夢……夢を見ている………

 そう………あれは確か……俺がまだ小さい頃の夢………………………………

 その日の夜は、もの凄い嵐だった。風は吹き荒れ、雨は窓を激しく打つ。時折、雷光が
闇を一瞬明るくし、ゴロゴロと特有の音が響く。

 『ね、ねむれない………』

 そうなのだ。風や雨、雷の音がうるさくて、寝ようと思っているのにそれらが邪魔をする。
まったく、人の都合を考えない連中やつらだ。寝るときぐらい静かにしてほしいものだ。

 さて…どうしようか………

 俺はガバっと布団を跳ね上げ、上半身を起こす。部屋の電気をつけようと思ったが、
こんな時間だから親に見つかるとマズイ。早く寝なさい! って言われるのがオチだ。

 ……結局、我慢して寝るしかないんだろうか?

 そんなことを考えていると、突然ドアが静かに開き始めた。

 !!

 ドアは軽い音を立てながら、徐々に開いていく。真夜中に訪ねてくるのは、
いったい誰だろう。

 『……だ、誰………?』

 俺は恐々と口を開いた。

 『……おにいちゃん………おきてる…………?』

 突然の闖入者は、妹の乃絵美だった。

 『ど、どうしたんだっ、乃絵美っ? こんな時間に………?』

 俺は慌ててベッドから抜け出す。乃絵美は枕を抱きかかえながら、ドアのすぐ側に
俯いて立っていた。俺は乃絵美の側に駆け寄り、もう一度聞いた。

 『ホントにどうしたんだ、乃絵美?』

 俯いているので、下から乃絵美の顔を覗き込むように話しかけてみた。

 『の、乃絵美!?』

 俺は思わず、声を上げてしまった。なぜなら、乃絵美の目には涙でいっぱいに
なっていたからだ。

 『おにいちゃん……いっしょにいていい………?』

 乃絵美は俺のパジャマの裾を掴みながら、悲痛な顔をして言った。


Short Story of ”With You...” 
『あなたの鼓動』


 俺と乃絵美はベッドに並んで腰掛けていた。乃絵美が俺の部屋に訪れた理由。
それは「雷が恐い」ということだった。暗い部屋の中を照らす閃光。そして、ゴロゴロと
身を竦ませるような物々しい音。それらが恐かったというのだ。

 本当は父さんたち部屋にまで行くはずだったが、廊下を歩いているとき
また恐くなってきて、それで途中にある俺の部屋に来たらしい。

 遠くのほうで雷が鳴っている音が聞こえてくる。

 『お、おにいちゃ〜ん……こ、こわいよぉ……ひっく………』

 乃絵美は泣き声を上げる。そして乃絵美の大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が
こぼれている。だから俺は乃絵美を安心させるように笑いかけた。

 『大丈夫だって。もう、乃絵美は恐がりなんだからなぁ〜』
 『ひっく……だ、だってぇ〜』

 乃絵美はしゃくり声を上げながら、俺の顔を見つめた。その目には溢れんばかりの
涙が溜まっている。俺は、そんな乃絵美の頭を優しく撫でようとしたその時、

 ピカッ!! ゴロゴロゴロゴロ!!

 雷の閃光がほとばしり、もの凄い音が轟き渡った。となると黙ってないのが、乃絵美である。

 『う、ううううぅ………うえええぇぇぇぇぇんんっ!!』

 声を上げて泣き出してしまった。

 『の、乃絵美っ。だ、大丈夫、だいじょうぶだよっ!!』

 俺がなんとか宥めようとしても、乃絵美は両手を両目に当て、わんわん泣いている。

 目の前で泣いている妹。身体が弱くて、いつもオドオドしていて、泣き虫で。
そして雷が恐くて、俺の部屋に転がり込んできた妹。

 乃絵美……

 小さな肩を震わせながら、泣いている。こんなとき、どうすればいいんだろう?
俺は、ない頭で一生懸命考えた。ホントに、これでもか! ってぐらいに考えた。
ひょっとしたら俺はこのとき、学校の勉強より頭を使ったんじゃないだろうかって思う。

