妹物語〜あららぎファイヤー〜


 受験勉強。高校三年生で、しかも大学進学を目指している学生にとっては一二を争うほど大切なこと。もちろん、それが全てとは言わない。確かに今の僕は受験生であり、受験勉強はこれからの人生を見据えてみてもかなりの重要度だとは思う。しかしそれでも僕とっては、それより大切なものがいくつかある。だからこそ僕は羽川に『夏休みがあけに気を抜いちゃダメだよ』と忠告されていたにもかかわらず、あれやこれやとしてきたわけだが、それは間違いなく僕にとって受験勉強より――さらに言ってしまえば、大学進学よりも大切だと思ったからだ。
 そしてそれらが解決した今、僕は遅れを取り戻すために机にかじりついている。勉強していなかった期間は、一週間足らず。そう聞くと『なんだ、たいしたことないじゃないか』と思う人もいるかもしれないが、元々出来が悪く――平たく言うと落ちこぼれだった僕にとっては、致命的といってもいいほどの空白期間なのだ。かくして僕は遅れを取り戻すために羽川推薦の参考書の問題を読み、戦場ヶ原推薦の文房具で答えを記入する。いや前者はともかく後者は関係ない気もするけど、そこはモチベーションの問題というやつである。それに戦場ヶ原が「使い心地がいいわよ」と言うなら、それは他の誰が保証するよりも確かだろう。使い方の問題はこの際置いておくとして。
 そんなわけで夜が更け深夜と呼べる時間になっても、僕の勉強のペースが落ちることはない。むしろペースが上がりすぎて、ケアレスミスをしないように気をつけなければいけないほどだ。このままペースで勉強できれば、数日のブランクなんてすぐに取り戻せる気がしてくる。
 しかし、世の中そう上手くはいかない。もとより怪異は人間の周りにあるとは言っても人間の都合を気にすることは稀であり。怪異に限らず災難というのは、起きてほしくないと思っているときに起きるから災難なのだ。
 とは言っても。
「兄ちゃん、入るぞー!」
 血を分けた実の妹に邪魔されるというのはどうだろう。
 ちなみに阿良々木家は三人兄妹であり、一番上は言うまでもなく僕こと阿良々木暦である。そしてその下にいる妹というのが本当に出来ることなら勘弁してほしいんだけど、残念ながら同世代の中学生のみならず、最近ではうちの高校にまで名前が聞こえてきた栂の木二中のファイヤーシスターズ――阿良々木火憐と阿良々木月火である。んでもって、扉を蹴りあけて僕の部屋に入ってきたのは言うまでもなく実戦担当の火憐ちゃんだ。
「とりあえず色々言いたいことはあるが、『扉はノブを回して普通に開けろ』って何度言えばわかってくれるんだ?」
「甘いな、兄ちゃん。ひょっとしたらノブを捻った瞬間鍵穴から毒針が射出されるかもしれないじゃねーか」
「どこのダンジョンだよ! 自室にそんなトラップしかけるヤツなんか聞いたことねえよって言うか、そもそも鍵なんてついてねえよ!」
 妹たちの部屋にはついているというのに。年頃の娘の部屋なのでしょうがないと思う人もいるかもしれないが、個人的には逆向きに鍵をかけてほしい。
「じゃあ鍵穴があったらトラップ仕掛けるのか?」
「どうせ仕掛けるならそんなもんじゃなく、ノックもなしに扉を開ける妹を落下させる落とし穴とか掘りたいよ」
「それならいっそ巨大岩石とか転がそうぜ」
「そんなもん仕掛けてお前はどうしたいんだ」
「転がってきた岩石を一撃粉砕!」
 残念ながらそれなりに裕福とは言っても阿良々木家は割と普通のご家庭なので、そんな大がかりなトラップを仕掛けるスペースなど無い。というかそんなインディがジョーンズだったりマクガイバーするような家は嫌だ。
「んで、何の用だよ」
 キリがないので、さっさと本題を切り出す。これ以上無駄話を繰り返していると勉強する時間が無くなるし、なにより羽川に『八十ページも話せるなんて、阿良々木くんの家は本当に兄妹仲いいよね』とかあらぬ疑いをかけられてしまう。
 そして問いかけられた火憐ちゃんはというと、いつかを彷彿とさせる体捌きで瞬時に正座、それと同時に両手をついて絨毯が敷かれた床に額をたたきつけた。つまり土下座再びだった。その動きにあの日――僕と火憐ちゃんが少しだけ仲良くなったあの日を思い出したりしたが、続いて火憐ちゃんの口から出た言葉は全く違うものだった。
「兄ちゃん、人生相談にのってくれ!」
 驚いた。
「人生相談って……お前が、僕にか?」
「はいっ!」
 会話をするために顔こそ上げたものの正座は崩さず、手もついたままである。そして言うことは言ったということか、その真っ直ぐな目でこちらを見つめている。
 あまりに予想外な言葉に――というよりそもそも火憐ちゃんの口から『人生』なんていう言葉が出たことに驚いてしまったが、考えてみれば火憐ちゃんだって中学三年生である。来年からは高校生なんだし、相談したくなるようなことがあるのかもしれない。そういうことなら、兄として妹の話を聞くべきだろう。受験勉強はいったん休憩と言うことにして――まあ、火憐ちゃんがやってきた時点で半分かた諦めていたんだけど、とにかく本腰を入れてしっかりと聞くことにする。
「しかし珍しいな、よりによって僕になんて」
