私、花鳥玲愛は悩んでいた。
こんなに悩んだのは久しぶりだった。期間にすると大体一年ぶりぐらいだった。
そんな私を見た仁は。
現在の勤め先である喫茶ファミーユの店長にして高村仁は。
恐らく今最も身近な男であるはずの高村仁は。
平たく言ってしまえば婚約者であるところの高村仁は。
「アノ日か?」
などと言いやがったので右ストレートをお見舞いしてやった。
私はきっと悪くない。
「と、言うわけで玲愛に殴られた」
一晩たっても引いてくれなかった目の周りの青あざを右手で隠しつつ、店の名前と同じくもはや家族同然な愛すべき店員たちに恥を忍んで告白したところ、
「仁、バカでしょう」
「仁くん、バカ?」
「てんちょ、バカだよね」
「仁くん、それはねーちゃんでもフォローできないかな」
ある意味予想通りだったが誰にも微塵もフォローされなかった。
「場を和ませようと思ったんだよぅ」
軽く泣きそうな声でそう主張してみたが、帰ってきたのは四対のジト目だった。
そんでもってジト目はしばらく続いていよいよ本当に泣きたくなってきたんだけど、さすがにこの問題について当事者に最も近い血縁関係にあるところの由飛が一歩歩み出て俺に問いかけてくる。
「で、玲愛ちゃんは今日出てこないの?」
まるで子供をあやすかのように優しい声で。
つうかガキ扱いしてバカにしてるんじゃないかと思ったりもしたけど、一応数少ない味方なので素直にその問いに答えてみる。
「いや、ていうか『帰る』って……」
「実家に!?」
「いやその」
「そんなわけで、今日からまた、ビシッバシッ行くわよっ!」
「いやその」
「何っ!?」
「いえ、なんでもありません!」
「カトレアくんさあ」
「そこ、カトレア言わない! で、なんですか?」
「仁くんと喧嘩したからってウチに戻ってくるってのはどうなのよ」
「しかしこの通り、キュリオ3号店ではアルバイトの募集をしているようですが」
「そりゃ確かに事実なんだけどさあ……」
「それともわたしの能力に不足でも?」
「いや、ないけど」
「じゃあ、よろしくお願いします」
そう言って花鳥玲愛はにっこり微笑んでしっかりと頭を下げたが、その姿はどう見ても新入りバイトのそれではなく。
「さあみんな、そろそろ開店の時間よ」
まるで鬼チーフの復帰を宣言するかのように鳴らされた手を打つ音を聞きながら、キュリオ3号店の店長であるところの板橋孝明は。
「ま、いっか」
その一言で全てを受け入れた。
「いいんですか!?」
「成田くん、君もそろそろキュリオのいい加減さに慣れなさいよ」
「いや、だってー」
「芳美、なにやってるの!」
「は、はい〜」
そしてもう古株と言っても差し支えのない、書類上はチーフであるはずの成田芳美の悲鳴を聞きつつ、
「さて、今回も楽しくなりそうだぞ」
板橋店長は一人楽しそうにほくそ笑んでいたのであった。
「ホント迷惑な人たちね、アンタら」
「面目次第もございません……」
冷たく言い放つかすりさんに、俺は頭を下げるぐらいしか出来なかった。
「で、玲愛さんがキュリオに戻ったのはわかったけど、住んでるのはてんちょの部屋の隣なんでしょ? だったらそんなに深刻に悩むことも――」
「いや」
明日香ちゃんの言葉を遮ってそう言う。
まあぶっちゃけ喧嘩するのは初めてじゃないので、もはや恒例となっている高村乳業謹製のプリンを持ってお詫びのために隣の部屋に行ったのだが――
「昨日の昼喧嘩したんで、冷却期間をおこうと思って夜に行ってみたんだけど、留守だったんだ」
「ただ単にちょっと出かけてたとかじゃないの?」
「いや。合鍵持ってるんで中で待ってたんだけど、結局昨日は帰ってこなかった。しかも部屋の中をよく見たらなんか荷物まとめて出ていったみたいで……」
さっきも言った通り玲愛との喧嘩自体は初めてじゃ無いし、まあ行って見れば結構恒例の出来事なので甘く見てた部分があったんだが、昨日は結局帰ってこなかった。
