人に知られない戦いというものがある。
敵の正体は全く不明。敵の目的も全く不明。
ただわかっていることは敵――棺守は間違いなく人類の敵であり、棺守を倒さなければ人類は滅び去ると言うこと。棺守は人間を棺守に変え、その『感染』を放置しておけば棺守は倍々ゲームで際限なく増え続けると言うこと。
そして棺守を倒すためには特殊な能力を――『刃旗』を使うことが出来る存在でなければ行けないと言うこと。
だから彼ら、『刃旗使い』たちは日夜棺守と戦い続ける。日没と共に現れる、人の記憶には決して残らない人類の敵たちと。
雄叫びを上げて刃旗を振り回す。
「くそ、ちょこまか逃げるなあっ!」
苛立ちのあまり思わずそう口に出して敵に詰め寄るが、攻撃は全然当たらない。
攻撃を繰り返すものの棺守には決定的なダメージを与えられず、むしろ刃旗を振り回す度に今俺がいる橋の被害の方が大きくなっている。
棺守の出現を伝えてきた通信では、『棺守の忘却作用があったとしても、破壊されたものが直るわけじゃない。物的被害は出来る限り避けてくれ』とか言ってたけど、とてもじゃないけどそんなことに気を回している余裕はない。
刃旗使いになって棺守たちと戦うと決めてから、実戦経験なんてまだ数回――一応アイツに言われるとおりに訓練は続けているけど、訓練内容はと言 うといわゆる組み手とかそういった感じのものは一切無く、ただひたすら走り込みや筋トレ。確かにスタミナはついてきたけど、それだけだ。
「しかもネーネもいないっていうのに!」
ネーネがいないのに、棺守と戦ってみても意味はない。
しかしまあ、出現した棺守を無視するわけにはいかず。
「ウォオオオオオオオ!」
もはや意味のない言葉を叫びながら刃旗を振り回し、敵を追いかけ、切り裂き続ける。
命中率をカウントしていたとしたらかなり絶望的な数値だったかも知れないが、それでも攻撃を繰り返せば有効な攻撃は増えていく。命中率が一割だとしたら、百回攻撃すれば十発は当たるのである。
棺守に命中する数よりも橋を削る数の方が多い、そんな攻撃を繰り返しすうちに棺守も弱っていく。
「これで!」
終わりだ、と続けようと思った時。足を取られて無様に転がる。
「クソッ!」
毒づくが、そんな場合ではない。何に足を取られたのかというと、さっきまでの俺の攻撃でボロボロになった地面であり。そんな分析なんかどうでもよく、無様に転がった俺を見て好機と見て取ったのか棺守が俺の元へと駆け込んできて――
「お前の戦いは大雑把すぎる」
そんな、最近聞き慣れてきた無愛想な声と共に誰かが飛び込んできた。
誰か、というのもおかしいか。
有栖川レナ、俺のパートナー。そいつがひらりと、今にも俺の命を奪おうとした棺守の上を飛び越えた瞬間。棺守は二つに切り裂かれた。
いつから戦っていたのかは知らないが、おそらく俺とは比べものにならないほどの実戦経験を積んだ刃旗使い。俺に訓練をつけている本人であり、隣に住んでいて、何の冗談か学校はおろかクラスも一緒で、二人で委員長と副委員長までする羽目になっていて。
「前にも言ったが、お前の戦い方には無駄が多すぎる。そして戦う際の地形の確認は基本中の基本なのだから、常に意識圏の一端で確認しておけ」
そして無愛想で説教くさく、言ってることが正しいので反論できずと言うかしてみてもそれに倍する説教が返ってくるという女。
棺守を切り裂いた後にそのまま華麗に橋の欄干に着地して、まだ言い足りないのか俺を見据えたままの有栖川に、俺は声をかける。
「有栖川」
「何だ」
「そこ、崩れるぞ」
「え?」
さっきの俺の戦闘でダメージを受けていたのか、意識圏を使うまでもなくヒビが入ってもろくなっていた欄干は、有栖川の重さに耐えきれず崩れ出す。
「くっ!」
それでも顕醒中の超絶的な身体能力をフル活用し、信じられないことに川に落ちていく欄干の上からジャンプして橋の上に着地。
「天海陸。お前はもう少し周囲のことを気遣った戦いというものを――」
そして飛び乗った瞬間さっきにも増す勢いで俺にわめき散らそうとしたところで。
『ごぱ』とか『ごが』とか、なかなか聞くことのない音を立てて、有栖川の着地した部分の橋が崩れ落ちた。
そして、さすがにそこから跳躍することは出来なかったようで。
「天海陸うううううう―――!」
恨めしげに俺の名前を叫びながら落ちていく。
ぼちゃん。
そしてそんな音が聞こえた。
「……俺のせいなのか?」
いや、そうかもしれないけど。
さすがにここで放っておいて帰る訳にはいかないというかそんなことをしたら後が怖いので助けに行くことにする。
有栖川レナ。
優等生タイプであるが、不意に訪れるアクシデントにはめっぽう弱い。あと、胸が無い。
『それで、有栖川君の様子はどうなんだい』
「なんか学校には『風邪をひいた』って連絡があったみたいだけど」
そう、有栖川は今日学校を休んでいた。と言っても俺がそれを知ったのは担任のケンちゃんがそう教えてくれたからなのだが。
「しかし、顕醒してても風邪ひくのかよ」
『顕醒中、意識圏と刃旗の使用以外には各種身体能力が向上するだけだ。毒物を摂取すれば被害を受けるし、体を冷やせば風邪を引く』
何とも締まらない話だった。
『まあ、多少は抵抗力も上がるだろうがね。それに顕醒が解ければ刃旗使いと言っても一般人と何も変わらない』
「ああ、そうかよ」
つまりそれは『顕醒が解けてからも濡れた体を拭いもせずに言い争っていたら風邪ひいて当然だこの馬鹿』ということだろうが、俺に言われても知らない。むしろ俺は川に落ちた有栖川を橋の上まで引き上げた方なので感謝されこそすれ非難されるいわれはないというのに、橋を壊したことを責めてきた有栖川の問題だろう。
まあ俺だって全く責任を感じていないわけではないので体を拭くように言ったのに、それを無視して俺にギャーギャー言ってきたアイツが悪い。自業自得って言うヤツだ。
『こっちにも同じような連絡は受けているが、見舞いに行くなら一応様子を教えてくれ。有栖川君にも聞いたが『大したことはありません』だけしか言ってくれなかったからな』
「一応行くけどさあ」
正直、昨日の今日で見舞いに言ってもまた繰り返しになりそうだから行きたくないんだが。
それでも我らが担任であるところのケンちゃんが「委員長の見舞いはクラスを代表して副委員長が行くように」と言い放ってプリントやら何やらを押しつけられたのでしょうがない。
