裸Yシャツ〜綾香の場合〜(仮)


「さて、そろそろ寝るとすっかな………。」

浩之はリビングでそう呟きながらテレビのスイッチを消した。
夜も更け、寝るには丁度良い時間だ。

ピンポーン

 浩之が立ち上がると、玄関のチャイムが鳴った。

「あん? 誰だ、こんな時間に?」

 ぼやきながら玄関へと向かう。

ピンポーン

 再びチャイムが鳴る。

「はいはい、今出るって。」

 サンダルをつっかけて玄関の扉を開くと、そこには思いがけない来訪者が立っていた。

「綾香………。」
「はぁ〜い。」

 驚く浩之をよそに、制服姿の綾香がいつものように明るく挨拶をする。

「おまえ、なんで………。」

 浩之としては驚かざるをえない。まず、どうして綾香が自分の家を知っているのか、という疑問を持った。
が、しかし、天下の来栖川ならそんなことを知るくらい難しくもなんともないだろう。
 いや、そんなことはどうでもいい。こんな時間にどうして浩之の家にわざわざ来るのかがわからない。
 しかも、制服姿でだ。

「なによ。このあたしが来てあげたんだからもう少しくらい喜んでもいいでしょ。ま、立ち話もなんだし………。」

 そう言いながら綾香は玄関の中へと入ってきた。

「って、おいおい………。」
「あ、もしかして都合悪かったりする?」

 綾香が靴を脱ごうとしたのをやめて振り向く。

「いや、そういう問題じゃ………。」

 浩之は途中で言葉を止めた。
いくら綾香が格闘技の熟達者とは言え、女の子一人で夜道を歩くなど危険過ぎる。
最初はセリオやセバスチャンも一緒なのかと思ったが、どうやらそうではなく、正真正銘、綾香一人のようだ。

「どうしたの? そんな怖い顔して。」

 綾香が冗談半分に言うが、いつもとちょっと様子が違って見えた。
普段は気丈な明るさを振りまく綾香だが、今はどこか無理しているようにも見えた。

「おまえ………何か、あったのか?」
「え、え? な、何、言ってるのよ。」

 綾香がうろたえている。こんな綾香を見るのは初めてかもしれない。
綾香がこんな時間に一人で来る。しかも、どこか様子がおかしい。
綾香の性格からすると、余程のことがない限りそんなことをするとは思えない。
いや、逆に言えば余程のことがあったのではないだろうか。

 浩之は手の平を綾香の頭にのせた。

「無理、してるだろ?」

 頭に手をのせたまま軽く指を曲げる。綾香の髪が「くしゃっ」という音をたてた。
 それと同時に綾香の顔が崩れ始める。

「意地、張んなよ。」

 浩之のそのセリフがトリガーになった。綾香は浩之の胸に飛び込み、シャツの胸の部分を両手で掴んだ。

「うわぁーん!」

 綾香が大声をあげて泣き始めた。涙の雫がシャツを通して浩之にも感じられる。

(やれやれ………。)

 浩之は綾香を優しく抱きしめた。



「ほら、紅茶入ったぞ。」

 浩之は二つのティーカップを持ってキッチンからリビングへ入ってきた。そして、片方を綾香へと渡す。

「ありがとう。」
「ま、コンビニでも売ってあるようなティーバッグで作ったやつだからな。おまえが普段家で飲んでるやつと較べたら、美味くないかもしれないけどよ。」

 浩之はそう言って、笑いながら綾香の正面に位置するソファーに腰を下ろした。
綾香も微笑みながら紅茶を飲んでいる。

「で、どうだ? 少しは落ちついたか?」
「うん………。ありがと………。」

 綾香が呟くように答えた。先程と較べれば、落ちついてはいるもののどこか弱々しい。
綾香自身もそれはよくわかっていた。

「元気ねぇな。いつものように脳天気な明るさを見せてくれよ。」

 浩之は普段通りに話を始めた。

「失礼しちゃうわね。まるでいつも私が何も考えてないみたいじゃない。」
「あー、はいはい、訂正してやるよ。綾香さんは思慮深くて明るいお方ですね。これでいいか?」
「そんな言い方じゃ、全然説得力ないわよ。」

