「すまない、待たせたな」
「いや、そんなことないぞ」
中から出てきた智代にそう返事をする。
智代の後ろには暖簾がかかり、その上にはかなり年季の入った看板に『松の湯』と書かれている。
そう。俺たち二人は今、銭湯の前にいた。
「じゃあ、行こうか」
「ああ、そうだな」
智代の言葉に従い、二人並んで俺の家へと歩き出す。
ちょうど真正面に見える夕日が俺たちを照らしていた。
「たまには銭湯もいいものだな」
「そ、そうだな」
「うむ。やはり広い湯船というのは気持ちがいい」
「そうかもな」
そんな当り障りのない会話をしながら、俺の胸はどきどきと高鳴っていた。
あの学園で出会い、色々あった末に智代と恋人同士になってからもうずいぶんの時間が経つ。
智代が卒業してから半同棲のような生活をしているが、こんなにドキドキするのは初めてだ。
「始めは緊張したが、ああいう場所でこそコミュニケーションも取れていいこともあるな」
「ああ、それはあると思うぞ」
「それに、偶然知人と会うこともある」
「まあ、うちの町内で銭湯って言ったらここしかないからな」
生返事を返しながら、横目でちらちらと智代のほうを覗き見る。
風呂上りでほんのり赤くなった肌と、しっとりと濡れた長い髪を見て。
そして、俺の気持ちとは裏腹にいつも通りのはきはきとした口調で喋りつづける智代を見るたびに心臓のドキドキという音は増していく。
「古河の家の人たちも来ていたな」
「あ、ああ! あいつの家も風呂釜が壊れたんだってな!」
いかん。
思わず返事をする声が裏返ってしまった。
正直な話、風呂上りの智代を見るのは初めてではない。
それでも、今日はドキドキする。
智代の髪の毛が歩くのにあわせて揺れるたびに、智代の瑞々しい唇から声が聞こえるたびに心臓が跳ね上がる。
落ち着け、俺!
ええいこのさっきからドキドキ言い続けてる心臓もちょっとはおとなしくしやがれコンチクショウ!
「朋也」
「お、おう!」
「鍵を出してくれないか」
「あ、そうだな。帰ってきたのか」
いかん。
凄い緊張している。
アパートの俺の部屋まで帰って来たことにも気が付かなかった。
目の前で智代は笑顔を浮かべ、こっちに右手を差し出している。
俺は必死に心を落ち着けようとしながら、それでも緊張のあまり震える腕でポケットからアパートの鍵を取り出して智代に手渡した。
智代は満足そうに、綺麗な笑顔のまま鍵を受け取って扉を開ける。
がちゃり。
鍵が開き、扉が開く。
扉を開けたのは智代だが、中に入ろうとはしない。
俺が入るのを待っているんだろう。
一度大きく深呼吸。
よし、心臓の音も心なしか小さくなった気がする。
扉を開けたまま待っている智代の横を通り、部屋の中へ。
俺が中に入るのを確認してから智代も中に入る。
そしてまたがちゃり、と言う音を立てて鍵は閉められる。
「智也」
「は、はい」
智代はその笑顔を崩さずに、弁論大会で優勝したこともある綺麗な声で言葉を続ける。
「それではゆっくりと、古河の父親と女湯を覗いていた件についての釈明を聞かせてもらおうか」
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
俺の心臓のドキドキ、静かになるかもしれない。
智代の蹴りで宙を舞っていた悪友のことを思い出しながら、そんなことを思っていた。
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