「兄貴ラブの妹キャラだから」
「そのキャラ設定まだ続いてたのかよ」
 あれは神原を紹介してもらうための方便かとも思ったけど、そうじゃなかったらしい。確かに考えてみれば火憐ちゃんが『嘘も方便』などという言葉を知っているのかどうか怪しいし、もし知っていても本人が言う熱く燃えさかる正義の炎が嘘を許さないのかもしれない。
 なんだかんだと言ってみても、こうやって素直に頼られると悪い気はしない。普段は喧嘩してばかりだけど、ここは人生の先輩である兄として大きな気持ちで包容力を持って受け入れるべきだろう。
「ほれ、言ってみろ」
「うまい感じでちゃちゃっと処女捨てる方法教えてくれ」
 聞いた瞬間、顔面に向かって国語辞典を投げつけた。
 妹に対して道具を使って攻撃してもいい状況というものも存在するのだ。
 まあ、効いてないわけだが。
「なんでだよ」
「打撃を受ける瞬間に同方向に動いて衝撃を逃がすのなんて、うちの流派じゃ初歩の初歩だぜ?」
 おまえがやっているのは絶対に空手じゃない。
 しかし、今大切なことは妹が通うショッカーの下部組織と評判の道場の謎を解明することではない。とりあえず兄として清々しいほど馬鹿な妹の話を聞くことにする。
「なんでそんなわけのわからんことを言い出した」
「え? だってジョシコーセーってみんな夜遊びして男性経験豊富なもんなんじゃねーの?」
「どこの知識だそれは」
「テレビでやってた」
「おまえは今後テレビを見るな」
 メディアの悪影響が我が家にも。その手の話を聞いたときはそれこそ『馬鹿なことを』とか思っていたものだけど、うちの妹はそんなものを軽々と凌駕するほど馬鹿だった。
 そして馬鹿は自分のことを馬鹿だと思っていないから馬鹿なのである。
「気持ちはわからんでもないけど、そういうのは焦って捨てるもんじゃないだろう」
「いやいや。奥手の兄ちゃんはそう思ってるのも無理はないけど、童貞とか処女が許されるのは小学生までらしいぞ」
「だからお前は今後一生テレビを見るな」
「ちっちっち、兄ちゃん、わかってねえなあ。最近の情報収集手段としてはテレビなんか時代遅れなんだぜ?」
「じゃあなんだよ」
「ネットで」
「お前は今後一切ネットを見るな。電話とメールの送受信以外の目的で携帯を使の禁止」
 ネットの悪影響が我が家にも。いや多分問題は受け手である火憐が馬鹿すぎることなんだけど。
「何でもかんでも見るな見るなって、都合の悪い情報に蓋をしたからって問題は解決しないんだぞ?」
 ああもう、鬱陶しい。本当になんで僕は高三の二学期に中三の妹と処女だの童貞だのと話をしているのか。
「とにかく、そういうのは時期が来たら何とかなるものだろ?」
「いやいや、現実から目をそらして安心してちゃいけないぜ。確かに最近の男子は草食系とかいうけど」
「僕はそんなものになったつもりはないが」
 僕が草食系というわけじゃなく、周りの女子が肉食系過ぎるだけである。特にヴァルハラコンビ。
「でも兄ちゃん、昔『僕は植物になりたいんだ』とか言ってなかったか?」
「草食系ってのはそういう意味じゃねえよ!」
「馬鹿にすんなよ、兄ちゃん。草食ってのが植物を食うヤツだってことぐらいあたしだって知ってるさ。そんな中途半端なものじゃなく、植物そのものになろうと思った兄ちゃんは究極の草食系男子だってことだろ」
 さすがあたしの兄ちゃんだぜ、とか続けられても欠片もうれしくない。というか僕の今までの人生においてトップ3に入る黒歴史を掘り起こさないでいただきたい。しかも嫌みとかじゃなく心底誇らしく言うのが本当にもう勘弁してください。
 そんなことを思って言葉を切ると、火憐ちゃんはすっくと立ち上がっていつになく優しい表情を見せ、僕の肩にぽんと手を置く。
「兄ちゃんだってどうせ童貞なんだろ?」
 そして、すごく朗らかに、今までに類を見ないほどろくでもないことをほざかれた。
「どどどど、童貞ちゃうわ!」
「そんな見栄張るなって」
「本当だっつーの!」
 思わず吹き出した後に反論するものの、聞く耳を持つ様子はない。
「だって、いくら翼さんの心が広いからってそこまでお世話しちゃってくれたりしないだろう」
「なんでそこで羽川一択なんだよ! この前、僕の彼女紹介しただろうが!」
「いや。戦場ヶ原さんクールな美人って感じだったし、気も強そうだしとても兄ちゃんが押し倒せるとは」
「だから、どうして無理矢理前提なんだよ」
「神原先生は違うしなあ」
「それはその通りだが、やけに断定的だな」
「だって神原先生本人が『阿良々木先輩が私の処女を貰ってくれないのだ』って言ってたし」
「お前はもうあいつと会うな!」
 テレビやネットなんか比べものにならないほど悪影響を与えるものが存在していた。
「なんだよ、兄ちゃんが紹介してくれたんじゃねーか」
「いやまあ、そりゃそうなんだが」
 言われてしまうとその通りなのである。まあ神原は火憐ちゃんの馬鹿と同じぐらいのレベルで変態なわけだが、身体能力とか運動神経という面でも同レベルかそれ以上であり、そういう友人というのは必要なのかもしれない。変態だけど。