まあ、顔だけ出して様子見てプリント置いて帰れば大丈夫だろう。
そう思って、やれやれと無意識にため息をつくのと同時に――ひょっとしてタイミング見計らってたんじゃねえかというタイミングで、受話器からさっきまでとは違う高い声が聞こえてきた。
『アラアラまあまあ、よろしくないデスわ。パートナーなのですから、看病するのが当然の義務というモノではございませんこと?』
「義務ってお前。って言うか隼人さんは」
『アラ、私との電話ではご不満ですの? それとも隼人さんの声が聞きたくてたまらないとか?』
「ああもう、どうでもいいよそんなことは」
受話器の向こうから相変わらずの高い――悪い言い方をすればキンキン声と言えなくもない、クララのからかうような言葉にそう答える。
向こうが見えるワケじゃないけど、横から受話器をふんだくったんだろう。大して長い付き合いでもないけど、ありありと目に浮かぶ。
「第一、『看病』って言ってもアイツがそれを嫌がったらどうしようもないだろ」
そう。俺だって一人暮らししている知り合いが風邪ひいて弱ってるなら看病ぐらいはしようかとも思うけど、あの有栖川が俺に看病を頼むとは思えない。と言うか時間が経とうと原因が俺じゃなくても、アイツは他人に自分の看病を頼んだりはしないと思う。ましてや俺にとか有り得ないにも程がある。
『YOU、男らしくねえな。男なら責任とりな!』
「ああもう、五月蠅い兄妹だなあ」
そしてまた受話器の向こうでは人物が変わっていた。
『実際どうだったのかは知らねえ。だが女を傷物にしたんだったら黙ってその責任を取るのが男ってモンだぜ』
「いや、責任って」
『あらあらマアマア、こんな陽の高いうちからそんなこと話せませんわ』
そして突然ワケのわからないことを言い出したジョーに反論しようと思ったらもうクララに変わっていた。ああくそ、相変わらず無駄なところでチームワークいいなこのインチキ外国人兄妹。
『そういうことだ。アリスが復活するまではオレとクララで何とかしといてやるから、YOUはアリスの看病に専念しな!』
『それではごきげんよう。次はアリスさんが回復するか何か進展したらご連絡クダサイませ』
『おい、君ら。まだ話は――』
電話の向こうで何か叫び声が聞こえたけど、無情にも通話は切られた。
隼人さんが多少哀れに思えたりもしたけど、かけ直してみても多分同じことになるだけだろう。何か緊急の用件があるなら向こうからかけ直してくるだろうし、そう言う時にはさすがにあの二人も邪魔したりしないだろう。きっと。
頭の中でそう結論づけて、決してあんなめんどくさい電話もうしたくないとか思ったわけではなく、携帯をポケットにしまって家に帰る。
さっきの電話でクララは『陽の高いうち』とか何とかいっていたが、太陽は大分沈んで空には綺麗な夕焼けが浮かんでいる。
「ただいまー」
そして我が家に戻り、そう言って玄関に入った俺を迎えたのは。
「ああリッちゃん、いいところに」
明らかに出勤準備を整え、今にも家を出て行こうと慌てている静流さんだった。
「……夜勤?」
「そういうわけじゃないんだけど、急に呼び出されちゃって。良かった、リッちゃん間に合わなかったらネーネちゃんのことはお隣さんにお願いするしかないかと――」
「ああいや。アイツ風邪引いたらしくって、今日は学校も休んでたから」
「あらそうなの?」
そんな会話をしつつも静流さんの動きは止まらず、靴を履き終える。
「じゃあ、悪いけどネーネちゃんのこと――」
「ああ、いや」
「ん?」
「有栖川の様子見てこいって担任のケンちゃんに言われてるんだよ。プリントとかも届けなきゃいけないし」
そう言って嘘じゃない証拠を示すように、鞄の中からプリントを取りだしてひらひらと振って見せる。
静流さんは「むー」とか軽く唸りながら俺の持ってるプリントを睨みつけていたけど、どうやら本当らしいと――プリントは本物なんだから当然なんだけど、とりあえずは疑うのをやめてくれたのか息をついた。
「そうね。お隣さんも一人暮らししてるんなら不自由してるかもしれないし、しょうがないわね」
「うん。そういうわけで――」
「でもね!」
どうやら納得してくれたらしいのを見て安心した俺が言葉を続けようとすると、いつになく大きい声で遮られた。
「あくまでも『クラスメイトのお見舞い』として節度を守った行動をお願いするわね」
そしてギリギリと、なんだかすげぇ力で両肩を押さえられながらと言うかもはや握りしめながらそう念を押された。
「も、勿論。当然じゃないか」
思わず乾いた笑いなど浮かべつつそう返事をすると、それでも静流さんは探るように俺の目を覗き込んできて、しばらくしてやっと解放してくれる。
正直棺守が目前に迫ってきた時なんか目じゃないプレッシャーから解放されてホッとした。
「でも、そうするとネーネちゃんどうしよう。やっぱり連れて行くしかないかしら」
「あ、そうか」
静流さんがいると思っていたので何も考えていなかったけど、静流さんが出勤して俺が有栖川の家に行ったとすると、ネーネはこの家で一人になってしまう。
「有栖川の風邪が移るとまずいしなあ……」
困った。本当に困ったけど、どうしようもない。獣医とはいえ、まさか医者であるところの静流さんが「知人が風邪引いて寝込んでるので行けません」とかいうわけにもいかないだろうし、だからといって俺が見舞いに行かないって訳にもいかないだろうし。ジョーやクララと隼人さんに関しては事情説明すれば大丈夫だと思うけど、ケンちゃんが納得してくれるとは思えない。
ああでも、明日の朝早めに行くっていう手も――
「ネッ!」
思わず考え込んでいたら、ネーネに服の袖を引っぱられた。
「あ、ごめんな。どうした?」
「お留守番する」
「……え?」
予想だにしてない言葉にあっけにとられた。俺はもちろん静流さんも。
「だから、ネーネがお留守番する」
どうやら聞き間違いじゃなかったらしい。思わず静流さんの方を見たが、静流さんも驚いたような表情をしながらこくこくと頷いている。
「ネーネ、一人で留守番してくれるのか?」
かがみ込んで視線の高さを合わせ、もう一度聞き直す。ネーネの言うことが本当ならとても助かるけど、てっきりネーネは一緒に来たがると思ったので。