 綾香がきっぱり言い放つ。そして、二人は沈黙する。

「………ぷっ………あははは。」

 何が可笑しいというわけではないが、二人は同時に吹き出した。
ようやく綾香の顔にも普通の笑顔が戻ってきた。
それから浩之と綾香は、しばらくの間、普段通りの会話を楽しんだ。

 会話の途中、浩之は綾香がここに来た理由を何度も聞こうかと思ったが、結局聞き出そうともしなかった。
きっと綾香でも、落ち込みたくなるような悩み、こんな夜更けに家を飛び出したくなるような悩みがあるに違いない。

「さて、と。」

 会話が区切れたところで、浩之は壁掛け時計を見ながら立ち上がった。

「今晩はどうするんだ? どうせ、家に帰りたくはないんだろう? だったら、あかりの家にでも泊まったらどうだ? 送ってってやるぜ。」

「………。」

 綾香は俯いて急に黙り込んだ。浩之はお構いなしに言葉を続ける。

「俺が頼めば、あかりも、おじさんおばさんも聞いてくれるだろうからさ。」

 しかし、綾香は黙ったまま返事をしない。

「どうした? もしかして、実はあかりと険悪な仲だったりするのか?」

 浩之が冗談混じりに言っても、綾香は無言で首を横に振るだけだった。
そして、しばらく俯いて黙っていたが、しばらくしてようやく綾香は口を動かした。

「………ん。」
「え?」

 浩之にはよく聞き取れない。

「ごめん………。ワガママとはわかってるけど………、今日は、ここに泊めて欲しいの。」

 か細い声でそう言いながら、綾香が浩之に視線を向けた。
綾香はソファーに座っており、浩之が立っている都合上、綾香が見上げるような形になる。

 浩之は綾香の姉、芹香と初めて出会ったときを思い出した。
顔立ちに違いはあるものの、やはり姉妹だけあって雰囲気は似ている。
しかも、思わずどきりとしてしまうところまで同じだ。

「おまえ、何言ってるのわかってんのか?」
「ごめん。一人になりたいけど………、一人きりにはなりたくないの。あ、ごめん………、何、言ってるかわかんないよね。」

 綾香の弱々しい口調に、浩之も思わず言葉を失う。

「あ、ごめん………、迷惑だよね。わ、私、やっぱり帰るからっ。」

 綾香が慌てて立ち上がろうとしたが、浩之がそれを制した。

「しゃぁねぇなぁ………。そんなに謝んなよ。」

 浩之はそう言って、軽く撫でるように綾香の頭に手を置いた。切なそうに綾香が見つめる。

「ごめん………。」
「だから謝んなって。」
「あ、うん………。」
「それでよし。」

 ほのかに明るく優しい言葉に、綾香にわずかだが微笑が浮かぶ…。


「さあ、どうぞ。お嬢様」

「お邪魔しまーす」

浩之がまるで綾香おかかえの執事のようにうやうやしく扉を開ける。
そして綾香は浩之の部屋に入ると、落ちつきなくあたりをキョロキョロと見渡し始めた。

「まあ、狭い部屋だけど自由に使っていいからよ。」
「うん。思ったよりきれいなのね。もっと散らかってるかと思った。」
「ま、まあな。」

実は先日、あかりが遊びに来て、部屋を掃除して行ってくれたばかりだったのだ。
その時は正直うっとうしく思ったりもしたのだが、今になってみるとあかりの好意がとてもありがたく感じた。