 こんなとき……こんなとき……………

 俺はうーんと唸りながら考えに考え抜いた。ふと、あることが頭に浮かんだ。

 そうだ……確か、母さんは………

 昔、母さんにしてもらったことを俺は乃絵美にしてやった。

 『!!』

 俺は泣いている乃絵美の頭を、自分の胸に抱きかかえた。急に俺に抱きかかえられ、
乃絵美は驚いてしまったようだ。驚いた拍子なのか、こぼれていた涙も今は止まっている。

 『……ひっく……おにい……ちゃん………?』

 乃絵美は俺の腕の中で、苦しそうに顔を上げる。

 あ、ちょっと腕に力入れすぎた。

 慌てて、腕の力を緩める。そして、乃絵美の頭を優しく撫でながら言葉をかける。

 『大丈夫、大丈夫だよ……雷なんて、ホントは恐くないんだからな』
 『……で、でもぉ………』

 乃絵美は俺の言葉が信用できないのか、目元にまた涙が浮かんできた。今も時折、
雷が閃光を発している。まだ恐いのか、乃絵美の身体が小刻みに震えているのが
俺の腕を伝わってくる。

 『だ、だって、かみなりって、ピカってひかって、そしておっきな音がするんだよ!?』

 いや、まぁ……確かに雷はピカって光るし、大きな音も鳴る。乃絵美は、はたして
それだけのことが恐いのだろうか? ………恐いんだろう、うるうるさせた瞳を俺に向けて、
必死に雷の恐ろしさを訴えかけている。

 それは怯えている子犬のような──実際怯えているのだが──目をしている。
そんな乃絵美の姿が可愛くて、それでいてちょっとおかしくて。俺はついくすっと笑って
しまった。だが直後、俺は激しい後悔に襲われることになった。

 『……うっく……おにいちゃん……なんでぇ……どうして笑うのぉ……っく』

 乃絵美に目に溜まっていた涙は俺の言葉を合図に、再び堰を切ったかのように止めどなく
流れていった。

 『わっ、わっ!! の、乃絵美、な、泣くなよぉ〜〜っ』
 『だって、だってっ。お、おにいちゃんが笑うんだもん…笑うんだもんっ!
 ふ、ふえええぇぇぇぇっ!』

 雷のせいもあってか、乃絵美はいつもより激しく泣いている。決して泣かせるつもりで
笑ったわけではなかった。だが乃絵美にとって、それは嘲笑に見えたのだろう。
俺はもう一度、乃絵美を抱き締めながら話しかける。

 『のえみぃ〜。俺は、お前のこと決してバカにして笑ったつもりはないんだぞ?』
 『ふええぇ……っく、ひっく…じゃ、じゃあ、……ぐすっ、なんでおにいちゃん、
 笑ったりしたの……?』

 あう! しまった、何も考えてなかった。

 そんな俺の動揺をよそに、乃絵美は真っ直ぐに俺の目を見つめている。乃絵美の涙で
潤んだ目は、俺の心を全て見透かしているような、そんな気がしてしまう。だから俺は正直に、
自分が思ったことを乃絵美に話した。