だからそんな都合のいい展開は信じらなかったんだけど。
「うん。ネーネ、ひとりでお留守番できる!」
ネーネは誇らしげに胸を張ってそう言った。
肉体的にどうこうではなく、確かに成長しているネーネに軽く感動すら覚えた。
まあともかくこれで問題は解決したことだし、有栖川のお見舞いをとっとと済ませて――
「だから、パーパはマーマの看病をして」
ネッ! という感じでまたも誇らしげにそう言うネーネ。実に喜ばしい成長っぷりである。あるのだが。
「……リッちゃん?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。漫画だったらそんな擬音が後ろに書かれるだろう迫力の元、静流さんが再び俺の両肩を握りしめる。
「あくまで『お隣さん』で『クラスメイト』のお見舞いをしに行くのよね?」
「「も、勿論。静流さんが何を想像してるのかわからないけど、それ以上の関係なんて――」」
「パーパ、マーマのこと嫌いなの?」
「いや、そうじゃなくて。っていうかネーネ、とりあえず部屋で休んでてくれないかな?」
「『パーパ』、大丈夫よね?」
「だ、大丈夫だって!」
何がどう大丈夫なのかは俺にもわからないけど、俺は必死にそう答える。
「私も一緒にお見舞いに行こうかしら……」
「いや、静流さん仕事でしょ!?」
「でも……」
とりあえず、静流さんの説得に十分近くを要したことだけ記しておく。そのタイムロスのせいで静流さんが出勤後に怒られたりしたかもしれないけど、正直そこまで気遣ってる余裕はない。
とりあえず助けてくれ。色々と。
「ここ、だよな」
何となくそう独りごちる。『だよな』もなにも、庭を挟んで隣同士の家を間違えるわけはないんだが。
目の前の表札にもしっかり『有栖川』と書かれているので間違いはない。
「……よし」
気を取り直して、チャイムを鳴らすことにする。よく考えてみると、アイツが隣に住んでいることは理解していただけどこうやって訪問するのは初めてで――というかよく考えてみると、女子の家を一人で訪問するのなんて初めてだ。
「静流さんが余計な気を回しすぎなんだって」
そう。静流さんが心配するまでもなく、俺と有栖川は『クラスメイト』で『クラス委員長と副委員長』と言うだけの間柄だ。まあそれに加えて刃旗使いで有栖川曰く『パートナー』なんだけど、それは別に静流さんが考えているような色気のあるものでは――
「ああもう!」
俺も余計なことを考えすぎだ。静流さんのことを言えた立場じゃない。
とりあえず、もう余計なことを考えずにチャイムを鳴らすことにした。
ぴんぽーん。
我が家と同じチャイムの音が聞こえる。
そう、とりあえずプリントを渡して様子を見るだけ。ただそれだけだ。
「あ、お見舞い――」
出がけにこれ以上なくバタバタしていたのでさっぱり忘れていたが、見事に手ぶらだった。
まあ、いいか。高校生がクラスメイトのお見舞いに行くだけなんだし、妙なもの持って行っても邪魔になるだけかもしれないし。
「まあ、何か欲しがったら買いに行ってやるか」
そしてしばらく待つが、反応はない。
「……留守か?」
呟いてみても、当然その声に応えるヤツはいない。
まあ、体調が良くなって出かけたという可能性もなくはない。
でもふと見ると玄関脇の郵便受けには出前のチラシやら何やらが突っ込まれたままになっていて、朝から郵便受けを見ていないことは確実だ。
『面倒なので郵便受けは放置している』という可能性は、アイツに限ってはないだろう。むしろアイツは俺の家がそうなっていたら指摘してくるタイプだろうし。
そうするとつまり――アイツは外出していない。
家の中で静かに寝てるだけなら何の問題もない。そう結論づけて返ろうとも思うんだけど――郵便受けが。
全く、余計なことに気づいてしまったものだ。アイツは多分体調が回復したらこの郵便受けに詰まっているものを回収しに来る気がする。ああもう、どんどん気になってきた。
昨夜はアイツが突っかかってくるから言い争いになってしまったけど、確かにアイツが川に落ちた原因の一つには俺があるだろう。断じて原因の全てではないが。
こう言うとき、庭付き一戸建ては不便だ。アパートだったりしたらドアから中に呼びかけたりも出来るが、さすがに道路から部屋の中に聞こえるような声を出したり出来ないし。いくらインターフォンが着いていても、住人が出てくれないと何の役にも立ちやしない。
「どうするか……」
ドアの前まで行って声をかけるという手もあるけど、それもあんまり意味はないだろう。うちと間取りは一緒だろうから、多分一階が居間で有栖川の寝室は二階だ。二階に届くような声を出すなら、ここから叫ぶのとほとんど変わりはない。
二階だから窓から中を覗き込むわけにも――いや、一階でもダメか。
いくらお隣さんだからと言って、庭に入って部屋の中を覗き込んだりしていたら――しかも世間的には一人暮らししている女子高生の家を覗き込んだりしていたら、ただの不審者だ。別に有栖川が訴えなかったとしても、そんなところを別な誰かに見られたりしたら変な噂をされるに決まっている。
なんとかこの場から家の中を――
「あ、そうか」
どうやら俺はテンパっていたみたいだ。
一度道路に出て、左右を確認する。続いて周囲の家。どうやら誰もいないことは確認できたので、一応念には念を入れて塀に近づき、自分の体で死角を作って右手を隠す。
「顕醒」
そう呟いた直後、意識は拡大する。
極度の近視で眼鏡無しでは人の顔すら判別できなかった視力は格段に向上し、そしてそんなものは副産物に過ぎないとばかりに俺の周囲数メートルに展開される拡大意識効果領域――意識圏は物理法則を歪め、一般家屋の壁材なんて無視して家内の状況を俺に認識させる。
やはり一階にはいない。そうすると二階――やっぱりだ。二階の一室では有栖川がベッドに横たわっている。しかも体調が良くなったわけではないようで、あの有栖川が苦しそうな表情を隠しもせず、熱のせいか顔を赤らめてハァハァと荒い息を――。
「って、待て」
自分の思いつきが問題の全てを見事に解決してくれそうだったので迷わず実行したが、これは世間一般で『覗き』と呼ばれる行為に入るんじゃ無かろうか。
しかも、窓から部屋を覗き込むのとはレベルが違う。意識圏の超感覚を利用して今もクリアに弱った有栖川の寝姿を――