 確かに、ちょっと問題があるからといって妹の交友関係に口を出すというのは兄として、そして家族として見てもやり過ぎだ。
 神原は火憐ちゃんの友人であるのと同時に僕の友達であり、さらに言うと後輩なのだ。火憐ちゃんが神原を尊敬するのと同じように――下手するとそれ以上に神原は僕を尊敬しているし心酔までしちゃっているようなので、一つ釘を刺すだけにしておこう。
 なんだか先輩風を吹かせているみたいでいい気分はしないが――
「しかし、『私の処女を奪ってくれないので阿良々木先輩の後ろの処女を貰おうと思っているんだ』っていうのはどういう意味なんだろうな? 兄ちゃん男なのに」
「神原ぅぅぅぅっ!」
 一刻も早く釘を刺すどころか釘で打ち付けて動けなくしたい気分だった。
「兄ちゃん、処女に前とか後ろとかあるのか?」
「知らん! 神原の話はこれで終わり! もし続けるんならお前の『人生相談』はここまでだ!』」
 そういうと火憐ちゃんは不服そうな顔をするが、それでも何とか納得したようでまた考え始める。
「まさか、千石ちゃんか?」
「……まだその話題続けるのかよ」
 ひょっとして自分が相談していた内容を忘れちゃっているんじゃないだろうか。記憶力というか色々不安な妹過ぎる。
「千石は月火ちゃんの友達でもあるんだから、あらん妄想に巻き込むな」
 千石は僕の友達であるのと同時に月火の友達なのだ。しかも友達になった順序としては月火の方が先である。
「そうだよ。そういうことは月火ちゃんに聞けばいいんじゃないのか?」
 本来この手の話って言うのは、異性の兄妹には相談したくないのが相場ってものじゃないだろうか。
 火憐ちゃんが人生相談しにくることも意外な話だけど、そもそも相談相手が月火ちゃんじゃなく僕だっていうのがおかしな話なのだ。
「ほら、あたし一応姉だしさ。一つ違いっていってもやっぱり姉としての意地があるっつーか」
「そんなものは捨てちまえ」
「いや、だって」
「ん?」
「月火ちゃんはもう経験あるみたいだし」





 人は動物ではあるが、獣ではない。人は知恵を得たかわりに爪と牙を失った。手足に爪は残っているが、本格的な闘争に耐える品質のモノではあり得ない。
 だから人はその手で攻撃を行う必要が生じた場合、武器を使う。武器が使用できない状況の場合は、拳を握る。言ってみれば、拳というのは人間が使うものとしてはもっとも原始的な、そして最後の武器なのかもしれない。
 だから僕は、拳を握りしめる。俺の前に立ちふさがるものを排除するために。具体的に言うと鍵のかかったドア。
 しかし僕は人間である。吸血姫の痕跡を残してはいるものの、少なくとも獣ではない。だからこの拳での殴打は破壊を目的とした攻撃ではなく、つまるところノックである。ちょっと強めの。
 ドンドンドンとかなり凄い音がしている。隣近所に聞こえるほどではないが、両親が階下で寝ていたら確実に起き出してくるだろう音量。まあ、両親とも例によって今日も夜勤なわけだが。
 正直なところこのノックで扉を破壊しても目的は達成できるわけだが、幸いなことにその前に扉は開かれた。
「なに、火憐ちゃん。戻ったんならノックなんかしないで――」
「月火ちゃん、手込めにされたって本当か!?」
「あ、お兄ちゃん……って、はぁ?」
 中から顔をのぞかせたのは阿良々木家のちっちゃいほうの妹、和服コスプレ中学生こと阿良々木月火である。
 そしてその月火はというと、兄からの問いかけに答えようとせず、事もあろうに開きかけた扉を閉じようとしている。
「ちょっと待て月火ちゃん! 話を聞きたいだけだから!」
「だったら扉越しでも問題ないじゃない!」
「お前の中学では『人と話をするときは目を見て話しなさい』って習わなかったのか!?」
「『むやみに男性を部屋に入れないように』って習った!」
「くそ、この私立中学校め!」
 いくら最近物騒な事件が多いとは言っても、ここは田舎だし治安だって悪くはない。勿論だからといって油断しきっていいものではないが、かといって実際に顔を付き合わせてコミュニケーションをとる機会を無闇に潰すべきではないと思う。いくらネットをはじめとしたコミュニケーションツールが増えたとしても、実際にあって話すことは人生において大切なのだ。
 自分の妹が閉鎖的な学校教育で間違った価値観を植え付けられそうになっているというなら、兄としては悠長に手段を選んでいる場合ではない。
「よし、火憐ちゃん。突破しろ!」
「まかせとけ!」
「いや、なんで火憐ちゃんがそっち側なの!?」



 三分後、僕は平和的に月火の部屋に通されていた。
 というか、この部屋は月火の部屋であるのと同時に火憐の部屋でもあるのだ。そんなわけで、首尾よく僕を閉め出したとしても火憐が鍵を開ければおしまいなのである。まあ実際のところ、火憐は鍵を持たずに僕の部屋に来たのでそんなことできなかったわけだが。
 しかしながら、その場合僕の命令を受けた火憐は躊躇無く自室の扉を殴るのは明白である。勿論拳で。
 ただし火憐の拳は空手(と本人が主張する別の何か)で鍛えられている上に、馬鹿なので手加減とかそういう概念を多分知らない。影縫さんに玄関周辺を破壊された時、それなりに補強の意味を含めてリフォームしたとは言っても阿良々木家は一般家屋である。漆喰の壁を豆腐のごとく破壊する火憐の拳の前には紙も同然なのだ。