「おい、あんまりあっちこっち見るな」

綾香がまだおちつかない様子であたりを見ているので思わず声をかける。

「なに?見られちゃいけない物でもあるの?」
「ばーか、そんなんじゃねぇよ。」

 そんな軽口をたたきつつ、ベッドを準備を終わらせ、時計の位置や、トイレの場所などを簡単に説明し、最後に毛布を一枚と枕を一つ掴んだ。

「あら、どうしたの?」
「下に行くんだよ。同じ部屋で寝るわけにもいかねぇだろうが。」
「いいじゃない。結構スペースあるし。」

ズルッ、ゴン。

綾香の爆弾発言を聞き、浩之は思わず転んでしまった。

「あら、大丈夫?」
「『あら、大丈夫?』じゃねぇっ!お前、仮にも嫁入り前の娘だろうが!!」
「なぁに?何か間違いでも起こす気?」

綾香はそう言い、小悪魔のような微笑を浮かべ、浩之の方を見る。

「そ、そんなわけあるか!」
「冗談よ。だいいち浩之が私に勝てるわけないじゃない」
「ちくしょう。なんか腹立つなぁ」

確かに、エクストリームのチャンピオンである綾香に勝てるわけは無い。
実際、以前遊びで勝負した時も1週間ちかく訓練したのにパンチを2、3発入れるのが精一杯であった。
と、理論的には納得出来るが、それとこれとは話しが別である。
自分と同じ年の娘にそう言われるとやはり腹が立つ。

「ほらほら、怒らない怒らない」
「・・・・・ったく。ま、いつもの調子に戻ったみたいだな。」
「うん。」

綾香の顔に笑みが浮かんだ。

「じゃ、間違い起こす前に下行くわ。じゃあな」
「べつにいいのに・・・・・・・(ぼそ)」
「ん?何か言ったか?」
「ううん、何にも!」
「ん、じゃあな。」

そう言って浩之は毛布と枕を持って部屋を出て行く。

「なんか悪いわね、部屋取っちゃって。」

 浩之が部屋を出て行くのを見送りながら、さすがに済まなそうに綾香が言った。

「今更悪いもくそもあるかよ。いきなり随分とシャツを濡らしたくせによ。」

 浩之はおどけてそう言と、シャツの裾を軽く下に引っ張った。
もちろん、綾香の涙が濡らした痕は既にない。
しかしそれの仕草を見て,綾香の頬が、かぁっと音をたてんばかりに赤く染まった。

「冗談だよ。」
「冗談になってないわよ、もぉ………。」

 綾香が拗ねたように浩之を見つめる。
普段の綾香からはなかなか見られない表情だけに、浩之はどこか新鮮で嬉しい気分がした。

「じゃぁ、俺はリビングに居るからな。何かあったら起こしてくれ。」
「あ、待って。」

 出て行こうとする浩之を綾香が止める。

「あん?」
「あの………、ありがとう………。」
「気にすんなって。じゃあな。」
「うん……、おやすみ」



浩之は浅い眠りを何度も繰り返しては目を覚ましていた。なんとなく寝つけないのだ。
一つには、綾香が階上で寝ているのもあるだろう。
しかしそれよりも、普段気丈な綾香の弱い面を見てしまったことの方が影響は大きいだろう。

(綾香も、やっぱり弱いとこがあったりするんだな………。)

 そう思うと、何故だか嬉しい気もした。その一方で、妙に綾香を意識してしまう。決して普段の綾香が男勝りで、女の子として意識させないというわけではない。
むしろ、逆に格闘技のエキスパートであるにも関わらず、女の子と意識させることも少なくはない。

 だが今回の場合、それとは少し違う。
女の子として意識するということには違いはないが、いとおしく感じるのだ。
そんなことを考えていると、浩之の鼓動は更に早くなるのだった。

 結局、そんな感じで大して眠れないまま、外が明るんできた。なんとも寝不足の目で浩之が時計を見ると、起きるにはちょっと早いくらいの時間にはなっている。

 普段なら、あかりが起しに来てくれるのを考えて、もう少し寝ようとするのだが、今朝はもう起きることにした。
いくらなんでも、綾香も一度家に帰ったほうが良いだろうから、早めに起きたほうがいいだろう。
また、綾香が家にいるときにあかりが来ても面倒だ。

浩之は洗面所で顔を洗うと、二階へと上がった。そして、自分の部屋をノックする。
自分の部屋に入るのにノックするとは、なんとも妙な気分だ。
それはともかく、部屋の中からは返事がない。続けてノックをしてみる。

「お〜い、綾香?」

 早朝なので大きな声は出せないが、少なくとも部屋の中には聞こえる程度の声で尋ねてみる。
しいかし、やはり返事がない。どうやら、綾香はまだ眠っているようだ。
部屋に入るのは躊躇してしまうが、かといってゆっくりしていていいわけでもない。

「入るぞ〜。」

 聞こえないのがわかっているくせに、思わず断りを入れながらドアを開けた。
部屋に一歩入ると、綾香の寝息がかすかに聞こえ始める。
ベッドを見ると、綾香が寝乱れることなく、きちんと寝ていた。この辺は育ちも関係しているのだろうか。

(まったく………。俺は全然眠れなかったのよぉ………。)

 心の中で愚痴りながら、静かにベッドに近寄る。ふと、机の上にあるものがあるのに気付いた。

(なっ!!)