 『俺が笑ったのは……笑ったのは…その……の、乃絵美が可愛かったからだよ………』

 うっ、むちゃくちゃ照れる………

 俺は言ってから、無性に恥ずかしいことに気がついた。ひょっとしたら、耳まで
赤くなっているんじゃないだろうか? 部屋の中が暗いのが不幸中の幸いだろう。

 『……ぐす……乃絵美がかわいいから、わらったの………?』

 乃絵美は泣くのは止め、大きな目をパチパチさせながら俺の顔を覗き込んでくる。
俺に「可愛い」と言われたことが、信じられないようだ。

 『だって、乃絵美……泣き虫さんなのに………?』

 どうやら乃絵美は「泣き虫さん」だから、自分のことを可愛いとは思っていないらしい。

 『泣き虫でも、乃絵美は可愛いと思うな、俺は』

 俺は乃絵美の目を見つめながら、強く言った。最初の一山を越えると、すらすらと言葉が
紡げるから不思議なもんだ。

 『ホントだって。乃絵美は可愛いよ、ナデナデ………』

 言いながら、俺は乃絵美は頭を優しく撫でた。すると乃絵美はくすぐったそうに、
それでいて顔を赤らめながら、身を小さくしていった。

 ゴロゴロゴロゴロ………

 『!!』

 また雷の音が響き渡る。今度のものは近くはないみたいだ。だが乃絵美を怖がらせるのには、
それだけで十分だった。

 『お、おにいちゃ〜ん………』

 乃絵美は俺の背中に手を回し、しっかりと掴んだ。声は涙声となり、そして腕は小刻みに
震えている。

 そうだ!

 俺は一つの考えが浮かんだ。これなら乃絵美は、雷のことを怖がらなくなるかもしれない。
思い立ったが吉日。俺は早速、乃絵美に話しかけることにした。

 『なぁ、乃絵美。乃絵美は、この話を知っているか?』
 『?』
 『”カミナリのピカ五郎”の話』
 『かみなりのピカごろう?』

 我ながらセンスのない名前をつけたもんだと、苦笑せざるをえない。だが、これも
乃絵美のためだ。センスなんて、このさい関係ない。

 『カミナリのピカ五郎っていうのがいてな。こいつは、今日みたいな日に現れるんだ。
 現れて何するかっていうと、太鼓を叩きながら悪いことをしている人を探しているんだ。

 ”悪い子はいねぇ〜がぁ〜?”

 ってな』

 あれ? これって、ナマハゲだっけ?

 ……まぁ、いいや。

 俺の芝居がかった声に、乃絵美の腕に力が籠もる。

 『ピカ五郎は悪いことをしている人を見つけると、持っている太鼓を叩くんだ。
 その太鼓は叩くと、雷が悪いことした人めがけて落ちるんだ。そのときピカッと光って、
 もの凄い音が出る。でも……あれだな、今日は何かボリュームを間違えているみたいだ。
 今日のは、ちょっと音がでかいよな』