一応念のために今朝も出勤前に寄ってみたけど当然の用に留守だった。予想はしてたけど軽く凹んだ。
「今回は本気だと思ったわけね」
恵麻姉さんからの問いにうなずく。
「って言うかてんちょ、探しに行こうよ」
「玲愛ちゃん、実家に戻ったのかなあ」
「でも結婚前に『実家に帰ります!』とかだったら笑えるよね」
「確かにそれなら笑って済ませられたんですけどねえ」
「お前らホント好き勝手言い放題だなって言うかいつの間に増えた!」
そう、気がついたら一人増えていた。
ちなみに恵麻姉さんの問いのあと順に明日香ちゃん、由飛、かすりさんと続いて最後は川端さんだった。
もちろん川端さんはキュリオの店員であって、間違っても我がファミーユの店員ではない。
「いや、一応声かけさせてもらったんですけどね」
「全く。板橋さんといい川端さんといい、キュリオの人間はどこからは入りこんで来るんだか……」
「いや、普通に入り口から入ってきたんですけどね」
「ええいくそキュリオの手先め、帰れ帰れ!」
「いいですけど、玲愛の住んでる場所聞きたくないんですか?」
「え?」
「だから、玲愛が昨日転がり込んだところ」
そう言った川端さんの表情はまるで小悪魔のようなといった表現がしっくりくるような笑顔で――まあ隣でかすりさんも似たような笑みを浮かべてるがそんなものは無視するとして――こっちの様子を伺っていた。
「どうしますか?」
そう問いかけてくる間もニヤニヤとした笑みは消えること無く。
そんな川端さんを前に俺のすることは。
「すいません、教えて下さい」
素直にお願いすることだった。
「弱っ! 仁くん弱っ!」
「うっさいわっ!」
外野(かすり)の野次など全く聞く耳もたず、川端さんに頭を下げた。
恋をすると人は弱くなるのだ。ハタチ過ぎた男が言うとこんな気持ち悪い台詞もないとは思うが、しょうがない。
「いや、わたしもまさかそんな素直に真正面から来るとは思ってなかったんですけど」
「うっさいわ! 早く教えろ!」
もう俺は止まらない。
て言うか頭まで下げたのにこれで『教えてあげない』などと言われた日には俺は暴れる。
店内で暴れたら掃除が大変なので外で暴れるが。
いや、外もオープンテラスを荒らすわけにはいかないからどこか他の――そう考えるとブリックモール内では暴れられないので近所の公園で――いや、それだと不審者として近隣の住民に通報されそうなので人目につかない、他人に迷惑のかからないところ――自宅ぐらいしかないか。くそ、責任ある立場についた大人は好きに暴れることすらできやしねえ!
「あの、そろそろ喋ってもいいですか?」
「あ、すいませんお願いします」
いかん、何か精神が不安定なのか意識がどっかに飛んでいた。
「いやまあ、そんなにもったいつけるほどのところでも無いんですけどね――」
そう言って川端さんはハァ、と軽くため息をついて言葉を続ける。
「わたしの部屋です」
「――はい?」
「だから、わたしの部屋です。玲愛の部屋の隣の」
「……」
「いやもう、凄かったですよ? 休みだからってのんびりしてたらいきなり荷物抱えた玲愛がやってきて『しばらく世話になる』って。しかも一緒に夕飯食べてから寝るまでの間、高村さんの悪口のオンパレード。よくもまああそこまでポンポン言葉が出てくるなあと」
「てんちょ、玲愛さんの部屋でずっと待ってたんだよね」
「いや、言われて見れば確かに隣が賑やかだとは思ったんだけど……」
「て言うか隣の部屋って、中学生のプチ家出も真っ青だよね」
「玲愛ちゃん、友達少ないから……」
「で、でも良かったじゃない仁くん! 玲愛ちゃん遠くにいったとかじゃなくて!」
「いや、うん。それは確かに」
本当に実家に帰られたらまたあの家に行って説得しなきゃいけなくなるわけで、それは本当に避けたい。いやマジで。
「本当は昨日こっそり教えてあげようと思ったんですけどねー。玲愛に『教えたら殺す』って散々脅されてたので」