 机の上に置かれているもの、それは綺麗にたたまれた綾香の制服だった。
スカートの上にベストが重ねられ、更にその上には白い布の塊が見える。
微妙な半球が二つと若干の紐………。その布の塊は、間違いなくブラジャーだ。

(ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待てっ!! も、ももも、もしかして、綾香は裸で寝てるのかっ!!??)

 さすがに浩之も躊躇してしまう。
 綾香が気付かずに起き上がったりして、目の前で布団がめくれたりしたら非常に困る。
 いや、本音は嬉しいのだが、やはり困る。
 かと言って起さないわけにはいかない。

(い、いや、綾香が起き上がる前に、ちゃんと言えば大丈夫だ。ああ、大丈夫なはずだ。)

 そうは思うものの、なかなか行動に踏み切れない。
 浩之の心の中で葛藤が続く。悶々ともがきながら、ふと時計を見ると、すでに五分が経過していた。

(ええい、仕方ないだろう。何かあったら、そん時はそん時だ。)

 腹を括ってベッドサイドまでずんずんと歩み寄る。

「おい、綾香、起きろ。朝だぞ。学校に行かないわけにはいかないだろ? おい、起きろ。」

 浩之は細心の注意を払って綾香の体を揺すった。

「んん………。」

 目は覚ましてくれそうだ。さらに体を揺すりつつ声をかけ続けた。

「ん〜………………。」

 綾香の目が薄く開く。

「あ………、浩之ぃ?」

 どうも、まだはっきりとは目覚めていないようだ。

「そうだ、浩之だ。綾香、おまえ、なんでここで寝ているかわかるな?」
「ん〜………、多分………。」

 綾香は、片目さえも開けているかどうか怪しい状態だ。

「ここは、俺の家で、おまえは今、俺の部屋のベッドで寝ている。いいか?」
「う〜ん〜………。浩之のベッドぉ………。」
「ちょっと早いけど、朝になったから起きろ。いいな?」
「うん………。起きるぅ………。」

 そう言いながら、綾香は浩之とは反対方向へと寝返りをうった。

「って、おい。寝るなぁっ!」

 そんな調子でしばらく格闘が続いた。
 浩之としては、布団を引っ剥がすの一番てっとり早いのだが、机の上に綾香の下着があるのを見た以上、そんな危険な真似をするわけにはいかない。
 何はともあれ、綾香も寝ぼけ眼ながらも両目を開き、顎の先まで被った布団に両手の指先だけをちょこんと出した状態にまで目覚めた。
 もっとも、頭がきちんと回転しているかどうかは、かなり怪しいところではあるが。

「とりあえず起きてくれ。いいな。」
「うん………。うるさいから、起きる………。」

 浩之は胸をなでおろし、自分はとりあえず部屋から出る旨を伝えようとした途端、綾香はむくりと上半身を起した。

「うわあぁっ! 綾香、おまえっ!! ………って。」

 いきなりのことに驚いてしまったが、それは杞憂に過ぎなかった。
 綾香は上半身に制服のブラウスを着たままだったのだ。

「なんだ、ブラウスは着てたのか………。」

 残念なような、ほっとしたような複雑な気持ちである。

「うん………。」

 綾香はちゃんと起きているのか、まだ寝ぼけているのか、よくわからない調子でベッドの上に座り、足元にかかっていた布団もどけた。女性がよくやる、正座を崩したような座り方をしている。

 しかし、綾香が裸ではなかったとはいえ、浩之としても決して安心できる状態ではなかった。
ブラウスは上から二つ目までボタンが外れており、かなり着崩れているので、左の鎖骨や胸の谷間の入り口が見える。
 そして何よりも、スカートをはいていないので、透き通った白い足が丸見えである。