 まあ、とにもかくにもそういった様々な理由で僕は妹二人の部屋への侵入に成功した。最終的には招き入れられたんだから『侵入』って表現は正しくない気もするけど、そこはほら、気分的に。
 不承不承ながら俺を自室に招き入れてくれた月火は「飲み物取ってくる」といって階下におり、数分後には作り置きの麦茶が入った容器と人数分のコップを持って帰ってきた。
 かくして俺と火憐と月火は揃って麦茶を飲み、一息ついたわけだが――。
 一息つくと人は冷静になってしまうもので、さっきのように勢いに任せて問いただすわけにもいかなくなった。相手が火憐ならそれでも大丈夫だろうけど、月火はファイヤーシスターズの参謀担当である。そんな月火に下手な交渉を仕掛けた場合、大変なことになる。具体的に言うと意固地になって何もしゃべらなくなるかヒス起こすかのどっちかだ。もしくは両方。ちなみにヒスを起こした場合、共振現象でも起こしたかのように火憐も怒るので大変なことになる。
 そんなタチの悪いファイヤーシスターズだが、僕はこいつらの兄である。望むと望まざるとに関わらず、その名のごとく火の玉のような危険性をはらんだこいつらと誰よりも長い間暮らしてきた人間なのだ。思春期の子供相手に会話に困る父親ではない。あの羽川翼に『阿良々木くんって事件解決している時間より会話している時間の方が絶対的に長いよね』とまで言わせたこの僕ならば、人生経験の少ない中学生の妹から望む情報を聞き出すことなど朝飯前もいいところだ。
 僕は麦茶を飲み干しコップを置くと、不機嫌さを隠そうともしない月火に向かって声をかける。
「月火ちゃん」
「なによ」
「最近どうだ」
 思春期の子供相手に会話に困る父親そのものだった。
 しょうがないじゃないか。一度冷静になってしまう、あんなこと聞けるわけがない。ちなみに僕にその情報を持ち込んだ火憐はというと、既にくつろぎモードでベッドの上に座っていたいや、自分の部屋だから問題ないっちゃ無いんだけど。
 とにかく、そんなわけで僕は一人で月火ちゃんからさっきの件の真偽を問いたださなければいかず――とりあえず聞き出すタイミングを掴むためにも会話のネタを探そうと、部屋の中をそれとなく見渡してみる。
 小学校の頃は一緒に使っていた部屋だし、最近でも貝木のおまじない事件の時に入ったことはあるんだけど、こう改まって入ってみると色々と新鮮な気分である。
 特に女の子女の子している訳じゃなく、かといって火憐が使うトレーニング用品が並んでいると言うこともない。というか火憐はそういうものを使って鍛えたりはしないらしい。「ダンベルなんか買わなくても百科事典で事足りるじゃねえか」とか言ってた。とりあえず、百科事典を作った出版社と買ってくれた両親に謝れ。その百科事典は元々僕が買って貰ったのを置いていったのだという現実はさて置いて。
「ん?」
 百科事典のことを思い出しつつ勉強机の方に目を向けると、月火の机の上には参考書らしきものと筆記用具が置かれていた。
「勉強してたのか」
「うん。お兄ちゃんに邪魔されるまではね」
 そして藪蛇だった。気まずいったらありゃしない。
「でも、お前そんなに勉強熱心だったか?」
 今、二人が通っている私立栂の木第二中学校に入るときも何一つ――少なくとも学校から帰ってきてから受験勉強したりすることなく、恐るべき要領の良さでなんなく試験に合格したのである。驚くべきことに火憐ちゃんもいっしょに。その頃は今ほど馬鹿じゃなかった気もするけど。
 ふと気になったので何となく火憐の机(一応あるのだ)を見ると、そっちにも同じ参考書が広げてあった。
「……火憐ちゃんが、勉強?」
「おうさ!」
 相変わらず必要以上に元気のいい答えが返ってきたが、僕の脳がその現実を理解するのにはしばらくの時間が必要だった。
 だって、月火ちゃんはともかく火憐ちゃんが勉強だぞ? 言ってみれば神原が脱ぐのを恥ずかしがるようなものだ。世界が滅びかねない。さすがにそれは言い過ぎかもしれないが、到底見過ごせる状況ではない。
「なんだ、受験生でもないのに勉強するなんて珍しいな」
 そもそも月火ちゃんなんて二年生だ。いくら受験戦争が年々激化しているとしても、火憐はともかく人並み以上の成績はキープしているらしい月火がこの時期から勉強するというのは意外すぎる。しかも二人が通う栂の木第二中学は中高一貫の私立校なので、よっぽどのことがなければ高校に進学できるのだ。
 しかしそんな僕の考えを真っ向から否定してきたのは、目の前で腐っても茶道部らしく礼儀正しく――というか寝間着がわりに着ているものが浴衣なので正座している月火じゃなく、ベッドの上であぐらをかいている火憐だった。
「いや、受験することに決めたから」
「……何?」
「父ちゃんと母ちゃんにも話してあるぜ?」
「そうなのか?」
「うん。二人とも賛成してくれたよ」
 そして月火も補足した。どうやら本当のことらしい。
