウの斉射を受けて飛びのいた。
あれが西条玉藻のものだったのかと言われても、今となっては是であるとも否であるとも断言できないし、何よりぼくの右隣にいる玉藻ちゃんの首はつながっているし、今も何を考えているのか畳の一点をじっと見つめている。
となれば、あの時ぼくが見た「生首」は――――
「偽装と擬態は、戦いにおける常套手段の一つですよ」
そういうことなのだろう。
いくら開けた中庭とは言え、あの非常事態において。
自分と姫ちゃん、二人のの命が掛かった戦場で、しかも限られた時間ともなればそこまで認識することは出来ない。
玉藻ちゃんと同じようなサイズの首を用意し、髪型さえ同じような形に整えれば、誤認させることは十分可能だろう。
「してやられた、というわけかな」
そう答えると、子荻ちゃんはもとより姫ちゃんと玉藻ちゃんも――あの二人はただ単にぼくらに併せて笑っただけじゃないかと言う気もするけど――にこり、と微笑んだ。
三人とも、あんな高校であんな教育を受けていたとは言え、れっきとした女子高生である。
しかも良く良く考えるまでも無く実は結構美形ぞろいだ。
そんな三人の笑顔を見ると、『してやられた』ことなんか大した問題じゃなく、それより死んだと思った二人が生きていたことを喜ぶべき――
「あれ、でも子荻ちゃんはぼくの目の前で確かにバラバラにされたと思うんだけど」
「それも策士の策です」
「実はまともに答える気ねえだろう」
思わず毒づいた。
「さて、そろそろ時間ですね」
「そうですね。そろそろおいとまするです」
「……」
子荻ちゃんの言葉に従って姫ちゃんはきびきびと、玉藻ちゃんは無言で立ち上がって玄関に向かう。
ぼくの言葉なんか誰ひとり聞いちゃいやしない。
戯言遣いを殺すにゃナイフはいらぬ。スルーしてやりゃそれでいい。
「ではししょー、また明日ですっ」
「お邪魔しました」
「じゃあ、また明日」
ぼくが言葉を返すのを待とうともせず、三人は思い思いの挨拶をして別れを告げる。
そして築何年なのか誰も知らないアパートの扉はギィ、という少し耳障りな音を立てて外界と部屋とを遮断した。
今日は振り返って見ても踏んだり蹴ったりな一日で、しかも最後のスルー攻撃のダメージは相当なものだった。まだ起きてから一時間ぐらいしか経っていないが。
「冷たいものでもどうぞ」
だからそう言って渡されたコップの中に入っていたものが何の変哲も無い水道水であっても、正に五臓六腑に染み渡るような爽快さが――
「って言うかなんで子荻ちゃんはここにいるのさ」
そう、ぼくの横にはさっきとかわらず制服を着てかすかに微笑む子荻ちゃんがいた。
「さすがに四畳一間に三人では狭すぎますので」
ああなるほど。確かにこのアパートで三人同じ部屋に住むのは難しいだろう。
とりあえずコップの中身を一息で飲み干し、空になったコップを流し台に置いて、十分に潤った咽喉から声を発する。
「って言うか答えになってねえ」
戯言遣い、生まれて始めての時間差突っ込み。
しかし《策士》萩原子荻はそんなことを気にもせず、自らの用意した言葉を紡ぎ続ける。
「先だっての騒動で澄百合は崩壊し、《神理薬(ルール)》も手を引きました。更に言ってしまえば私も紫木も西条も、両親は勿論保証人になってもらえるような真っ当な知人など存在しません。それに加えて未成年。そんな私たちに部屋を貸してくれるような慈愛に溢れて寛大極まりない人物に心当たりでもおありですか?」
「でも、それぐらい」
そう、確かに子荻ちゃんが言う通り子萩ちゃんたちが『真っ当に』部屋を借りることは困難を極めるだろう。しかしそれは――『真っ当でなければ』可能だと言うこと。
澄百合学園――内部では首吊高校などと呼ばれていたあの学園が真っ当なわけは無く、更にはその学園で主席の位置に在った萩原子荻の手に掛かれば、それぐらいのことは何とでもなるだろう。
しかし子荻ちゃんもぼくがそう反論することぐらい予想していたのか、ぼくの言葉を視線で留め、珍しいことに――本当に珍しいことにその口から言葉を発することをかすかに躊躇し、それでも一瞬後には意を決したように口を開いた。
「貴方は――この萩原子荻に『愛の告白』をしたではないですか」
そういった子荻ちゃんの顔はまるで本物の女子高生のように――ごく一般的な学校に通い、極一般的な教育をうけた女子高生のような表情を浮かべ――なんと言うか耳まで真っ赤にしていた。
「いやでも、そのね」
なんと答えればいいものかと。
これまた珍しくこの戯言遣いが返す言葉を見つけられずに言葉に詰まっていると。
子荻ちゃんははっと何かに気づいたように眼を見開き、微かに震えながらまた言葉を発した。
「紫木はこのアパートに招いても私は招けないと言うことは――」
「いや、姫ちゃんには空いてる部屋を紹介しただけなんだけど」
「つまり貴方には幼女趣味があると」
「違う」
即突っ込んだ。
戯言どうこう言う前にそれはさすがに人として――例え欠陥製品である僕としても譲っちゃいけないところだと思えたので即突っ込んだ。
「ですが三階に住んでいるあの娘も、随分と貴方のことをお気に入りのようでしたが」
三階って言うと、崩子ちゃんか。まあ確かに仲悪くは無いけど。
なんと答えたものかと考えている間、子荻ちゃんはぷるぷると震えていたが、ぼくの言葉を待つこと無く結論にたどり着いたのか「まあいいです」と呟いてぼくの前でひざを折り、畳の上にそっと座った。
「子荻ちゃん?」
怪訝に思ってそう問いかけたぼくに対し、《策士》は先ほどまでの狼狽がまるで演技だったかのように――いや、本当に演技だったと言う可能性もぬぐいきれないが――落ち着いた声で言葉を返す。
「それに先ほども言ったでは無いですか」
「何を」
「『末永く――お願いします』と」
――あ。
「そして貴方は『こちらこそ』と」
ああ、そりゃ確かに言ったけど。
「そういうことなので、よろしくお願いします」
そう言って萩原子荻は、元澄百合学園主席の《策士》萩原子荻は、静かだけれども一片の淀みも無い動作で自分の前に三つ指付いて、ぼくに向かって深々と頭を下げた。
いや待て。
こんな状況が、
こんな状況がぼくの目の前に存在するなんて。
こんな、ぼくとは生涯縁のなさそうな――縁があってはいけないような状況を前にぼくは。
「完全無欠に――戯言だ」
そう呟いて天井を見上げるぐらいしか出来なかった。
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