 乃絵美は俺の話に恐る恐る耳を傾けている。

 『で、雷を落とされた人は大変なことになっちゃうんだけど、悪いことをしてない人には
 雷を落とさないんだ、ピカ五郎のやつ』

 俺は人差し指を立てながら、ここが重要だというふうに乃絵美に話しかけた。

 『……で、でも…おにいちゃん、ピカってひかって、ゴロゴロっていうんだよ……?』

 乃絵美は、やはりそこが恐いらしい。

 『ああ。あれは、他の人に悪いことをしちゃダメだよ、悪いことしたら罰を与えるよって
 言っているんだ』

 俺は一息つけてから、

 『乃絵美は、なにか悪いことをした?』

 と聞いた。乃絵美はこの問いかけに、声もなく涙で潤んだ目で俺を見ながら首を横に振る。
 
 『だったら大丈夫だよ、乃絵美。ピカ五郎は悪いことをした人たちには恐いかもしれない
 けど、悪いことをしてない人たちには優しいんだよ』

 俺は乃絵美に優しく笑いかけた。

 『…………………………そうなの?』

 乃絵美の目から雷に対する怯えの光が消えつつある。もう一歩だ。

 『まぁ、最初は俺も恐かったからな、ピカ五郎の雷は』

 この言葉に乃絵美の目は、大きく開いた。

 『えっ!? おにいちゃんも…こわかったの…………?』
 『ま、まぁな』

 頬をポリポリと掻く。乃絵美は、雷を怖がっているのは自分だけだと思っていたらしく、
俺の言葉は相当予想外だったらしい。

 『そっか……おにいちゃんも……おにいちゃんもこわかったんだ……………』

 自分以外にも雷を怖がっている人を見つけられてほっとしたのか、乃絵美の顔に
今日初めての笑顔が出た。

 『あっ。お前、笑ったな?』

 なんとなく悔しくて、俺は言葉をほんのちょっとだけ強めた。兄の威厳は、いつの世でも
保たなければならない。

 『ご、ごめんなさい、おにいちゃん………』

 乃絵美は慌てて、俺に謝る。その目に消えたはずの涙が溢れようとしていた。

 うわっとっ、やりすぎた。

 乃絵美をいじめるのを慎重にやらないと、取り返しのつかないことになってしまうから、
注意が必要だ。だから俺は乃絵美の頭を撫でながら、

 『怒ってないよ、乃絵美』

 笑いかけた。すると、暗くなりかけていた乃絵美の表情に笑顔が戻った。

 『うん! ごめんね、おにいちゃん』
 『いいって、気にしてないよ』

 乃絵美は泣いていても可愛いのだが、やっぱり笑っているほうが何倍も可愛い。
俺は乃絵美の頭を、再び自分の胸に抱き締めた。

 『昔、母さんに、よくこうしてもらったことがあるんだ。雷の音がまだ恐かったとき、
 心臓の音を聞かされたんだ』
 『心臓のおと?』
 『そ、心臓の音。心臓の音を聞いてるとな、雷の音が恐くなくなるんだ。
 ほら、俺の心臓の音を聞いてみ?』

 と言って、俺は乃絵美に自分の心臓の音を聞くように促した。

 『う、うん…』

 乃絵美は俺の胸に耳を当てる。しばらくの間、乃絵美は押し黙って心臓の音に
耳を傾けていた。

 『おにいちゃんの……ドキドキしてるよ………』
 『そりゃ、そうだ。生きているんだからな』

 乃絵美のもっともな答えに、俺は苦笑する。

 『どうだ、乃絵美……雷の音、恐くないだろう?』

 俺は乃絵美の様子を伺いながら、聞いてみた。先程まで震えていた身体は収まっている。

 『うん……こわくない……こわくないよ、おにいちゃんっ』

 乃絵美は、ぱっと顔を上げ俺の顔を見つめる。乃絵美の目には、もう怯えの光はない。

 『うんとね、心臓のドキドキっていう音を聞いてたら、かみなりの音が気にならなく
 なちゃった』
 『そっか、よかったな』

 俺は満面の笑顔で乃絵美の顔を見つめ返しながら、頭を優しく撫でた。

 『なぁ、乃絵美。まぁ…あれだ……最初のうちは、すぐ恐くなくなるなんてことはないと
 思うけど、ピカ五郎は悪いことをしてない人には優しいんだよ。だから、安心しろよ?』

 こくっと頷く乃絵美。

 『それでも雷の音が恐かったら、今みたいに心臓の音を聞けばいいんだ。そしたら、
 全然恐くなくなるよ!』
 『うんっ!!』

 俺の言葉に元気よく答える乃絵美。今の乃絵美の顔は、笑顔でいっぱいになっている。
もう大丈夫だろう。

 ふと、枕元に置いてあるデジタル時計を見る。2時を回ろうとしていた。
どうやら長い間、話し込んでたみたいだ。

 『おっと、もうこんな時間だ。ほら、乃絵美。良い子はもう寝てなきゃいけない時間だぞ』

 言いながら、俺は乃絵美を自分の部屋へと戻るようにと促した。だが、乃絵美は
俺のパジャマの裾をぎゅっと握りしめ、そこから動こうとはしない。

 『…………乃絵美?』
 『……おにいちゃんの……おにいちゃんの心臓のおと……ずっと聞きたい………』
 『え?』
 『……………………………………だめ?』

 乃絵美は俺の表情を伺いながら、上目遣いで恐る恐る聞いてくる。乃絵美の目は、
再び潤み始めている。俺に拒絶されたらどうしようという思い、そしてやっぱりまだ雷が恐い
という思い。それが、今の乃絵美の顔の表れている。