 それに、よくよく考えてみれば、ブラジャーを着けていないはずだ。
いけないこととはわかりつつも、ついつい胸や太もも近辺に目がいってしまう。
一方の綾香は自覚がないのか、単に寝ぼけているだけなのか、とろんとした表情のまま呆然としている。

「ふぁ〜〜〜………。」

 綾香が右手を口に当てながらあくびをした。浩之の視線が更に釘付けになる。

「ん〜? どうかしたのぉ〜?」

 綾香があくびで出た涙を拭きながら浩之に言った。浩之も、ようやくそこで気付いた。

「あ! いや! と、とりあえず、準備して下に降りて来い。いいな。」
「うん〜。」

 綾香の返事を背中で聞きながら、浩之は慌てて部屋を出た。



 浩之は、リビングのソファーで頭を抱えていた。

(おいおい、まじで強烈すぎるぜ………。)

 そんなことなどお構いなしに、綾香が階段を降りてくる音が聞こえてくる。
 そして、ついに一階に降りてきたようだ。

「浩之ぃ〜。シャワー借りるねぇ〜。」

 廊下のほうから綾香の、まだ寝ぼけたような声が聞こえてくる。

「あ、ああ。バスタオルは適当に使ってくれ。」
「うん。わかったぁ〜。」

 結局、綾香は浩之と直接顔を合わせることなく、浴室へと入っていったようだ。
程なくして、かすかにシャワーを使っているような音が聞こえてくる。

 それは何気ないことのはずだった。単に誰かがシャワーを使っている、ただそれだけのはずだ。
しかし、妙に音が耳に響く。ビングからシャワーの音を感じるには、相当耳を凝らさなければならないはずだ。
それが聞こえるのだ。

(もしかして………覗けないこともないよなぁ………。)

 直接見ることは叶わずとも、浴室のガラス越しに見ることなど容易なはずだ。
 しかも、理由はいくらでもつけられる。

(って、いかんいかん! 綾香は俺を信頼してるんだ、きっと。だから………。)

 ついつい頭をぶんぶん振ってしまう。

(いや、昨日の夜といい、もしかして単に舐められているだけか? だったら、少しくらいギャフンと言わせないと………。って、これじゃぁ、単なるスケベおやぢと変わらないじゃないかっ!!)

 更に頭を深く抱えてしまう。
しかも、拒絶しつつも頭の中では、さっき部屋で見た綾香の姿がフラッシュバックしていた。

(がぁ〜〜〜〜っ!!!!)

 そうやってどれくらい悶絶していただろうか。
 「やはり男はやるときゃやる!」
 などという訳のわからない結論に到達したとき、浴室の扉が開く音が聞こえた。
 浩之は思わず、反射的に立ち上がった。
 気分的には、後ろめたいことをしようとしたところで先生に声をかけられた小学生である。

(もう出たのかっ!!)

 しかも、何が「もう」なのかよくわからない。
 そんな浩之をよそに、足音はリビングのほうへとひたひたと近づいてくる。
 そして、ついにその足音はリビングまで到達した。
 座っていたソファーの位置の都合上、浩之は綾香に背中を向ける形となっている。

「浩之ぃ〜。」

 綾香が相変わらずの寝ぼけた調子で浩之の背中に声をかける。
 なぜか硬直してしまった浩之は、振り向くことができなかった。

「お、おう。は、早かったな。」
「う〜ん………。」

 綾香の声がそう聞こえるやいなや、とてとてっと歩み寄る音が聞こえてくる。
そして………

 ばふっ。

 いや、正確にはそんな音がしたわけではない。しかし、浩之にとってはそんな感じだった。
 綾香が浩之の背中に抱きついてきたのだ。

「わわっ、綾香! お、おまえ、まだ寝ぼけてんのかっ!!??」
「うん〜、寝ぼけてる〜。」

 綾香が脳天気にそう答えながら抱きつく力を強める。
 浩之の背中から、「むぎゅぅ」という音が聞こえた気がした。
 実際に聞こえたわけではないが、背中がその音を感じたのだ。
 綾香の火照った肌と湿った髪の感触までもが伝わってくる。