 せっかく中高一貫の学校に入ったのにもったいないという気もするけど、確かにそこにずっと通わなきゃいけないわけじゃない。通ったことは無いけど中高一貫校だとメンバーが限られているので社会勉強という意味では限られてそうな気もするし、本人が望んで親が許したというのなら、それは何の問題もないのかもしれない。少なくとも出来の悪い兄が横から茶々を入れるような必然性はないだろう。
「ちなみに、どこ受けるんだ?」
「「直江津高校」」
 前もってリハーサルしてたんじゃないかと思わんばかりのユニゾンで伝えられた学校名は、聞き間違える余地もなく僕自身が通う私立直江津高校だった。僕が驚いたのを見てちょっと満足そうになった月火ちゃんが机の引き出しから入学案内まで取り出して見せてくれる。うん、間違いなくウチの学校だ。
「神原先生の後を継ぐのは、このあたしだ!」
 そして火憐はびしっと親指を立てる。
 後を継ぐも何も神原は二年生だから来年も在学しているわけだが。
 そうか、神原は来年最高学年なのか。直江津高校の未来が不安になってきた。
「とは言っても、スポーツ推薦なんだけどね」
「……あれ? うちの学校ってそんな制度あったっけ?」
「ほら」
 そう言って月火ちゃんが見せてくれた入学案内には、確かに『スポーツ推薦:若干名』と書かれている。僕が受験したときはこんなのなかったはずだし、今まで在学していても聞いたことはない。
「今年からか?」
「うん、そうらしいよ。神原さんの影響で寄付金が集まったからスポーツ関係に力を入れようってことみたいだけど」
 なるほど、そういうことなら納得がいく。最近忘れそうになるというか思い出す機会自体がなくなりつつあるが、神原駿河は超高校級のバスケットボールプレイヤーだったのだ。とある機会に神原が現役時代の映像を見たのだが、あれは確かに『超高校級』という言葉が相応しかった。まさに桁が違った。子供と大人とかそういうレベルではなく、サッカーで例えると普通の選手とキャプテン翼のキャラクターっつーか。
 とにかくそんな選手がいたら、スポーツ推薦制度が始まってもおかしくはない。
「火憐ちゃんは部活には入ってないけど、動能力は問題ないだろうし、最低限の筆記が出来れば問題ないみたいだから」
「それで受験勉強手伝ってるってわけか」
「うん」
 最低限の筆記っていうのがどの程度なのかはわからないが、とりあえず火憐が勉強せずに楽々突破できるレベルじゃないのは間違いないだろう。
「そんなわけで四月から兄ちゃんの後輩だ。よろしくな!」
 本人は不必要なまでに自信満々だったが。
「いや、来年は卒業してるから」
「えー。何だよ、つれねーなあ。長い人生なんだし、一年ぐらい寄り道したっていいじゃん」
「そうフランクに兄の留年を望むな」
 まかり間違ってそれが現実になった場合、俺はあらゆる意味で高校には通えなくなると思う。具体的に言うと戦場ヶ原に拉致されるとか、戦場ヶ原に罰を与えられるとか、戦場ヶ原にパチンされるとか。最近は羽川もいろんな意味で怖いしなあ。旧羽川邸が火事になって以来、なんだかあの二人妙に仲がいいし。
「とにかく、神原さんに加えて羽川さんの影響もあって直江津って結構人気校なの」
「へー」
 もうすぐ卒業する予定の身としては実感がわかないが、言われてみれば納得もする。神原が超高校級のスポーツ選手だとすると、言ってみれば羽川は超高校級の高校生なのだ。ブラック羽川や苛虎を吸収してその内面に変化があったとしても、羽川翼が規格外であることは変わらないし、今まで積み上げてきた実績が消えて無くなるわけではないのだ。
 そんな二人が在籍している学校と言うことなら、倍率が上がるのも当然だろう。
「私も来年受験する予定だし」
「……まあ、それは予想ついていたけどな」
 ファイヤーシスターズ解散という話はどこにいったのやら、結局この二人は5W1H一緒なのである。言いたいこともなくはないが、姉妹仲がいいのは悪いことじゃないだろう。
「で、お兄ちゃんはそんな受験生の部屋にどうして押し入ってきたの?」
「そうだった!」
 すっかり忘れていた。
 確かに妹の受験というのは一大事だとは思うが、それにも負けず劣らぬ問題があったのだ。
 こうなれば勢いである。ここでまた色々と考え込むと、聞きたいことも聞けなくなるかもしれない。
「月火ちゃん!」
「はいっ?」
 僕の勢いに驚いたのか、びくっとしながら返事をした月火を見て言葉を続ける。
「処女じゃないって本当か!?」
「は…………はあっ!?」
 そして素っ頓狂な声を上げられた。
「ななな、何をいきなり聞いているのよこの馬鹿兄!」
「いやだって月火ちゃん、この前あたしが『月火ちゃんってセックスしたことあるのか?』って聞いたら『当たり前じゃない』って言ったじゃねーか」
「火憐ちゃん、何を言っちゃってるのいったい!」
「あ、そういやその後『お兄ちゃんには内緒ね』って言われたんだっけ。ごめんな、兄ちゃんに話しちゃった」
「……月火ちゃん、相手は誰だ」
「いや、待って。とりあえず待って。麦茶でも飲んで一息ついてから冷静に話を――」
「あれ、蝋燭沢くんじゃねーの?」
「火憐ちゃんはちょっと黙ってて!」
 月火が火憐を怒鳴りつけるというのは実にレアリティの高い光景だけど、今の僕にはそんなことに感心している余裕はなかった。