 俺の答えは決まっている。

 『おう、いいぞ! じゃあ、一緒に寝るかっ?』
 『うんっ! おにいちゃん、ありがとう!』

 乃絵美の顔は、ぱっと咲いた花のように笑顔になる。そんな乃絵美の笑顔に、俺の顔を
緩んでくる。やっぱり、笑ったほうが乃絵美は可愛い。

 可愛い。

 だからなのかもしれない。つい、こんな意地悪なことを言ってみたくなる。

 『乃絵美は夜更かしをしている悪い子だよなぁ〜。ひょっとしたら、ピカ五郎に
 雷を落とされるかもしれないぞぉ〜?』
 『!?』

 俺のわざとらしい言いように、乃絵美は慌ててベッドの中にもぐり込んだ。そして、
「お兄ちゃん、早く、早く!」と必死な顔で、俺を手招きする。

 この反応が可愛いと思うのは、俺だけだろうか? これが見たいから、
つい、いじめたくなってしまう。

 『そうだな、早く寝よう!』

 俺は笑みをこぼしながら、ベッドの中にもぐり込む。すると乃絵美は俺の身体に、
自分の身体を寄せてから、俺の胸に耳を押し当ててきた。

 『えへへっ』

 乃絵美は笑みを浮かべながら、俺の心臓の音を聞いている。

 『ほらっ、乃絵美。早く寝ろ』
 『はーい。おやすみなさい、おにいちゃん』
 『ああ、おやすみ、乃絵美』

 言いながら、俺と乃絵美は静かに目を閉じた。

 まだ嵐はやんでおらず、雷の音はゴロゴロと鳴り響いている。俺は再び目を開け、
乃絵美の様子を見てみる。

 『…………おにいちゃん………すぅ……………』

 乃絵美は、とても安心しきった表情で寝ていた。

 乃絵美の頭を撫でながら、目を瞑る。すぐ側で寝ている乃絵美の体温を感じながら、
俺は微睡みの中へと落ちていった────────

 んっ……ううん……………

 俺の意識は眠りの深いところから、徐々に浅いところへと上ってくる。
今まで働いていなかった感覚が、動き出し始める。

 耳をすますと、ちちっ、ちちちっ、と鳴いている小鳥の声が聞こえてくる。

 目は、瞼を開きかけては閉じるという動作を何度か緩慢に繰り返したあと、ゆっくりと開く。
今まで暗闇に覆われていた視界に、朝の爽やかな陽射しが飛び込んでくる。

 ぼやけていた頭の中は、朝の眩しい光によって完全にはっきりとする。目を凝らしながら、
部屋の天井を見つめる。

 よく寝られたな…………

 何とはなしに、心の中で呟く。そして、昨夜見た夢のことを思い出す。

 あのときも確か、よく寝られたよな……

 小さい頃。乃絵美が、雷が恐くて俺の部屋に訪れてベッドで一緒に寝たとき、側にいた
乃絵美の心地よい温もりのおかげで、俺は気持ちよく眠ることができた。

 そう、ちょうど今感じている温もりを感じながら。

 温もり?

 俺はまだ夢の中を彷徨っているのだろうか? なぜ今、乃絵美の温もりを感じられるの
だろう。何かの間違い、と思いたいところだが、この感覚ははっきりしたものだ。

 神経をその温もりへと集中させる。寝惚けていたせいだろうか、温もりが伝わってくる
箇所に、なにやら重みが感じられる。それは温もりと同じく、心地よいものだった。
だから気づかなかったのかもしれない。

 重みを感じるのは、俺の右半身からだ。俺はその箇所へと視線を移してみる。

 「!!」

 俺は声にならない声を上げた。自分で言うのもなんだが、俺が驚くのも無理はないと思う、
いや思いたい。重みの正体、俺の右半身に寄りかかっているもの。

 それは───乃絵美だった。

 ちょっと待て!

 夢と現実が区別つかない。どこからが夢で、どこからが現実なんだろう? 確か俺は、
昨日は一人でベッドに入ったはずだ。いや、でも……乃絵美が心臓の音をずっと
聞いていたいって、一緒にベッドに……………

 ああっ、もう! 一体全体、何がどうなってるんだ!?