脅されたわりになんだか楽しそうだが、そこに突っ込むのももう今更なので気にしないでおくことにする。
「でも瑞奈さん、それ教えちゃって大丈夫なんですか?」
「いや、大丈夫じゃないんですけどね」
由飛の問いかけにそう答えてから川端さんは窓の向こう――キュリオ3号店の方に目を向けて言葉を続ける。
「普段だったらこのまま楽しむところなんですけど、お互い忙しくなる時期じゃないですか」
「あー、確かに」
「まあウチとしては助かるっちゃ助かるんですけど、今回は芳美とひかりに頑張ってもらわなきゃいけないんですよ。わたしも四月から本店に戻るので。特に芳美はこの前チーフになったばっかりなのにあの娘が来ると……ねぇ?」
まあ、確かに。
花鳥玲愛は去年キュリオ3号店からファミーユブリックモール店に移籍したが、それでもキュリオ3号店に置いてその影響力は無視出来ない。と言うか多分戻ってきたら即鬼チーフ復活だろう。
と言うか窓の向こうのキュリオ3号店で助けを求める用にこっちを見ている娘が――確かあれが川端さんが『芳美』って言ってた長谷川さんだと思うんだが――あ、何か中に向かってぺこぺこ謝ってる。そして仕事に戻ったみたいだけど、最後に涙目で訴えかけるようにこっちを見つめて行った。
うん、結構罪悪感。
「そんなわけで高村さんには玲愛を引きずってでも連れ帰っていただきたいんですけど」
「――ああ、わかった」
うん、そこまで言われてぐずぐずしているわけにもいかない。
「えーと、そんじゃあ申し訳ないんだけどみんな――」
「わかってるって、てんちょ。玲愛さん連れ戻してきて」
「連れ帰ってくるまで戻ってこないでいいからね」
「こんなときの為の『総店長』だから。しっかり行って来なさい」
「玲愛ちゃん、仁のこと絶対待ってるから。頑張ってきて!」
俺に最後まで言わせることもなく、愛すべきみんなから温かい言葉が帰ってくる。
「よっしゃ、まかせとけ!」
かくして高村仁による花鳥玲愛奪還作戦が始まった。
「――実際には玲愛に頭下げて戻ってきてもらうだけなんですけどね」
「うるさいわっ!」
心強いとかどうとか言う前に微妙に信用出来ない味方を得て。
「お帰りなさ――いませご主人様」
「ひいっ!?」
キュリオに入った途端にメイドに威嚇された。
メイドって言うか玲愛だけど。
まあ一瞬威嚇した後完璧な営業スマイルに戻るあたりさすが玲愛と言う感じである。
「お一人様ですか?」
「は、はい」
「ではこちらにどうぞ」
思わず席に案内されてしまった。
周囲のウェイトレスからは非難の視線が飛ぶ。
川端さんは笑いをこらえている。
うるさい、お前らあんなさっきを浴びせられて普通に会話できるのか!
「ご注文は?」
「いや、話が」
「ご・ちゅ・う・も・ん・は?」
「アイスコーヒーを」
「かしこまりました」
非難の視線は止まる気配を見せない。
川端さんは腹よじって笑っている。
窓の外に目をやると、由飛と明日香ちゃんとかすりさんが揃ってブーイングしていた。仕事しろよお前ら。
威嚇したら一応店の方に戻って行ったが。
そういやキュリオに客として入るのは初めてなんだけど、記念すべき第一回がこれと言うのもどうなんだろう。
いや、そんなことを考えている場合ではない。俺は玲愛を――
「アイスコーヒーお待たせいたしました」
「あ、ありがとうございます」
「他にご注文はございますか?」
「いや、玲愛。話が――」
「ほ・か・に・ご・ちゅ・う・も・ん・は・ご・ざ・い・ま・す・か?」
「いえ、ありません」
「それではごゆっくりどうぞ」
玲愛はそう言ってにっこりと微笑みつつも最後に一瞬威嚇することは忘れない。
非難の視線はもはや諦めへと変わり、川端さんは笑い過ぎたのかぜぇぜぇと荒い息をつき、窓の外のブーイングには恵麻姉さんまで参加して、ご丁寧に全員揃って親指を下に向けていた。だからお前ら仕事しろと。
しかし、いかん。