「だから待てって!」
思わずそう叫んで顕醒を解除する。慌てて辺りを見回したが、幸いなことに今の俺の言葉を聞いてるヤツはいなかった。いや、意識圏に引っかかっていなかったからいるわけはないんだけどそれでも何となく。
「まあとりあえず、アイツが起き上がるのが億劫なほど体調を崩してることはわかった」
誰かが聞いてるワケじゃないが、誰よりも自分に言い聞かせるようにそう呟く。
そう、俺は変な気持ちだったワケじゃなくクラスメイトで委員長と副委員長で棺守と戦うパートナーであるところの有栖川レナを純粋に心配して様子を見に来たんだ。断じてあんなヤツに変な気持ちは抱いていない。そうだ、あんな無乳に。
何度か大きく呼吸をすると――まあ他人の家の前で深呼吸する高校生というのも十分不審な気もするけどそんな現実からは目をそらす。とにかく何とか呼吸も落ち着いたので、もう一度一応チャイムを鳴らす。当然出ることが出来ないことはわかりきっているので、反応を待つこともなく門を通ってドアの前に。
「有栖川、天海だけど入るぞ」
一応大きめな声でそう告げてドアのノブを回す。鍵がかかっていたらまた考えなきゃいけなかったが、幸いながら鍵はかかっていなかった。
郵便受けならともかく家の鍵を閉めるという、几帳面とかそうじゃないとか言う問題以前のことを出来てないことから考えるに、アイツの体調はよっぽど悪いんだろう。
そんなに悪いんなら、俺じゃなくても誰かに――いや、無理か。アイツの交流関係を完璧に押さえてる訳じゃないが、どう考えてもそう言う友達がいるとも思えない。まあいたとしてもそんな弱みを見せるとは思えないが。
そんなことを考えながら玄関に入り、靴を脱いで二階に向かう。
階段を上がりきった右側が有栖川の寝ている部屋だから――
さっき意識圏を使って手に入れた情報を頭の中で整理しつつ階段を上り始めると。
「天海陸、か? 何をしに――」
階段の上から予想してなかった声がした。
まあこの家には有栖川しかいないんだから、それは有栖川の声なんだが。
「なんか風邪こじらせてるみたいだから見舞・い・に――」
『見舞いに来たんだ』と言おうと思ったんだが。
「不要だ。帰れ」
階段の上から、立つのも辛いのか壁に体を預けるようにしながら立っている有栖川は。
「何だ。帰れと言っているだろう」
「その、格好」
何とかそれだけ口に出せた。
「お前の言うとおり、風邪気味だったから寝てたんだ。寝間着を着ていて当然だろう」
「寝間着ってお前」
まあ、有栖川の言うことは筋が通っている。寝ていたんだから寝間着を着ているのは当然だ。ただその『寝間着』が問題なわけで。
「ズボン」
そう、ズボンだ。
「寝るときはこの方が楽なんだ」
そして俺の指摘はそんな言葉で一蹴された。
とりあえず整理しよう。俺の目の前――階段の上だから目の前というのもおかしいかもしれないが、とにかくそこにいる有栖川の寝間着は。
Yシャツだった。白いシャツだった。いや、Yシャツじゃなくブラウスか?
いやとりあえず今はそんなことは問題ではなく、じゃあ何が問題なのかというと。
はいてなかった。
いや、下着は履いてる。それは間違いない。だってその。有栖川が上で俺は下――何かを暗示するような立ち位置にいる現在、俺は有栖川を見上げる形になっているわけで。
裾がそんなに長いというわけじゃないシャツだけだと――そう、さっきの有栖川の言葉から判断するに過失ではなく故意にズボンやそれをはいていない状態だと。
見えるのだ。
何がって平たく言うと。
ぱんつが。
白とブルーのストライプの。
予想だにしていなかった出来事の前に俺が硬直していると、有栖川も不審に思ったのか小首をかしげる。
そして自分の姿を見下ろし、続いて俺の方を見て。お互いの位置関係と俺の視線が向いている方向を確認して――。
「顕醒」
明らかに風邪による発熱以外の理由で顔を赤くして、恐ろしい速度で顕醒して何の迷いも躊躇も容赦もなく俺に飛びかかってきた。と言うか攻撃してきた。
「ちょっと待て!」
ガァン、という激しい音を立てて、有栖川の刃旗は俺の刃旗にぶつかった。
危なかった。普段の訓練が実を結んだのか、数少ないとは言え実戦経験が役に立ったのかはわからないが、ともかく俺の顕醒も間に合ったので有栖川の刃旗を防ぐことができなかった。しかし今のは防げなかったら明らかに俺の首は胴体と生き別れになっていた。
「殺す気か!」
「死ね!」
そして非難したら当然のようにそう言われた。
いや確かに俺が悪いような気もしてきたが、それを認めると比喩でなく命の危険がありすぎる。
しかしこの状況で弁解するというのは難しく、と言うか有栖川は未だにその手に持った刃旗に力を込め続けているので、今俺が力を抜いたりしたら間違いなくあの世行きだ。脳裏に天使の輪と羽根をつけた洋兄がこっちを見て楽しそうに笑っている姿が浮かんできたが、とりあえずまだそっちには行きたくない。
有栖川の刃旗は大きめの手裏剣のような形状、そして俺の刃旗は両手剣だ。どう見てもこの肉薄された状況は俺にとっては不利すぎるので間合いを取りたいところだが、この階段という不安定な足場では有栖川を引き離すような動きが出来るとは思えない。
「くっ」
どうしたものかと考えていたら、有栖川がそう言ってふらついた。
維持することもできなくなったのか、顕醒も解除されて倒れこんで――
「って、おい!」
階段を踏み外し、俺の方に倒れ込んできた有栖川を慌てて抱き留める。
さっきも言ったとおり有栖川は下着とシャツしか着ていなく、顕醒中で鋭敏化した俺の感覚はそのシャツの下に何も着ていないことをありありと――
「いやいやいや」
とりあえず俺も顕醒を解除する。いけない。なにかがいけない。
「くそ、離せ……」
「そんな足下もおぼつかない状況の病人を放り出せるか。いいからとりあえず体制立て直せ」
「誰のせいだと――」
言われるまでもなくそれは俺のせいなんだけど、有栖川も俺に抱き留められたままという状況は嫌だったようで何とか体勢を立て直す。
「とりあえず部屋に戻れ。看病してやるから」
「不要だと言っただろう」
「足下ふらふらさせながら言っても説得力ないっての。歩くのが辛いんならさっきみたいに抱きかかえていってやるぞ?」
「ふざけるな!」