 「……う、ううん……………」

 乃絵美の身体が、ぴくりと動く。その拍子に、俺の右腕に何か柔らかいものが触れた。

 「!!」

 俺は、再び声にならない声を発してしまった。その瞬間、全身が一気に硬直する。
俺の身体が不自然に固まったせいだろうか、今まで眠っていた乃絵美の意識が覚醒された
らしい。徐々に開かれていく彼女の瞼。俺は、ただそれを見ているだけだった。

 「う、うーん………」

 寝ぼけ眼の乃絵美の視線と俺の視線が合う。俺の額に一筋の冷や汗が伝う。だが、
俺の緊張をよそに乃絵美はにっこりと微笑むと、

 「おはよう、お兄ちゃん」

 と言った。

 乃絵美がきちんと朝の挨拶をしたのだから、俺もきちんと朝の挨拶を返した。

 「お、おおお、おはようございますっ、の、乃絵美くんっ!」

 バカだ、俺は。

 「くすっ。どうしたの、お兄ちゃん? 顔、真っ赤だよ?」

 乃絵美は、俺の返した挨拶に笑みをこぼした。

 「あ、いや、別に………」

 なんでもないと言いかけたとき、不意に乃絵美は俺の額に自分のそれを当ててきた。

 「!?」
 「熱でもあるのかな………?」

 乃絵美の顔がすぐ側にある。それだけでも、心臓が破裂しそうなぐらい悲鳴を
上げている。恥ずかしさのあまり、俺は視線を下のほうへと移した。

 !!

 ただでさえ破裂寸前の俺の心臓に、さらに追い打ちをかけるものがあった。

 それは、今の乃絵美の姿が大きめのカッターシャツ一枚という姿だったからだ。
当然、視線を下に移せば彼女の胸元が視界の中に入ってくる。はだけた襟元が妙に艶っぽく、
俺はごくりと唾を呑んだ。

 「熱はないみたいだね……大丈夫、お兄ちゃん?」

 俺は目をぎゅっと堅く閉じていた。意識を別のものに集中させないと………

 「お兄ちゃん?」
 「ふ、ふえっ?」

 再び目を開けると、そこには顔を膨らませた乃絵美が俺の顔を見つめていた。

 「もう、さっきから呼んでるのに! どうしたの、お兄ちゃん? 変だよ、今日は?」

 誰のせいだっ、誰の!!

 と大声を張り上げたくなるのを必死に押さえて、努めて冷静に乃絵美がなぜ俺の部屋に
いるのかと訪ねてみた。

 すると、乃絵美の表情に少し影が差した。そして、彼女の口がゆっくりと開く。

 「私……恐い……すごく恐い夢を見たの………どんな夢だったかは覚えてないんだけど、
 ものすごく恐かったってことは覚えている………………」

 乃絵美はその夢の恐怖からだろうか、自分の身体を抱くようにしながら言葉を紡ぐ。

 「恐くて……それで眠れなくて………一人部屋にいると泣いちゃいそうで…………」
 「だからって俺の部屋にくるのは、いくらなんでもそりゃ、まずいだろう?」

 乃絵美の少し軽はずみ的な行動に、俺はほんの少し苛ついた言葉を投げかけた。
いくら一人だから恐いといって、兄の、しかも男の部屋に訪れるのは間違っていることだと
思う。