「ちょっ、ちょっ、ちょっ………。」

 浩之の声がどもる。しかし、綾香の呟きがそれを抑えた。

「ありがと………。」

 決して大きな声ではなかった。
 しかし、浩之の言葉を遮り、二人の時間を止めるには十分すぎるほどの言葉だった。

 背中を通じて伝わる綾香の鼓動と、自分自身の鼓動だけが浩之の頭の中を響き渡る。
 そして、綾香の存在そのものを感じることができる。
 普段は大らかで、しかも強そうに見える綾香は、こうしてみると、か弱く、華奢であることがわかる。
 その綾香が、文字通り自分に身を寄せている。
 浩之は、陳腐すぎる表現であることは重々承知の上で、綾香のことを「かわいい」と思うのだった。

 そうしてどれくらいそうしていただろうか、長かったのか、一瞬だったのかよくわからない。
 ふっ、と背中全体で感じていた感触が離れた。そして背中の中央で、こつん、と何かがぶつかるのを感じた。

「………………。」

 綾香が背中で何かを呟いたようだが、浩之にはよく聞き取れなかった。
 しかし、聞き取れなくとも、何かを感じ取ることはできた。今の浩之にはそれで十分だった。

 しかし、いつまでもこうしておくわけにはいかない。適当に区切りをつける必要がある。

「お、俺もシャワー浴びてくるわ。」

 妙に緊張しているのかリラックスしているのか、よくわからない自分が少し照れくさい。

「う〜ん。いってらっしゃ〜い。」

 綾香が、まだ寝ぼけた声を出した。なんとなく雰囲気ぶち壊しである。

(こ、こいつ、寝ぼけてやってたのか?)

 そう思うと、浩之はますます恥ずかしくなってきた。

「そ、それじゃなっ!」

 浩之は綾香の顔をろくに見ることなくリビングを出て行った。


 シャワーを浴び終わって浩之が浴室から廊下に出ると、キッチンのほうから朝食の香りがしていた。
 頭に疑問符を付けながらキッチンに入ると、そこには朝食が展開されていた。

「あら、おはよっ。浩之。」

 しっかりとした口調で綾香が挨拶をする。

「お、おう、おはよう………。」

 朝食が準備されているのも驚いたが、綾香の格好にも驚いた。
 ベッドで見たときと同じ、ブラウスだけの姿だったからだ。
 さすがに起きた直後のように着崩れてはいないし、ボタンも一番上だけしか外れてはいなかったが。

(ま、まぁ、パンツははいてるよな、いくらなんでも………。)

「冷蔵庫の中にあったやつとか、勝手に使わせてもらたわよ。」

 目のやり場に困る浩之をよそに、綾香は何も気にする様子もなく喋る。

「ほとんど一人暮しだ、って聞いてたから、冷蔵庫には何もないかと思ってたけど、意外とちゃんと入ってるのね。」

「ん、あ、ああ………。」

 綾香のほうには視線を向けないようにしながら食卓を見ると、トーストとベーコンエッグが二人分並んでいた。
何日か前に、あかりが夕食を作りに来てくれたとき、夕食の食材と一緒に買ってくれていたやつだ。

(そういや、「ちゃんと朝食摂らないと駄目だよ。」って、あかりが言ってたな………。)

 浩之はぼりぼりと頭を掻いた。あかりが用意したものを、こんな格好している綾香が使う、ってのも何とも妙な感じがする。

「はい、準備できたわよ〜。」

 綾香は紅茶を二つのカップに注ぎ終わると、椅子に座った。

「ほら、浩之も座って、座って。」

 語尾に音符でもつきそうな勢いだ。浩之は黙ってそれに従って綾香の正面に座った。
 従わない理由なんてもちろんどこにもないし、また、座ってしまえば腹部より上の上半身しか視界に入れなくて済むからだ。

 そうして、二人は朝食を食べ始めた。
 何気ない会話をしながらトーストやベーコンエッグを口に運び、紅茶を飲む。
 そういった、和やかで落ちついた、楽しい雰囲気になるはずだった。いや、少なくとも表面上はそうだ。

 しかし考えが甘かった。
 浩之は、どうしても綾香の胸に目がいって仕方がないのだ。
 ボタンを一つはずしているだけなので、決して露出が気になるわけではない。
 そのブラウスの下が、どうしても気になる。

(さ、さすがに、ブラジャーは、もう、着けたよなぁ………。)