ここでアイスコーヒーをすすっていても状況は何も変わらない。
「よし」
「おかわりお持ちしましょうか?」
「いえ、結構です」
とりあえず一時撤退することにした。
諦めの視線はすがるような視線に変わり、川端さんはにこやかに手を振り、そして玲愛はやっと周囲に気づいたのかそちらをきっと睨んで沈黙させてから俺を送り出す。
「いってらっしゃいませ、ご主人様」
いや、もちろん俺に対する威嚇も忘れなかったが。
勘定払って店を出るまで、相変わらず見事な営業スマイルを浮かべていたが要所要所での威嚇は決して忘れなかった。
玲愛……怖い子! いや、本当に。
そしてキュリオを出た俺を待っていたものは。
「仁の根性無しー」
「てんちょの甲斐性無しー」
「仁くんのへたれー」
「仁くん、もうちょっと頑張ったほうが良かったんじゃないかな?」
「そうだそうだー」
愛すべき仲間たちの心温まる言葉と――
「あんたはキュリオに帰れ」
いつの間にか沸いて出る、何か神出鬼没と言う言葉がふさわしいんじゃないかと思える板橋店長だった。
「いやあ、カトレア君が戻ってくるとボクの仕事なくなってさあ」
「まるで、玲愛が戻ってこなきゃ仕事に追われてると言わんばかりの口ぶりですね」
「業務の合間に別れた女とよりを戻そうとする仁くんよりは忙しくないと思うけどね」
「別れてねぇっ!」
ほんと、ほっとくとなにを言い出すかわからんおっさんだ。
まあいい、それよりも――
「板橋さんに頼みがあるんですが」
俺は次の作戦に移ることにした。
キュリオ閉店後、私は一人で掃除をしていた。
「はぁ……」
意識してはいなかったが、ため息が出る。
一日の労働を終え、誰も居ない店内で、一人残ってモップがけをしているのだからため息ぐらいついてもバチは当たらないだろう。
いや、以前キュリオに勤めていた時はこれが日課だった。
それに加えて伝票処理もしてたんだから、それに比べれば労働量的には楽になっている。
「はぁ……」
でもため息は止まらない。
掃除の能率も悪い気がする。
今モップで拭いてるところを初めて拭くのかそれとももう拭き終わったのか、そんなこともわからなくなってくる。
「……はぁ」
いけない。ちょっと休憩させてもらおう。
モップを壁にたてかけ、椅子を一つ取り出してその上に座る。
「んー……っ」
そして大きく伸び。
全身の筋肉がほぐれて行く気がする。
でもすっきりしない。原因はわかっている。
「あんの根性無し……ッ!」
言って思わずテーブルを叩きそうになったが、なんとかそれはこらえる。
そう、アイツが――仁が根性無しなのが悪いのだ。
昨日喧嘩をして仁の家を跳び出して、自分の部屋にいるときっとすぐ仁が来るだろうと思ったので荷物をまとめたものの、まさか実家に帰るわけにはいかないし、姉さんの家に転がり込むなんてもっての他だったし。
まあそんなわけで結局瑞奈の家に転がりこんで、翌朝『キュリオに戻ります』と書いた紙を仁の家の新聞受けに投げ込み、キュリオにやってきた。
まあそれで昔とった杵柄ってわけじゃないけど仕事を始めて。
開店してすぐにアイツが来て、何か言おうとしていたけれど。
「結局すぐ帰っちゃうし……しかもその後一度も来ないし!」
そうなのだ。
あの後待ってたりしたわけじゃないんだけど――いや、まあ確かに多少気になっていたけど、断じてそれは多少でしかなくて――店の入り口のベルが鳴るたびにそっちの方を見て、アイツじゃないと確認してから営業スマイルを浮かべる私を見て、瑞奈がからかってきたりもしたけど、それはこのさいどうでもいい。
アイツは――高村仁は、朝方来てさっさと逃げ帰って以来、二度と私の前に姿を現さなかったのだ。
そりゃまあ確かにちょっと睨んだりしたけど。それは今回向こうに非があるからで。
それにしたって、それぐらいでもう来ないなんて。しかも向こうをチラッと見てみたら普通に仕事してたし! しかも姉さんと楽しそうにしてたし!