 「…………怒ってる?」

 暗い表情のまま、乃絵美は上目遣いに俺に聞いてくる。

 「怒っちゃいないけどさぁ〜」

 俺は半ば呆れた声で返した。そんな俺の声に、乃絵美の表情はますます暗くなっていった。

 「ごめんね……お兄ちゃん………ただね………お兄ちゃんの心臓の音を聞いたら………
 恐くなくなると思ったの…だから…………」

 乃絵美の言葉の端がだんだんと弱くなっていく。そして言い終わったとき、彼女の目から
一筋の涙がこぼれ落ちた。

 「乃絵美!?」
 「ご、ごめんなさいっ。わ、私、泣いちゃったりして、へ、変だよね!?」

 乃絵美は笑顔を取り繕いながら、必死に涙を隠そうとする。そのとき、不意にあの夢が
思い出された。

 目にいっぱいの涙を溜めて俺の部屋に訪れてきた小さい乃絵美と、今、目の前で涙を必死に
隠そうとしている乃絵美。その二人の姿が重なって見えたのだ。

 乃絵美はあの頃のまま、純粋に自分の気持ちを訴えている。一人だと恐い、だから俺の
部屋にきた。ただ、それだけのことなのだ。

 それに引き替え俺はそんな乃絵美の気持ちをわかってやれず、自分の中にある物差しで
一方的に彼女の取った行動を咎めている。

 まだ乃絵美の涙は止まっていない。彼女の作る笑顔が痛々しい。いてもたってもいられず、
俺は彼女を自分の胸に抱き締めた。

 「ごめん、ごめんな……乃絵美………」
 「どうして……? どうして、お兄ちゃんが謝るの……悪いのは、私のほうなのに?」

 乃絵美は涙で潤んだ瞳で俺の顔を見つめる。

 「俺は、乃絵美の気持ちをわかってやることができなかった。だから、俺が悪い。
 ごめんな、乃絵美」

 俺は素直に謝った。急に俺が謝ったもんだから、乃絵美は慌てた。

 「そ、そんなことないよっ! 私がっ、私が悪いの! お兄ちゃんは悪くないよ!!」

 と、一気に言葉をまくし立てる。興奮したせいなのか、彼女の目には涙はなかった。

 「いいや、俺が悪いんだって。ごめんな、乃絵美」
 「違うよ! 私が悪いの!」
 「俺が悪いんだから、謝らせてくれよ、乃絵美?」
 「だから、お兄ちゃんは悪くないって言ってるでしょ? 悪いのは私の方なの!」
 「いいや、俺が悪い」
 「私が悪いの!!」
 「わからずやっ!!」
 「お兄ちゃんのほうこそっ!!」