 綾香の腕がほんの少しでも動くたびに、ブラウスの胸の部分の皺が微妙に変化する。
 おそらく、ブラウスの下にあるものが微妙に動くからだろう。
 しかし、そんな冷静な分析など、このさいどうでもよかった。

 綾香とはちゃんと会話を合わせつつも、悟られないように視線をちらちらと向ける。
 綾香も特に怪訝そうな反応をしないところをみると、浩之の喋り方も視線の動きも、不審には見えないということなのだろう。

(ばれないからと言って、見てていいわけじゃないよなぁ………。でも、気になるんだよなぁ………。ブ、ブラジャーは? なんとかしてくれよ、綾香ぁ。)

 我ながら馬鹿だと思いつつも、悶々と思い悩んでしまう。悲しい男の性だ。
気を紛らすつもりでカップを口に運ぶ。しかし、既に紅茶は空になっていた。

「もしかして紅茶飲んじゃった? もう一杯くらいなら残ってるわよ。飲む?」
「あ、ああ、頼む。」

 すると、綾香は立ち上がって、自分の後ろ、コンロの傍においてあるガラスのティーポットを取りに向かった。
 もっとも、ティーポットといっても、ティーバッグを何個か入れた程度のものだが。
 そんなことより、ブラウスに白い肢体、その後姿が妙に艶かしい。

(おおぉっ!!)

 浩之の平常心と理性が揺らぐ。
 そして、ティーポットを持ってきた綾香は、浩之の正面から注ぎ始める。
 そのため、食卓に左手をつき、ちょっと前かがみ気味の姿勢となった。

(おお、おおおぉぉぉっっ!!!)

 食卓の淵にあたる太もも、パンツを隠しているブラウスの裾、そして、ブラウスの襟口から見える谷間、そのどれもが一斉に視界に飛び込んでくる。

(ど、どどど、ど、どれを見ればっ! って、ブ、ブラジャーしてねぇじゃねぇかっ!!)

 あまりにも刺激が強すぎる。

「どうかしたの?」

 流石にうろたえすぎたのか、紅茶を注ぎ終わった綾香が不思議そうに聞いた。

「い、いや。何でも、何でもないんだ。気にしないでくれ。」

 我ながら、あからさまに怪しい返答である。

「ふ〜ん………。ま、いいけどね。」

 そう言って、綾香はぽすんと椅子に座った。
 何となく、綾香の表情がニヤリとしている気がしないでもなかったが、突っ込むのは危険すぎる。

(も、もしかして、綾香のやつ、わざとやってんのかぁっ!?)