なおも強がる有栖川に、皮肉っぽくニヤニヤ笑いながらそう言ってやると、案の定そんな風に叫んで壁に手を突きながらで多少足下はおぼつかなかったが、自分の部屋へ歩いていった。
「……ふぅ」
よかった。もしこれで一人で歩くのが難しいようだったら俺が連れて行ってやらなきゃ行けなかっただろうが、まさかさっき言ったように有栖川を抱きかかえていくなんて――
「いやいやいや」
思わずさっきのシャツ越しに感じられた、発熱してるせいかやけにくっきりと感じられる有栖川の体温を思い出しながらそう言ってかぶりを振る。
今日の俺はあくまで見舞いに来たのであり、多少アクシデントがあったのは事実なので、それのお詫びの意味も含めて看病するのだ。
そうだ。あんな無乳に俺が変な気持ちを持ったりすることはない。ないんだって。
「邪魔するぞ」
「帰れ」
一応最低限の礼儀として部屋に入る前にノックして声をかけたが、まあ予想通りの返事があったので無視して部屋に入る。
「人の話を聞け」
「ああ、はいはい。とりあえず一人で歩けるようになったら聞いてやるから」
そう言って有栖川が寝るベッドの方に歩いていくと、ようやっと俺に返る気がないことを理解したのか文句を言うのをやめてくれた。まあ、まだなんかぶつぶつ言ってるけど気にしない。病人と言い争いをしてもしょうがないのだ。
「で、昨日は帰ってすぐ寝たのか?」
「ああ。シャワーを浴びてすぐに寝た」
「食事は?」
「食べてない」
「なんか食えよ。風邪引いて食欲無いのはわかるけど」
「ああもう五月蠅い! 第一風邪ひいたのだってお前の――」
「あー、はいはい。わかったわかった」
怒りにまかせて布団から飛び起きそうになった有栖川を制して宥めつける。納得したわけじゃないと思うが、少なくとも今飛び起きてどうこうしようと言うことは思わなくなったらしい。
「で、今は?」
「何がだ」
「だから、食欲」
「……少しなら食べられそうな気がする」
「よかった」
有栖川の返事を聞いて、床に用意していたお盆を持ち上げた。
「……何だ?」
「食欲沸いたんだろ? こんなこったろうと思ったから、台所借りたぞ。あと、冷蔵庫の中もちょっと使わせて貰った」
「別に構わないが――」
そう答える有栖川は、珍しくなんだかきょとんとした顔をしていた。
「何だよ」
「お前、料理できたのか?」
「ああ。っていうか、うちの料理担当は主に俺だ」
俺の答えに驚いたのか、なんだか少し間抜けな顔で驚いている有栖川は見ていて面白かったが、あんまりじっくり見てるとまた怒りそうなので言葉を続ける。
「ほら、食え。無理に全部食わなくてもいいけど、少しは食わないと薬も飲めないぞ」
「……五月蠅い。わかっている」
俺の言葉には相変わらずの憎まれ口を叩いてくるが、腹が減っているのは事実らしく素直にレンゲを手に取った。
そしてなんだか妙に慎重におかゆをすくい、口元に運んでいく。二度三度と息を吹きかけ、食べやすい温度に冷ましてから――
「天海陸」
「お、おう。何だ?」
「そうじっと見られていると食べにくい」
「あ、悪い」
言われて気づいたが、有栖川の言うことは至極最もだった。部屋を出る気はしなかったのでそのまま後ろを向いてドアの方に目をそらしたが、さすがの有栖川も追い出す気はないのか何も言わず、俺の背後からはおかゆに息を吹きかける音と、かすかに食事する音だけが聞こえてきた。
「どうだ? 一応病人食ってことで薄味にしたけど、味が足りないようならもうちょっと――」
何だか間が持たなくなって、後ろを向いたままそう問いかけてみる。
「いや、大丈夫だ。その。十分、美味しい」
「そうか」
会話が終わった。
なんだ、この展開は。こんなことは想定外というか、あの有栖川が素直にそんなことを――
「料理担当がお前って言うのは本当らしいな」
「……お、おう。静流さんが料理できないとか言うことじゃないけど、あの人獣医だから忙しいんだよ。だから自然と出来るようになったんだ」
「そうか」
また会話が止まった。
本当になんだ、この展開は。
いつもだったらコイツはもっとギャアギャアと色々言ってくるか、俺の言葉をばっさり斬り捨てるようなヤツなのに――
「天海陸」
「お、おう。どうした?」
少し考え込んでいたら名前を呼ばれてしまい、思わず慌てて返事をする。
「いや、食べ終わった」
「って、全部か?」
「ああ」
言われて振り返ってみると、確かに俺の用意したおかゆは綺麗に――有栖川らしく米粒一つ残さず平らげられていた。
「無理して食べないで、残しても良かったんだぞ?」
「いや、どうやら自分で思っていたより空腹だったみたいだ。ええと、その――」
「な、なんだよ」
熱のせいだと思うが、何だか頬を赤らめて何事か言おうとする有栖川に何とかそう言うと、言葉を続けた。
「ご馳走様でした」
「……おう」
何だこれ。
いや別に食事の後のよくありふれた光景だと思うし、この前静流さんに拉致られもとい誘われてうちで夕ご飯食べたときも有栖川は礼儀正しくそう言ってネーネもそれを真似したりとかそんな一幕はあったけど。
「しょ、食事をご馳走して貰ったらそう返すのは当然だからな」
「お、おう。そうだな。お粗末様でした」
有栖川も何だか落ち着かないのか言いつくろうかのようにそう言葉を続けたので、俺も返事をする。
いやまて、何だこれ。
俺はただ単に風邪を引いたクラスメイト以下略の看病をしに来ただけであり、別にやましいことは全くないわけだが――さっきこの家に入る前にも思ったことだが、女子の家に一人で来るなんて――しかも一人暮らししている家に入って、二人きりの状態で食事を用意したりすることなんて初めてだったし、しかもその女子は多分あの布団の中ではさっきみたいな格好をしていて――
駄目だって。
俺は看病をしに来ただけであり、静流さんが心配したりジョーやクララが期待するような展開があるはずはないのだ。
そりゃ確かにこうやって冷静に考えると有栖川は美人だし、確かに胸はないけどそれはそれで――
「薬、そうだ。薬とか無いのか?」
「あ、あるはずだが」
何だか妙な方向に加速しそうになった思考を途中でぶった切って、有栖川に問いかけるとなぜか向こうもちょっと驚いたように返事をしてきた。
「どこ」
「……その辺」
なんだかばつが悪そうに指さす先を見ると――いやまあさっきから視界には入っていたんだが、段ボールが何個か積まれていた。