 俺と乃絵美はどちらも譲らないという姿勢で、お互いの顔を睨み付けた。

 だが、それも一瞬のことだった。

 「……ぷっ、なんか変だね」

 小さく吹き出して乃絵美。

 「ああ、そうだな」

 俺もつい笑みをこぼしてしまう。俺は乃絵美の頭を優しく撫でながら、再び乃絵美に謝る。

 「ごめんな、乃絵美。乃絵美が、いきなり俺のベッドの中にいたから、びっくりしたんだ。
 なにがなんだかさっぱりでさ、つい苛ついてしまった」

 俺は自分の気持ちを正直に言った。乃絵美を嘘は言いたくなかったし、言うつもりもない。

 乃絵美は俺の言葉に、首を横に振る。そのとき、乃絵美の髪から甘い香りが漂った。

 「ううん。私のほうこそ、お兄ちゃんを驚かせてしまって、ごめんなさい………」

 そう言って、乃絵美の目に涙が浮かぼうとしている。

 「あ、泣くなよっ、乃絵美。ホント、乃絵美は昔と変わらず泣き虫なんだからなぁ〜」

 俺は乃絵美の目に溜まった涙を拭った。そして笑いながら、

 「まぁ、急なんでびっくりしちゃったけどさ。今度からはさ、ちゃんと断ってからに
 してくれよな?」

 とここまで話しかけたとき、俺はとんでもないことを言っていることに気がついた。

 断ったら。

 俺が了承すれば、問題はないのか? ないわけがない。だが、乃絵美にお願いされたら、
たぶん俺にそれを断る術はないだろう。

 「うん、わかったよ……お兄ちゃん………」

 言いながら乃絵美は、俺の背中に手を回してきて、胸に自分の耳を当ててきた。

 「やっぱり、お兄ちゃんの心臓の音を聞いていると安心する……」

 乃絵美はそう呟いて、腕に力を込めてきた。

 乃絵美の柔らかい感触。

 聞いていて、どこかほっとさせるような声。

 クラクラと酔わせるような甘い匂い。

 目には、朝の陽射しに負けないくらいの眩しい脚がシャツの裾からすらりと伸びているのが、
飛び込んでくる。

 俺は五感のうち、四つの感覚で乃絵美を感じていた。

 「……お兄ちゃんの鼓動………早くなってきているね……………」

 乃絵美は俺の顔を見上げながら、呟いた。彼女の口から漏れた吐息が、俺の顔にかかった。

 温かい……

 「………乃絵美が……可愛いからだよ………」

 気がつくと、そんな言葉を出していた。俺は乃絵美の目を見つめる。彼女の瞳は、
俺の顔しか映っていない。そして、俺の瞳にも彼女しか映っていなかった。

 「乃絵美……」
 「お兄ちゃん……」

 お互いの吐息が、お互いの顔にかかる。

 俺が感じてない最後の感覚。

 乃絵美が目をゆっくりと閉じる……………

 そのとき、

 ぐううううううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜っ!!!!

 俺の腹の虫が盛大な音を立てて、鳴り響いた。

 一瞬、固まる俺。

 「……ぷっ、くすくす……あはははっ」

 乃絵美が声を上げて笑いだした。

 恥ずかしいぃっ!

 俺は羞恥のあまり、顔から火が出そうなくらいなった。

 「えっと、あ、あの……そのっ」

 俺がしどろもどろにしていると、乃絵美は笑いを堪えながら話しかけてきた。

 「ふふっ。お兄ちゃん、お腹空いたんだね? じゃあ私、朝御飯の準備してくるね?」

 そう言って、にこっと笑った乃絵美はぴょこんと立ち上がる。そして、まだ落ち着きを
取り戻していない俺の頬に顔を寄せてきた。

 !!

 「じゃあ、お兄ちゃん。また、あとでね」

 乃絵美は身を翻して、俺の部屋から出ていった。乃絵美が出ていったあとも、俺はベッドの
上でぼおっとしているだけだった。

 自分の頬に触れてみる。

 乃絵美の……唇……………

 確かに乃絵美の唇が触れた。その証拠に、触れたそこだけが温かい。

 「ふう……しっかし、やばかったな。あれは……」

 先程の状況を思い出す。残念といえば残念ではあったが、むしろほっとしたところが大きい。

 あのままいっていたら、一体どうなっていただろう?

 だが俺はすぐさま、その考えをかき消すように頭を振る。

 「うしっ! 乃絵美の朝御飯が待ってるんだっ!! さっさと起きますかっ!!」

 俺は自分の頬をはさむように、パンっと叩いて気合いを入れる。

 そしてベッドから抜け出し、窓のカーテンを思いっきり開いた。そこには、晴れ晴れとした
空が広がっていた。

 「よし! 今日もいい天気だっ!!」


あとがき

 はだYSSのはずだったんですが、どこでどう間違えたのやら……(苦笑)。
まったくの別物になっている気がします。(^^;;;
これだと昔話ですよねぇ〜(汗)。
#まぁ、書いててものすごく楽しかったですけど(ぉ

 このSSは、伊藤賢治氏が手がけたロマサガ・シリーズのサントラを聞きながら、
書いてました(笑)。特にバトル曲のベースのラインがものすごく好きなので、
そればっかりかけて書いてました(爆)。
#ぢつはこのあとがきも、ロマサガ3「バトル1」を聞きながら書いてます(ぉ

 「そんなものを聞きながら、よくSSが書けるな?」

と半ば呆れた声で、友人に言われたことがあります。
まぁ、これはSSを書きやすいようにするためのもんでして、さすがに曲の雰囲気を
そのままSSにするなんてことはしません。(笑)。

 今回、初めて一人称で書いてます。SSの書き方というのをいろいろと
模倣してました。三人称とはまた違った書き方なんで、変なところが
あるかもしれません。その辺は、ちと勘弁してやってくださいまし。(^^;;;

 では、この辺で。

                          イトケン節が好きなKNP