「……お兄ちゃん、急に立ち上がってどこに行くのかな?」
「蝋燭沢くんとやらと話し合いに」
 羽川に聞いた話によると、「炎という言葉から連想することは?」という問いに対して火憐ちゃんは迷いなく『正義』と答えたということだ。その話を聞いたときはまた何を青臭いことを、とか思ったものだけど、それについては後で謝罪しようと思う。なるほど確かに、今僕の胸の内で燃えたぎっているモノはまごう事なき正義そのものだった。
「いや、それは明らかに間違っていると思うよ。というか何で話し合いに行くのに拳をそんなに握りしめる必要はないと思う」
「馬鹿だなあ、月火ちゃん。昔から男と男の話し合いっていうのは、夕暮れの河原でタイマンって決まっているじゃねーか」
「そんな決まりは昭和で廃れてるから! お兄ちゃんも『さすがよくわかっているな、火憐』みたいなキメ顔してないで!」
「しかし月火ちゃん。いくら今が平成の世の中とは言っても、自分が付き合っている彼女の家族に何の挨拶もしに来ないというのは」
「いや、むしろ避けていたのはお兄ちゃんだと思う」
「そうだよ。瑞鳥くんにも会ってくれないじゃねーか」
 いかん、痛いところを突かれた。別に月火が言うように避けていたわけじゃないけど、面と向かって挨拶とかされてもどう反応したらわからないのでその方針が決まるまで先送りにしていたというか。
「とにかく、今は深夜もいいところだから。こんな時間に出歩くのはいつものことかもしれないけど、蝋燭沢くんの家に行って迷惑かけたりしたら間違いなくお父さんとお母さんのお世話になるよ?」
 痛いところを突かれたパートU。ちなみにご存じの方も多いとは思うが、この場合『親からのお説教』という意味の他に『警察沙汰』という意味合いも含まれる。
「蝋燭沢くんに会いたいなら今度呼ぶから、とりあえず今のところは落ち着いて」
 そう言われてしまうと、強行突破するわけにもいかない。胸の中に燃えたぎる熱い正義の炎はそのままに、とりあえずもう一度座り直す。
「しかし兄ちゃん。そんなこと言ってるけど兄ちゃんは戦場ヶ原さんの家族には挨拶したのか?」
「ああ。というか初デートが戦場ヶ原のお父さんの運転だった」
 凄くかわいそうな目をされた。月火ちゃんはもちろん火憐ちゃんにまで。
「いやその、戦場ヶ原とのデートが遠いところだったから車を出して貰ったってだけでな」
「『挨拶した』ってことは、戦場ヶ原さんのお父さんと話したりしたの?」
「目的地に着いたら戦場ヶ原が席外して、車の中で二人っきりになったからな」
 月火の問いに答えたら、今度は哀れみの目で見られた。
「うん、わかったよ。あたしも早いうちに瑞鳥くん連れてくるからさ……」
「いや別にそこまで無理に会いたいわけでもないけど」
 こう改めて振り返ってみると、あのとき確かに『ひたぎのことをよろしく頼む』とか言われたりはしたけど、やっぱり普通あり得ないシチュエーションだよなあ。いくら更正前の毒舌全開だった頃の戦場ヶ原とはいえ、あれはちょっと勘弁してほしかった。というかそれより問題なのは車の中でのあれこれのような気もするけど、そっちは何をどう間違っても妹たちには教えるまい。
「しかしさー、あれだよな。三人兄妹で末っ子が一番早く初体験済ませるってのはなー」
「いや、だからどうして僕がまだなこと前提なんだよ」
「え? お兄ちゃんって経験あるの!?」
 月火ちゃんにまで驚かれた。しかもどう見てもネタとかお約束じゃなくマジ驚きだった。たれ目気味な目を大きく見開いて、心なしかこっちに乗り出してきている。そこまでか。
「羽川さんと――」
「だから、どうしてお前ら二人揃って相手は羽川だと思うんだよ。俺はともかく羽川に謝れ」
「いやだって、ほら」
 何がほらか。
「でもそうすると、戦場ヶ原さん?」
「まあ、そうだよ」
 さすがに月火は火憐ほど迷走することはなく、正解にたどり着いた。というか僕はどうして真夜中に妹の部屋で初体験の相手を告白しているのか。
「いつごろ?」
「夏やす……って、なに告白させようとしてるんだよ」
「お兄ちゃんと戦場ヶ原さんがつきあい始めたのって、母の日からだったよね」
「いや、確かにそうだけど」
 ちなみにその情報をどうして月火ちゃんが知っているのかというと、兄の交友関係を極秘裏に調査したとか言うことではなく、戦場ヶ原本人から聞いたからなわけだが。夏休みの終わる直前ぐらいのある日、当初の予定からは少し早いけど戦場ヶ原を二人に紹介したところ、案の定妹達はテンション高めにいろいろ聞き始め、聞かれた戦場ヶ原がどうするのかと思ったら超得意げに話しやがったのだ。以前神原から戦場ヶ原が初ちゅーの話を電話で五時間語られたと聞いたときは、さすがヴァルハラコンビは仲がいいなと思ったものだが、どうやらガハラさんはその手の話をするのが好きらしい。
 一応怪異がらみの話はうまい感じでごまかしていてくれていたけど、それ以外は一切ごまかしていなかった。具体的に言うと馴れ初めから戦場ヶ原の告白から僕の答えまで、一言一句違わずに説明しやがった。