「……お前、引っ越してきたのいつだよ」
「忙しかったんだ」
そんな言い訳をされるが、まあここでそれを問いただしても意味はない。
とにかく食事は済んだんだし、あとは薬でも飲ませて俺は退散するとしよう。
何というかその。認めにくいことだが、風邪で弱った有栖川と一緒にいると調子が狂う。これ以上この状況に身を置くのは、きっと俺にも有栖川にもいい結果をもたらさない。
とりあえず段ボールに近づくとそのうち一つに『薬・雑貨』と書かれたものがあることを発見した。
「開けて中見るぞ」
「ああ」
『その辺』とか曖昧な言い方をするから不安になったりもしたが、段ボールを開けると中にはプラスチックで出来た薬箱が入っていた。
それを引っ張り出して中を開けると、ざっと見たところ一通りの薬は揃っているようだった。
俺はその中から見慣れた会社の風邪薬を取り出す。
「なんだ、新品じゃないか」
「風邪をひいたのは久しぶりだからな」
「とりあえず、封開けるぞ」
「ああ」
一応返事を聞いてから箱を開け、ビンを取り出す。多分三錠で良かったと思うけど、一応用法を――
「有栖川」
「なんだ」
「この薬、買ったのいつだ?」
「……」
返事がなかった。
そりゃそうだろう。
俺の手の中にある風邪薬には製造年月が印字されている。
『2005・11』
ちなみに今年はと言うと、確認するまでもなく二〇〇八年である。
「風邪ひいたのなんか久しぶりなんだ!」
俺の言いたいことを理解したらしく、そう叫んだ直後に咳き込んだ。
「ああもう、わかったわかった」
そう言って俺は席を立つ。
「どうする気だ」
「家に戻って薬取ってくる。俺もあんまり薬に世話になったりしないけど、少なくとも使用期限が切れたりはしてないだろ」
なんたって静流さんは医療関係者である。いやまあ獣医だけど、少なくとも薬の使用期限が切れるまで放っておいたりはしないだろう。
「ネーネの様子も見てくるからちょっとかかるかもしれないけど、そんなにかけないで戻ってくるから大人しく寝てろ」
そう言い放って部屋を出る。
そして我が家へ――
「天海陸」
戻ろうとしたところで声をかけられた。
「なんだよ」
声をかけられた以上無視するわけにはいかないのでそう問い返す。すると有栖川は少しの間言いよどんだ後、それでもちゃんと口に出した。
「ありがとう」
「――いいから寝てろ!」
そう言って俺は今度こそ有栖川の部屋を出て扉を閉めた。色んなものを断ち切るかのように。
「ただいま」
そう言いながら玄関に入り靴を脱いでいると、奥からネーネが走ってきた。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
ネーネにもう一度そう言って、玄関を上がる。
「マーマ、大丈夫だった?」
「ああ。多分明日には良くなってると思うよ」
とりあえず、ネーネに心配をかけないためにそう答える。そういや熱とか計ってなかったけど、食事も出来て足し大丈夫だろう。きっと。
「あ、そうだ。汗拭かなきゃまずいよな」
有栖川の家にもタオルぐらいはあるだろうけど、せっかく戻ってきたんだし何枚か持って行くか。そんなことを考えながら脱衣場に行き、タンスの中からタオルを数枚取り出す。
……新品の方がいいだろうか。
「いや、いいか」
何だか妙に気が回ってしまうが、きちんと洗濯はしてあるんだしそんなわがまま言うヤツじゃないだろう。でも一応それなりに新しめのを選んでくか。
そんなことを考えながらタンスを漁っていると、服の裾を引っぱられた。
「ん?」
「ネーネもお手伝いする」
「ああ、いや……」
「ネーネもマーマの看病する!」
そして『何かやらせろ』と言わんばかりにぐいぐいと引っぱってくる。
まあ、ネーネがアイツに懐いてるのは知ってたから別に驚いたりはしないけど……正直、手伝いと言っても。
ネ―ネの気持ちは大事にしたいけど、さすがに有栖川の家に連れて行くわけにはいかないし。そうすると……
「あー。じゃあネーネ、風邪薬用意してくれるか? 有栖川に飲ませるから」
「ネッ!」
俺の言葉を聞いて、ネーネは『了解』とでも言うかのように敬礼をしてから今に向かってとてとてと駆けだしていった。
「よし。タオルはこんなもんか」
さっき冷蔵庫の中を見たら飲み物は入ってたし、特に足りないものはないだろう。
明日になっても治らないようなら食い物とか用意しないといけない気がするけど、それはまあ明日考えればいいか。
「いや、ここまで看病したから最後まで面倒見てやろうって言う義務感だぞ?」
「ネ?」
「おわっ!」
誰にともなく呟いたら、返事があったので超驚いた。いやまあ誰の返事って当然ネーネなんだが。
「はい、お薬」
「お、おう。ありがとな」
差し出されたネーネの手にあるのは、カエルを模した小さいポーチ。確か近所の薬局で貰った、ネーネのお気に入りのヤツだ。
「じゃあ、俺はもう一度有栖川の家に行ってくるけど――ネーネ、もうちょっと一人でも大丈夫か?」
「大丈夫。あと、さっきバーバが『もうすぐ帰る』って電話で言ってた」
「ああ、静流さん帰ってくるのか。それじゃあ大丈夫だな」
「ネッ!」
そしてネーネはまた敬礼。どこで覚えたのかは知らないけど、気に入ってるっぽい。
「何かあったら俺の携帯に電話してくれればいいから。電話の短縮2番だけど、大丈夫か?」
「ネッ!」
「よし」
そして俺はネーネからポーチを受け取り、もう一度有栖川の家に向かうのだった。
「入るぞー」
一応そう声をかけてから有栖川の家に入って二階に向かう。二回目なのでさすがに緊張することもなく――って、何で緊張しなきゃいかんのだ。駄目だ、やっぱりなんかおかしい。
何がおかしいのかさっぱりわからないし何となくわからない方がいい気がするけど、とにもかくにも有栖川の部屋の前に到着した。
「俺だけど。入って大丈夫か?」
「ああ、かまわない」
一応最低限の礼儀としてノックをしながら声をかけたらそう返事があったので、扉を開けて中に入る。返事の声が何だか固かったのはこの際気にしない。
「とりあえず薬と、タオル持ってきた。多分今日は風呂とかやめといた方がいいと思うけど、汗は拭いた方がいいだろ」
「そうだな」
言いながら俺の手からタオルとポーチを……ああ。
「そのポーチはネーネのだ。『マーマに』って言ってお気に入りのポーチに薬入れてくれたんだよ」
