森の中を走っていた。
息が上がる。
体が重くなる。
両脚は疲労を訴え続ける。
―――ダメだ。今止まるわけにはいかない。
珍しく大雪の降った地面は足場が悪く、少し気を抜くと脚をとられそうになる。
低い気温は、容赦なく俺の体力を奪っていく。
雪がしみこんだ靴は、ぐちゃぐちゃと不快な音を立てる。
―――あと少し、あと少しだ。
永遠に続くかと思われた林を抜け、目の前に世界が広がる。
誰も踏み荒らしていない雪原の向こう、普段は獰猛な獣がいるはずのその向こうには、長い長い、それこそ無限に続くのではないかと思われる塀がそびえ立っている。
しかし、高さ自体は大したことがない。
せいぜいが二メートル。
足場が悪いとはいえ、手を伸ばしてジャンプすれば乗り越えることは十分可能。
あの塀さえ越えれば―――!
最後の力を振り絞り、脚よ砕け散れとばかりに疾走する。
雪原に力強い足跡を残し、俺は走る。
そしてその両手を伸ばし、最後の力を振り絞って跳躍して、
「はい、そこまでよタカ坊。おとなしく観念なさいね」
「いやだ、かーえーるー!」
「駄々こねないの。今のあなたの家はここでしょう?」
「うわあぁぁぁぁ!」
息も切らせず俺の全力疾走に追いついた上に、右手一本で男の体を軽々抱え上げる理不尽極まりない女性に捕まった。
「はいタカ坊、そこに正座」
「はい……」
ここは向坂家の一室。
って言うか今現在の俺の部屋。
ベッドとたんすの他には本棚とテーブルぐらいしかない簡素な部屋だけれど、隅々まで清掃か行き届いているのでみすぼらしい印象を受けることは無い。
「正月で気が抜けたところを狙ったのかもしれないけれど、ちょーっと考えが甘かったわね」
俺の目の前に座ってにっこり笑うのは、この家の長女である向坂環。って言うかタマ姉。
その笑顔は本当に優雅で、知らない人が見たらその美しさに目を奪われるだろう。
でも俺は知っている。
この笑顔のときのタマ姉は不機嫌だ。
だって雄二にアイアンクローかますときの笑顔と同じだもん。
「『雪で寒いだろうし、犬たちは休ませてあげようよ』って言うのもちょっとおかしいな、とは思ったのよね」
そう、向坂家の裏庭に放してあるドーベルマンを屋内にひっこめるように言ったのはこの時のためだった。
幸いにも犬たちは俺をこの家の一員として認めてくれているので噛み付いてくることはないけど、それでも俺の動きを察知する要因は減らしておかなければいけなかった。
「まあいいわ。それじゃあ今日の分の勉強を始めようかしら」
「いやー! かえるー!」
何処からともなく取り出された、山のような問題集を見てまた俺は逃げ出した。
そして今度は部屋を出ることすら許されずあっさり捕まった。
あの春、そして夏。
まあすったもんだの末に俺とタマ姉はその、なんだ。お互いの気持ちを確かめ合って、お互いの親にも話が通ってタマ姉の家に転がり込んで一緒に暮らすことになった。
ちなみに、その同棲に関して俺は意見を求められなかったけどそんなことは今更だ。
って言うかタマ姉が何かするときに人に意見を求めたことは無い。
まあ、それはいい。
うちも両親が海外に長期出張なんかしてるおかげで俺一人だし、タマ姉の家はそれはもう本当にここは日本ですかって思うぐらい広くて部屋も余りまくってるので、効率的だと思う。
食生活も改善されるし。
俺が一人で暮らしているときはインスタント食品かシリアルばっかりで、たまにこのみの家から貰うおすそ分け以外にまっとうな料理を食べる機会はとても少なかった。
でも今は真っ当な―――っていうか、美味しい料理を三食しっかりいただいております。
おかげで体調もとても良好です。
それはもう、雪の中全力ダッシュで庭を駆け抜けて塀を乗り越えて脱走を企てるぐらいに。
ああ、いや、話がそれた。
まあとにかく俺とタマ姉は同棲することになり、つまり一つ屋根の下で暮らすことになった。