 あまりの恥ずかしさに途中で止めたら妹達も戦場ヶ原も不満そうだったけど、それ以上言わせてたまるか。あのままほっといたら確実に初デートの話になり、そのままキスの話を経由して最後まで話したに違いない。
 戦場ヶ原が友達多いタイプじゃなくて本当によかった。僕と神原を除けばあいつの友達って…………羽川に話してないだろうな。
 怖い考えになってしまったので、目をそらすことにする。
 月火はなんだか考え込んでしまったのでもう一人の方に目を向けて見ると、珍しいことにこっちも考え込んでいた。
 珍しい光景なのでちょっと見ていようかとも思ったけど、割とあっさり解決したのか携帯電話を取り出した。
 そしてそのまま電話をかける。
「火憐ちゃん、ちなみに誰に電話しているんだ?」
「瑞鳥くん。ちょろっと処女捨ててくる!」
 携帯電話を奪い取って地面にたたきつける。そして叩きつけた電話からなんだか『もしもし』とか男の声が聞こえた気もするので、踵を使って踏み抜き粉砕した。
「あー! 何すんだ兄ちゃん!」
「『何すんだ』じゃねえ! お前こそ何を考えているんだ!」
「だって兄ちゃんも月火ちゃんも経験あるのにあたしだけないとか、仲間はずれみたいじゃねーか!」
 全く本当にろくなことを考えねえ。
「そんな理由でするやつがいるか!」
「いいだろ別にー。恋人同士なんだからうっふんあっはんしたっていいじゃねーか」
「いいわけあるかあっ!」
 ちゃぶ台をひっくり返したい気分だった。いや、もちろんそんなモノはないんだけど。
 確かに恋人同士で本人たちが合意しているなら問題はないのかもしれないというか僕も人のことは言えないけど、あんな宣言をされて「わかった。頑張れよー」と朗らかに送り出す兄はこの世界に存在しない。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「あー、もういい。寝ろ、寝ちまえ! 僕も今日は勉強しないで寝ることにするから!」
 なんかもう、色々と最低だった。
 振り返ってみると結局のところ、さんざん騒いだ末に決まったことは『近いうちに月火ちゃんの彼氏と会う』ってことぐらいだったが、しょうがない。いくら僕の体に吸血鬼時代の後遺症が残っているので疲労回復が早いとは言っても、それはあくまで肉体的なものに限る。少なくとも兄妹で処女だの童貞だのと話し合った末に疲れ果てた精神を高速治癒してくれたりはしないのだ。
「そんじゃいいな、月火ちゃんも。今日はもう寝ろ」
「うん、わかった」
 さすがの月火ちゃんも素直にそう答え、僕も「それじゃ、おやすみ」と言い残して自分の部屋に帰ろうと思ったとき。
「ちぇいやー!」
 そんな規制が聞こえたかと思うと、僕の腰あたりに何かが弾丸のようにすっ飛んできた。
 何かというか、火憐ちゃんが超高速のタックルをお見舞いされた。そしてそのまま勢いを殺すことなく僕の足を狩り、まるでお手本のように見事な形のテイクダウンだった。
「いってえな、何しやがる!」
 そう言った後に「やっぱりお前の武術は空手じゃない」とかお約束のツッコミを入れるよりも早く火憐ちゃんは僕の上にのしかかり、見事なマウントの体制を取り――
「もう、わかった! やっぱ兄ちゃんに処女やる!」
 今日一番のろくでもない台詞をほざきやがった。
「いや、ちょ、お前。何をどうしたらそう言う話に」
 さすがに若干混乱しつつも言い聞かせようとするが、どうやら今の火憐ちゃんはノンストップだった。
「兄ちゃん、お覚悟!」
「覚悟って!」
「よいではないか、生娘……兄ちゃん、生娘って何だ?」
「辞書引いて調べろ、受験生! っていうかこの展開前にもあったぞ!」
「神原先生に『いざというときはこうするのがマナーだ』って教えてもらった」
「神原ぅぅぅぅ!」
 やはりあの後輩を妹に紹介したのは、僕の人生における最大の失敗だった。
 章番号がないのでスキル・章変えリセットも封じられ、純粋な身体能力だけで言えば神原には及ばないかもしれないがそれでも僕のかなうレベルではなく、さらに格闘技に精通した妹にのしかかられて逆レイプされようとしている。もはや悪夢とかそう言うレベルではない。
 もう僕のTシャツは半分以上めくり上げられ、なんなら力加減とかそう言ったものをすっかり失念している火憐ちゃんの手により破られそう。
 身体能力では敵うはずもなく、こっちの話は全く聞く耳もっちゃいない。
 何とかズボンは死守しようと力を込めるが、火憐の手はそっちにも伸びてくる。
「月火ちゃん、手伝ってくれ!」
「いや、火憐ちゃんを引きはがせ!」
 一進一退の攻防を繰り広げながら、残る勢力である月火にそう呼びかけ、二人同時に月火ちゃんの方へ目を向けると。
「はい、そうなんです」
 電話中だった。
 いやちょっと、確かに月火ちゃんにとっては他人事かもしれないけどその対応はさすがにどうかと。いや確かに自分の姉が自分の兄を押し倒しているとか、関わりたくない気持ちは十分すぎるほどわかるけど。
 そんなことを思っている間も月火ちゃんは電話を続け、二言三言話したところで僕の方に電話を差し出した。
「はい、お兄ちゃん」
「? 誰だよ」