「そ、そうか。今度お礼をしないとな」
「お、おう」
何だかまた妙な雰囲気に。だからいかんのだってば。
「そんじゃさっきの食器を軽く洗って水用意してくるから。その間に体拭いて着替えとけ」
「わかった」
そして有栖川は素直に俺の言うことを聞く。いや、俺が言ってることは何一つ間違ってないんだから当然なんだけども。
「それじゃあな!」
そしてそれだけ言うと、床に置かれていた食器を回収してさっさと部屋から出る。
とりあえずあれだ。落ち着け俺。
何度も言ってるが、俺はお隣さん(以下略)として有栖川の看病に来ているだけだ。そこに他意はないし、言ってみれば義務感でやってることだ。ネーネは何を勘違いしてるのか俺のことを『パーパ』って呼ぶみたいに有栖川のことを『マーマ』って呼んでるけど、それはネーネが勘違いしてるだけで。特にそれ以上の理由はない。
第一、俺がどう思おうとアイツが――
そう思った瞬間、俺の脳裏には有栖川の姿が。しかもあの階段の上でのYシャツ一枚の――
「ああもう!」
駄目だ。
アレだ。もういっそ認めよう。俺も年頃の男子高校生なので、女子のああいう姿を見たらそれなりに意識する。それはしょうがないんだ。
だから俺は有栖川のことを特別どう思ってるとか言うことはない。ないんだって。
なんとか自分の心を落ち着けて、食器を洗い始める。
とは言っても一人分の食器だったのですぐに終わってしまう。
「あとは水持って行くだけか」
冷蔵庫にミネラルウォーターがあったので取りだして――そうだな。ペットボトルごと持って行くか。薬飲み終わった後も喉が渇くかも知れないし、その時は手元にあった方が助かるだろう。
ついでだから郵便受けに詰め込まれてたものを回収して、さすがに詳しく見るのは問題があるだろうから下駄箱の上に揃えておいておく。
時計を見ると、さっき有栖川の部屋を出てから十五分ぐらい。そろそろ大丈夫だろう。
ミネラルウォーターの入ったペットボトルとコップを持って階段を上り、有栖川の部屋の前に。
さすがにもう着替え終わってるとは思うが、念には念と言うことでノックをする。
「着替え終わったか?」
「う、うむ」
「じゃあ入るぞ。水持ってきたから」
「そ、そうだな」
中から帰ってくる有栖川の声は何だかはっきりしなかったが、病気で気弱になってるだけだ。ここで俺が妙に意識するから変な感じになるんだ。
「よし、入るぞ」
気を取り直してもう一度そう声をかけ、中に入る。
視界の隅にクローゼットの前が――というかクローゼットの前に無造作に脱ぎ捨てられたシャツが見えたが、気にしない。何もおかしいことはない。あれはただの服だ。布だ。何も意識する理由なんか無い。
「それじゃ、水」
そう言いながらコップに水を注ぎながら有栖川の方を見ると、何だか妙な表情をしていた。なんといったらいいか、その。表現しづらい。
「どうした? ひょっとして風邪薬じゃなかったのか?」
「いや……」
有栖川がその手に持っていたポーチをこっちに渡してくる。
ジッパーは開いていてにあるものが見えるわけだが――
「ベポラッ○?」
そう、そこにあるのはヴィックスベポラッ○だった。
「えーと……」
まあ確かにネーネにとって『風邪薬』とはこれなのかもしれない。俺も子供の頃に塗って貰って気持ちよかった記憶がある。
そしてそのままうつむき、沈黙する。有栖川もどうしたらいいのかわからないのか何も言わず、しばらく経ってから視線を上げて様子をうかがうと向こうもちょうどこっちを見てきたところだった。目があった。即座に目をそらした。
いかん。いかんぞ。何か俺の脳裏に――そしてひょっとしたら有栖川の脳裏にも一つの映像が思い浮かんでいる。
駄目だ。それは駄目だ。それはもう決定的に駄目駄目だ。
「ひとっ走りして風邪薬取ってくるよ!」
何とかそう言い放って立ち上がり、そのままダッシュで普通の風邪薬を――
「いや」
取りに行こうとしたら、止められた。
「これで……いい」
「……え?」
聞き返した。
いや、有栖川の言ったことが理解できなかったワケじゃない。確かに俺は近視で眼鏡をしてるけど、耳は決して悪くはない。
こんな距離で――手を伸ばせばお互い届くような距離で発せられた言葉が聞こえないほど耳が悪くはない。
でも、聞き返さないわけにはいかなかった。
その言葉が信じられなくて。その言葉の後にどんな言葉が続くのか。当然のように思い描かれることが信じられなくて。
「薬は薬だろう」
「いや、そりゃそうだけど」
何を言っているのか。確かにレナ――有栖川は風邪をひいていて、発熱してるので顔も赤くって、そう言うときは心細くなって普段とは違ったことを言い出すのかも知れないけど。それでも。
「それに」
何とか止めなきゃと。そう思って反論しようとするが上手い言葉が思いつかずにいると。
有栖川は俺を――そして結果的には自分を追い詰める言葉を発した。
「これが役に立たなかったと知ったら、あの子は悲しむだろう?」
それはそうだ。ネーネが大好きなマーマのために用意してくれた薬だ。そしてネーネなりの心遣いで、お気に入りのポーチに入れて渡してくれた薬。今ここで家に戻って「アレじゃ駄目なんだ」と伝えれば、確かにネーネは悲しむだろう。
「妙なことを考えるな。ただの医療行為だろう」
「そ、そうだよな」
有栖川に言われて、最早無理矢理自分を納得させてそう答える。
「一応、眼鏡外すな」
「あ、ああ。頼む」
有栖川の答えを聞いてから眼鏡を外し、おぼろげな視界の中ベポラッ○の容器を開け、中身を指ですくい取る。
「ええと、胸元を……」
「わ、わかった。近くに来て大体の場所を把握したら、目をつぶれ。私が指示する」
「そ、そうだな」
言われたとおり有栖川に近づいて、その胸の前に手をやってから目をつぶる。
「……見てないだろうな
「見えねえよ」
「……顕醒して意識圏を使ったりしたら、お前の首を即座にはねるぞ」
「余計なこと言うな!」
正直こっちだって色々限界だというのに、本当に余計なことを言う。もう意地というか何というか、とにかく全力で両目をつぶって有栖川の声を待つ。
プチプチと、まあ考えるまでもなくシャツの前のボタンを外す音が聞こえた後に声をかけられる。
「よし。やってくれ」
「おう」
なんとかそう返事をして、震えそうになる右手を前に出し――多分凄まじくゆっくりとした速度で進み、それでもやがて到達する。