 結局、朝食の間中、浩之は何とも情けなく悶々とし続けることになった。

「本当にいいのか? 家の人に迎えに来てもらわなくて。」
「大丈夫よ。それに、浩之の家にセバスチャンが来たら大変でしょ?」

 朝食も終わり、二人は玄関へと向かって廊下を歩いていた。綾香が帰るところうとしているからだ。
 もちろん、綾香はすっかり普通の制服姿になっている。

「まぁ、そうだな。」

 こんな状況でセバスチャンが来ようものなら、一戦交えなければならないのは目に見えている。

「でも、用心のためにセリオくらい呼んだらどうだ? セバスチャンに気付かれずに呼ぶことくらいできるだろ?」

 マルチには期待できないものの、セリオが一緒ならなら万が一のことがあっても、心配ないだろう。
 もっとも、今の状態の綾香なら、特に問題はないと思われるが。

「それもやめとくわ。ログを消すのも面倒だし。」
「あ、そうか。じゃぁ、せめて、途中まで送るぜ。」
「いいわよ、送ってくれなくても。それに………。」

 綾香が靴を履くついでに言葉を切る。

「それに?」
「なんとなく、一人で歩いて帰りたい気分なのよ。」
「なんでまた?」
「なんとなくよ。」

 そう答える綾香は、どことなく嬉しそうに見えた。浩之としては、首を捻るばかりだ。

「ふ〜ん………。でもさ、無断外泊なんだろ? 親がうるさくないか?」

浩之としては当然の疑問だ。しかし、綾香は何も悩むことなく答えた。

「葵の家に泊めてもらったことにするわ。」
「あ、なるほどね。」

 確かに、それは妙案だ。綾香が頼み込めば、事情を深く話さずとも葵も裏を合わせてくれるだろう。

「まぁ、浩之のベッドの上でついたブラウスの皺をどう説明するのかが一番の問題だけどね。」

 人が聞くと誤解しそうな発言を平然する。

「おいおい、誤解を招くような言い方すんなよ。」
「あら? 間違ってはいないと思うけど?」

 浩之はちょっと焦っているのに、綾香は至って落ちついている。

「そうだけどさぁ………。だいたいおまえさぁ、今だから言うけど………。」
「何?」
「あ、あんな格好で、うろつくなよ………。」

 浩之はそう言いながら、だんだん気恥ずかしくなってきた。
 ベッドで起きた直後や朝食での様子が、まだまだ記憶に鮮明だからだ。

「何か問題でもあったの?」

 綾香は落ちついているを通り越して、楽しんでるようにしか見えない。

「いや、その………、目に毒だろ………。」

 浩之は、赤くなりながら思わず視線を逸らした。
 しかも、ほとんど呟いているのと変わらないほどに声が小さくなる。

「あ、やっぱり? やっぱり目に毒だった? ま、朝食のときも視線が怪しかったしね〜。」

 綾香がにっこりと微笑んだ。明らかに浩之の反応を見て楽しんでいる。

「な………、て、てめぇ、わかっててやってたのか?」
「あ〜ら、なんのことだか。それに、私、寝るときはいつもあんな格好よ。」
「いや、それにしたって、若い男の前でやる格好じゃないだろ。だいたい、恥じらいってのはないのかよ、まったくよぉ………。」

 浩之としては、照れるべきなのか、呆れるべきなのか、どうしていいのかわからない。
 しかし、その言葉で綾香の頬が若干赤くなった。

「そ、そりゃぁ、私だって本当は恥ずかしかったわよ………。」

 独り言のように小さい声で綾香が答える。
しかし、浩之にはよく聞こえなかった。

「え? 何だって? いきなり声を小さくすんなよ。」
「何でもないわよ。気にしないで。サービスだってしてあげたんだから、文句言わないの。」
「サ、サービスって、おまえ、こ、こっちのことも考えろ。」
「不満だった? どっちかっていうと、大きいほうだと思うんだけど。」

 綾香は、そう言いながら腹筋の上部あたりに手の平をあてて、自分の胸を見下ろした。

「ば、ばかっ! そういう問題じゃないだろっ!」
「冗談よ、冗談。まったくもう、からかい甲斐があるんだから。」

 そう言って、綾香は意地悪そうに微笑んだ。

「なっ………。」
「ま、それはともかく、姉さんや葵の気持ちがなんとなくわかったわ。」

 綾香が一転して真面目な口調に変わる。

「は? どういう意味だ?」
「浩之あんた、優しすぎるのも酷だ、って言われるでしょ?」

 浩之の質問の答えになっていない。
 しかし、綾香の言っていることは事実に他ならなかった。
 琴音や葵、そしてあかりにも言われたことがあるのだ。

「う………、ま、まぁな………。」

 浩之としては、優しくしているつもりは全く無いのだが。

「ま、そういうことよ。」
「何がだよ?」
「さあね。それじゃぁ。」
「お、おう。」

 結局、最後まで綾香のペースで、浩之は見事にはぐらかされた形となってしまった。
 綾香が玄関の扉を開けて半歩外に出たところで、半身だけ振りかえった。

「ありがとうね。バイバイっ!」

 綾香はそれだけ言葉を残して、元気良く出て行った。

(やれやれ………。なんだかんだ言って、えらい振りまわされた気分だぜ。)

 そう思うと浩之の口から大きな欠伸が出た。

(まったく、今日はあいつのせいで寝不足だよ………。)

 浩之は、そんなことを思いながらリビングのソファーに深く腰を降ろした。
 睡魔がどっと襲ってきたが、それに抗うつもりは毛頭なかった。
 浩之が眠りにつこうとする頃、綾香は上機嫌が服を着ているかのごとく、スキップして家路を急いでいた。
 ただし、家に帰って芹香に指摘されるまで、綾香本人は自分の気分を自覚することはなかったが。


                                           〜fin〜