「あんの……蝙蝠野郎!」
ドン、と。
とうとう我慢しきれなくってテーブルを叩く。
その拍子に制服のポケットから包みが転がり落ちる。
よほど勢いがついたのか、平べったいその包みは縦に回転しながら入り口の方に転がっていく。
「ああもう!」
私はなんだか惨めな気持ちになり、席を立って入り口に向かう。
そして席を立つのとほぼ同時に入り口の扉が開き、ベルが鳴った。
「申し訳ありません。もう閉店――」
「うん、知ってる」
私の言葉を遮ってそう言った男は。
「……何しに来たのよ」
高村仁その人だった。
キュリオ閉店後、暗くなった天内に玲愛の姿を確認してから扉を開き。
「申し訳ありません。もう閉店――」
「うん、知ってる」
予想していた台詞にそう返し。
こっちを見て一瞬あっけに取られた玲愛の次のセリフは。
「……何しに来たのよ」
不機嫌オーラ全開なそんな言葉だった。
でも、そんなことで引いてはいられない。
朝の態度から見るに、営業時間内にいくら粘っても無駄だと言うか板橋店長やら川端さんやらうちのスタッフやらの娯楽対象になるだけだと悟った俺は、板橋店長に頼んで玲愛を今日の掃除当番にしてもらったのだ。
他に誰も居ない二人きりの状態なら玲愛も少しは素直になってくれる――と言うか少しは話を聞いてくれるだろうと思って。
「玲愛、俺の話を――」
コツン。
聞いてくれ、と言いながら玲愛の方に歩み寄ろうとしたら、つま先が何かにぶつかった。
「……なんだ、これ」
言いつつ拾い上げた瞬間素晴らしい反応速度で奪い取られた。
さすが花鳥玲愛、世界を狙える女。何の世界かしらないけど。
「玲愛、それ……」
「な、何でもないわよ!」
最後まで喋ることすら許されなかった。
「それって……」
「何でもないって言ってるでしょ!」
そう言って俺から取り上げた包みをかき抱いて頑なにそう主張する。
しかし、だ。
さっき包みを奪い取られたときに、なんかの拍子ではがれたシール。
俺の指先に張り付いているそのシールには、ハートの中にアルファベットが書かれていた。
『St. Valentine's Day』
つまり、誰に聞くまでもなくその中身は明らかなわけで。
時期的にそれが意味するものはどうみても一つしかないわけで。
俺の指先を見て玲愛もソレに気づいたのか、頬を赤くして口をパクパクとさせた後に、癇癪起こして怒鳴るように口走った。
「わ、私が食べるのよ!」
「……」
「……」
「……」
静寂が流れた。
「いや、玲愛。いくらなんでもその言い訳はどうかと」
「何よ! 私が食べるって言ったら私が食べるの!」
そう言って玲愛はどっかと椅子に座り、自棄を起こしたようにバリバリと包装紙を破り、その中にあるハート型のチョコを手に取る。
そして一瞬躊躇してからかぶりつき、『どうだ』とでも言うかのように振り向いたその目にはかすかに光るものがあって。
俺は迷わず、
「んぅっ……!?」
玲愛の唇を奪った。
引きはがそうとする玲愛の両手を押さえ込み、玲愛の口の中に舌を差し込んでその口腔内を十分に味わう。
うん。甘いチョコと、そして忘れられない玲愛の味。
そのまましばらくキスを堪能し、唇を離すころには玲愛の両手から力は抜けていた。
「バカぁ……」
「うん、ごめんな」
「もう、この……バカ」
「ああ、俺がバカだった」
ぽかりと。俺の束縛から離れた右手が俺の頬を打つが、それはちっとも痛くなかった。
「こんなので……ごまかされるなんて思って無いでしょうね」
「思ってない。だから言わせてくれ」
そう言って俺は玲愛の手を引いて立ち上がらせ、正面に立ち、玲愛の目を見て口を開く。
「変なこと言って悪かった。俺には玲愛が必要だから、戻ってきてくれ」
そこまで言って口を閉じると、玲愛は涙を拭いて笑顔を浮かべる。
「しょうがないわね、そこまで言うなら許してあげる」
「玲愛っ……!」
その笑顔を見た瞬間、我慢出来なくなって玲愛を抱きしめていた。
「あん……、ダメだったら」
そういいながら玲愛もひきはがそうとはせず、逆に俺に体を預けてくる。
お互い、一度手放した温もりを再確認するために。
一日ちょっとしか離れて無かっただろとかそんな野暮なツッコミは聞いてやらん。
「ところで玲愛」
「……ん?」
「結局、なんで悩んでたんだ?」
「……」
「玲愛?」
「……チョコよ」
「え?」
「バレンタインチョコのことで悩んでたのよ!」
言ってる意味がよくわからない。
チョコはさっき――まあ、実際のバレンタインデーは明日なので一足早かったが貰ったし。
「仁……ファミーユのみんなからチョコ貰うでしょ?」
「まあ、多分」
去年もなんだかんだ言ってみんなから義理チョコは貰えたし。
恵麻姉さんからはチョコレートケーキを1ホールもらって二等分したりもしたが。
と言うか自分が作ったバレンタインチョコを自分で食べるのってどうだろう。まあ、姉さんのすることだし今更って気もするが。
「負けたくなかったのよ」
玲愛はそう言って顔を真っ赤にし、俺の胸に顔を埋めた。
ああもう、可愛いなあコンチクショウ!