「ひゃうっ!?」
「へ、変な声出すな!」
そして触れると同時に声を出されて、思わずそう叫ぶ。
「す、すまない。慣れない感触だったから」
「薬なんだから我慢しろって」
「そうだな」
そしてそのままお互い沈黙し、時間が流れる。
しかし、色んな意味でこのままじっとしているわけにはいかない。今ここで出来るベストな洗濯は、この『医療行為』をさっさと終わらせることだ。
「じゃあ、塗り込むぞ」
「塗り――ッ……って、そうだな。うむ。わかった。いいぞ」
有栖川も同じ結論に達したのかそう言ってくれたので、手についているベポラッ○を塗り込んでいく。
余計なことを考えるな。俺は風邪を引いて息が苦しい有栖川に薬を塗ってるだけで、なんらやましいことはない。そうだ、ここで変なことを考えたりしたら人として最低だ。
変なことを考えそうになったら、別なことを考えよう。
えーと、なんだ。
平らだから塗りやすいな。
「天海陸」
「な、何だ!?」
色々考えた末に一つの結論にたどり着いた瞬間、声をかけられた。しかもその言葉は何というか。何だか懐かしい、殺気すらこもってそうな声だった。
「今、何を考えていた」
「いや、たい――」
『平らで塗りやすい』と。さっき思っていたことをそのまま口に出しそうなところで何とか止められた。これはいけない。さっきとは別な意味でいけない。今その言葉を発したら、俺の命が大ピンチだ。
「言え」
「いや、何も思ってないって!」
とりあえず離れようと。そう思って俺が起き上がるのと、有栖川が俺の襟首を引っ掴むのは全く同時だった。
「わわっ!」
そして俺はものの見事に体勢を崩し、そのまま前に倒れ込む。
まあなんだ。俺の前に何があったのかというとベッドであり、そこには有栖川が横たわっていて。そこに倒れ込んだと言うことは有栖川の上に倒れ込んだと言うことで、倒れ込んだと言うか覆い被さるような状態で――
「HEY、見舞いに来てやったぜ!」
「アリスさん、具合の方はどうデシて?」
そんでもって、相変わらず非常にやかましい兄妹が部屋に入ってきたのはそんな時だった。
「OH」
「アラ」
「いやこれは」
「そうです。お二人とも――」
そして慌てて起き上がり、間違いなく誤解してるであろう二人に何か言おうとするが、勿論そんなことを大人しく聞いてくれるわけはありゃしない。
「照れるな照れるな。チャイム鳴らしても出てこないんで入らせて貰ったが、YOUたちの悪いことをしたな」
「いや、そうじゃないって!」
「アラアラまあまあ、照れなくてもよろしいデスのに。パートナー同士が親密になるのはとってもよろしいことだと思いマスわよ?」
誤解してるのか確信犯なのか、二人はとても楽しそうにニヤニヤと笑っていた。
「そうです。これは薬を塗って貰っているときに事故で――」
「そう。これだよこれ!」
有栖川の言葉に続けて手に持った容器を前に出してそう告げる。
そう。確かにちょっと怪しい状況だったかも知れないけど、やましいことはないんだ。これは単なる看病の一環であって――。
「なるほど。YOUはその薬をアリスに塗っていただけだと」
「そう。ちょっと足滑らせてあんな感じになってたけど、それはただの事故で」
「その通りです。やましいことなど何も――」
どうやら納得してくれそうな感じを見せたジョーに対して畳みかけるようにそう答える。
よかった。とりあえず後は二人に任せて俺が帰れば――。
しかし、そんな目論見はたったの一言で覆された。
「でも、どうしてアリスさんが自分で塗らずにリックンが塗ってたんデスの?」
「……あ」
思わずハモった。
そう言われて見りゃその通りだ。有栖川は確かに風邪をひいてて体動かすのは辛いかもしれないけど、塗り薬を自分の胸に塗るぐらいなら簡単にできるだろう。
どう考えてもクララの言うことは正しくて、俺たちが間違ってるんだけど別に深い意味があったわけじゃなくて。
ただ何というか、ごく自然に俺が有栖川に塗る流れになったというか。
「まあ、よろしいデスわ」
「……え?」
てっきりこの二人だのことだからこれ幸いと色々からかい倒してきそうな気がしてたんだけど、思いの外あっさりと引き下がった。
「そうだな。どうやらアリスもそんなに悪くないようだし、別にYOUたちの関係がどんなもんだろうと、家族でもなんでもない俺たちには関係ねえ。それこそ『二人の問題』ってやつだ」
「ああ、うん」
まあ色々と言いたいことはあるが、引き下がってくれると言ってるのを邪魔する理由はない。ちらりと有栖川の方を見てみても同意見らしく、特に何か言おうとはしていない。
よかった。まあ色々あったけど、二人が帰ってくれるならその後有栖川に謝って家に帰れば――。
そしてそんな目論見も、たったの一言で覆される。
「デスから、あとはご家族で話し合って下さいマシ」
「……え?」
「それじゃあな」
「ごきげんよう」
呆ける俺のことなんか気にもせず、騒がしすぎた二人が去っていくと。
「リーッーちゃーんー」
その後ろから静流さんが姿を現した。
「いやその、え?」
「リッちゃん帰ってきてないし、ネーネちゃんに聞いたらお隣さんまだ風邪ひいてるみたいだから様子見に来たんだけど」
ああうん。そういやさっきネーネが静流さんがもうすぐ帰ってくるとか言ってたな。そして帰ってきた静流さんは俺たちの様子を見に来ると。何もおかしいことはない。獣医と言っても静流さんは医者なんだし、俺の素人看護よりよっぽどいい看護をしてくれるに違いない。
「説明して貰えるかしら?」
でもとりあえず、今はそんな気ないっぽいけど。
「おい、ジョー! クララ! さんざくた引っかき回してとっとと帰るな――!」
「リッちゃん!」
とりあえず、俺たちの戦いはまだこれからっぽい。
「すみません。私は体調が悪いので眠らせて貰えうわけには――」
「そうね。横になったまま答えて貰えるから」
もちろん有栖川だけ逃げるなんてことも許されなかった。いや、万が一静流さんが許しても俺が許さないが。
「何とかしろ、天海陸!」
「無茶言うな!」
「二人とも、ひそひそ話はやめてこっちを向きなさい」
本当にまだまだこれからだった。
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