 マウントポジションをゆるめることこそしないものの、電話中だからか律儀に静かにしている火憐ちゃんのことはとりあえず置いておいて、電話に出る。
「もしもし?」
「こんばんは、阿良々木くん」
「羽川っ!?」
 言った瞬間抜け出した。さっきまでの苦戦は幻だったのかと思える勢いで火憐ちゃんをはねのけ、乱れた服を手早く整えて電話に出る。向こうで火憐ちゃんが驚いているけど、全くもって気にしない。
 火事場の馬鹿力というのは、こういうときにこそ発揮するものなのである。
「兄妹仲がいいのはいいことだと思うんだけど、限度ってものはあるんじゃないかな?」
「いやこれはどっちかというと火憐ちゃんが一方的に」
「とにかく今からそっちに行くから、ちょっと待っていてくれるかな?」
「はい」
 月火ちゃんから聞いたのか、それとも例のごとく電話口の向こうを察したのかはわからないけど、とにかく『羽川の深夜の訪問』などという魅惑的な響きしかないイベントを断るわけはない。二つ返事で即答して、羽川の言葉を待つ。
「あ、ちょっと待ってね? 変わるから」
「うん?」
 そして予想外の言葉に首をかしげた僕に、続けて聞こえてきた声は。
「ハァイ、ダーリン」
 ハニーだった。ごめん動転した。ガハラさんだった。もっと詳しく言うと僕の彼女でありちょっと前にちょうど話題になっていた戦場ヶ原ひたぎその人だった。
「羽川さんたちと楽しい楽しいパジャマパーティーだったんだけど、他でもない阿良々木くんのピンチなんだし駆けつけさせてもらうわね」
「いや、その」
 羽川たちとパジャマパーティーなどという魅惑的という言葉を突破して天井の楽園のような光景には惹かれるが、その申し出については心底遠慮したいというかむしろ逃げたい。
「……羽川“たち”?」
 僕じゃなく戦場ヶ原が『羽川さんたち』というからには、戦場ヶ原と羽川の他に誰かがいると言うことであり。
「ええ。私と羽川さんと、神原」
 よし、逃げよう。
 即断即決でそう決めて立ち上がるが、戦場ヶ原の言葉は終わらなかった。
「私自慢の彼氏がまさか逃げるとは思えないけど、それとは無関係にさっき神原をそっちに向かわせたわ」
 そしてその言葉と同時にチャイムが鳴らされる。
「もうちょっとだけ待っていてね(はぁと)」
 出会ったばかりの頃を彷彿とさせる、語尾に全く感情のこもっていない口調でハートマークをつけた後にプツリと電話を切られた。
「阿良々木先輩、阿良々木先輩のピンチと聞いて駆けつけたぞ!」
 地獄の蓋は今開いたばかりらしい。





「……火憐ちゃんに『月火ちゃんはまだだよな』って言われたからつい意地になっちゃって」
「ごめんな。あたしの言い方が悪かったよ」
 結局のところ月火ちゃんの非処女宣言は見栄を張っていただけだったらしく、羽川が来て話を聞いたら二分で問題は解決した。ひどいオチである。
「で、お兄ちゃんが童貞じゃないってのいうは本当なんですか?」
「ええ、そして私も処女じゃないわ」
「何を誇らしげに言っているんだお前は!」
 ガハラさんは本当に誇らしげだった。
 この前妹に話そうとするのを何とか阻止したと思ったら、結局話された上に羽川と神原にも聞かれてしまった。最悪にもほどがある。
「よし、じゃあ次は私の処女を散らして貰う番だな」
「何を言い出すっていうか脱ぐな!」
「そうだぞ、神原先生。次はあたしの番だ!」
「私は三人でもいっこうにかまわんが」
「少しは構え!」
 神原駿河と阿良々木火憐。ヴァルハラコンビに続く協力きわまりない新タッグを見て僕が戦慄している中、月火ちゃんは神原の後ろに礼儀正しく正座している羽川に話しかけていた。
「……翼さん、何してるの?」
「ん? 順番は守らないとだめでしょ」
「……え?」
 結局その後は戦場ヶ原との初体験を微に入り細に入り報告することで夜を明かすことになった。どんな羞恥プレイだ。
 しかも翌朝夜が明けると同時ぐらいに両院が帰ってきて、「息子のガールフレンドがこんなに遊びに来てくれいるんだから、変える前に食事でもどうかな」などといわれてみんなで仲良く朝ご飯を食べることになり、これまた色々聞き出された。死にたい。




 さらに次の夜。
「火憐ちゃん、処女と童貞同士の初体験って失敗して悲惨になることが多いらしいよ」
「それは困るな。そんなことで瑞鳥くんと別れたくねーし」
「練習しよっか」
「そうだな」
 阿良々木くんの部屋の扉が開かれるまでにあと三分。
 人生相談はまだ終わらない。




後書きとおぼしきもの


 2010冬コミで発行した化物語本の原稿でござる。
 ありがたいことに無事完売したのでちょっと前に投稿機能のテストをかねてPixivでは後悔してたんだけど、こっちでも。
 というか最近TwitterでもMARさんあたりと化物語ネタを投げ合ったりしてるわけですが、なぜかほぼ全部ファイヤーシスターズって言うか火憐ちゃんネタです。不思議!

 まああれじゃよ、バカな子は書いてて楽しいとかそんな。
 夏コミは多分化物語じゃありませんが、化物語ネタはそこそこ書くと思います。俺の言うことなので宛にはなりませんが。
 

2011.02.12  右近