俺はそんな玲愛をぎゅっと抱きしめて返事をする。
「玲愛からもらえれば、それだけで十分だよ」
「……バカ」
そう言ってまたしがみついて来る玲愛を見ていると悪戯心がむくむくと顔を出してくる。
「じゃあ、さっきのチョコもうちょっともらおうかな」
「うん、全部――」
食べて、と言おうとしたのかどうなのか、玲愛の口からそれ以上の言葉が発せられることはなかった。
何故なら、俺が手に取ったチョコを玲愛の口の中に押し込んだから。
「じゃあ、いただきます――」
「バカ――」
その後のことは二人だけの秘密だ。
おまけ
「はい、それでは今日の朝礼を始めます」
ここはファミーユブリックモール店。
昨日は色々――まあ色々あったのは俺と玲愛だけだと言う説もあるが、なにはともあれ玲愛も戻ってきてフルメンバーである。
「では最初の連絡の前に……お前ら、自分の店に帰れ」
「えー」
「えー」
俺の当然と言えば当然の意見に対してそう答えたのは、言うまでもなくキュリオの板橋店長と川端さんだった。
「板橋店長も瑞奈も! 仕事の邪魔だからとっとと戻って!」
そして玲愛からも怒りの声が飛ぶ。
大抵はこれでおとなしく変えるのだが――今日は違った。
「玲愛から貰えれば、それで十分だよ」
ぴきっ。
何かが引きつる音が聞こえた。
多分この中で限定して二人に。と言うか俺と玲愛に。
しかし板橋店長と川端さんの寸劇は止まらない。
「じゃあ、さっきのチョコを貰おうかな」
「うん、全部――」
そしてぷちん、と。
確かに何かが切れる音が聞こえた。これは全員に聞こえたらしい。だってみんな音の発生源を見てるし。て言うか玲愛だけど。
そう、そこに立つ玲愛はあれだ、まさに『怒髪天』とか『鬼のような』とかそんな感じ の表現がぴったりな表情で二人を見つめていた。
「二人とも……見てたの?」
「そりゃもう。ボクの店でああいうことやられると、やっぱり放ってはおけなくてねえ」
「いや、まさかあそこまで――」
ぶちん。
川端さんの言葉を遮るように、一際大きく何かが切れる音が響いた。
「あんたら……」
そして玲愛はその拳を白くなるほど握り締め、二人の方へと一歩踏み出す。
「記憶を失えーーーーーーっ!」
そんな玲愛を見て脱兎のように逃げ出す二人を、玲愛は拳を振り上げ追いかけて行った。
「……えー、そんなわけで今日はバレンタインデー本番――」
「仁、今の話本当なの?」
「いや、由飛。朝の業務連絡を……」
「てんちょ、不潔」
「いや、だから……」
「仁くん、そこんとこ詳しく聞かせてもらおうか」
「そのですね……」
「仁くん、姉ちゃんも詳しく聞かせて欲しいかなー」
「あの……」
そしてこっちもピンチっぽい。
ファミーユブリックモール店、二年目のバレンタインデーはまるで戦場のような雰囲気に包まれていた。少なくとも俺と玲愛の周囲では。
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