まあそれは嬉しい。
そりゃ嬉しいさ。
俺だって女の子は苦手とか言ってみたりもしてたけど一応年頃の男だし、好きな女性と一緒に暮らせるなんて夢みたいな話だ。
しかも、お互い高校生なのに。
挙句の果てに親公認。
そんな漫画みたいな話、俺が体験することになるとは思わなかった。
本当に漫画みたいな話。
でも、だからと言って。
「九条院に編入するんだから、頑張って勉強しないとね」
そんな漫画みたいな落ちは要らない。
「パソコンとかゲームは持ち込み禁止ね」
二段落ちも要らない。
そんなわけで俺は日夜勉強をしつつ脱出計画を練ったりしている。
タマ姉と一緒にいるのが嫌なわけじゃない。
ただたまには自由が欲しいだけ。いやかなり切実に。
自分をがんじがらめにしたがる親には反発するけど、他人を縛りたがるその性格はどうかと思うよタマ姉。
いや、そんなこと言ったら俺の身がピンチになるから言わないけど。
「でも、今回は危なかったわね。もう少しで逃げられるところだったわ」
うん、惜しかった。
年末をしっかりおとなしく過ごして、二年参りも終わらせて。
さすがに夜更かししたのでタマ姉といえども早起きできないだろうと見越して、早朝に計画を決行したと言うのに。
っていうかちゃんと寝てるのを確認してから逃げ出したと言うのに。
後一歩と言うところで追いつかれた。
くそ、指先にはまだ塀の感触が残っている。
「雄二が起こしてくれなかったらまんまと逃げられてたわね」
「くそ雄二、裏切ったな!」
タマ姉の言葉を聞いて、一応親友であるはずの男に叫んでみるが聞こえるわけもない。
きっと今頃外に避難してるに違いない。
戻ってきたら殴る。
絶対殴る。
「……はぁ」
俺が決意を新たにしていると、タマ姉は軽く溜息をついてからその手に持っていたテキストを置いた。
「タカ坊、今の生活……そんなに、不満?」
「あ、いやそんなことは」
不満がないって言えば嘘になるけど、少なくとも不安そうにに見てくるタマ姉に向かってぶつけたくなるような不満はない。
ああもう、上目遣いは反則だってば。
「……ほんと?」
「ほんとほんと」
これでもかといわんばかりに、自分の首をぶんぶんと縦に振る。
いや確かにちょっと自由が欲しいと思うけど、それはなんというかちょっと反抗してみたくなる多感な十代の深層心理と言うか。
そんなことを思うんだけど上手く言葉に出来ず、タマ姉も同じような感じなのかどうなのか、俯いて黙り込んでいる。
こーん
なんとなく沈黙してしまった俺とタマ姉をよそに、庭のししおどしの音が響く。
だめだ。
タマ姉と付き合うことになって、そのままなし崩しで同棲までしちゃってるけど女の人が苦手なことに代わりはない。
いや別に嫌いなわけじゃない。ただこんな時に何て言えばいいのか、そういうことがさっぱり思いつかない。
何か言わなきゃ。
目の前で、いつもとは正反対に何だか不安そうにしているタマ姉を見ているとそう思うんだけど、それでも言葉が出てこない。
ああもう、自分が情けない。
何度か、とりあえず何か喋るために口を開いては見るんだけど上手く言葉にならない。
何か喋ろうと口を開くんだけど、言葉が出なくて口を閉じる。
何度かそんなことを繰り返していると、やがてタマ姉が口を開いた。
「……じゃあ、聞いていい?」
「あ、うん。うん」
渡りに船とはこのことで、俺はタマ姉の問いかけに一も二も無く飛びついた。
そして、そんなタマ姉からの質問は、
「タカ坊、何も言ってくれないじゃない」
「はい?」
意味がよくわからなかった。
えーと、『言う』って言われても。
タマ姉にしては珍しく、言ってることが曖昧ではっきりしない。
俺の反応を見てタマ姉もわかったのか、俯いたままだけどぼそぼそと話し始めた。
「だから、タカ坊ってうちに来てからもして欲しいこととか言わないじゃない」
「ああ、うん。そうかもしれないけど……」
そりゃそうだろう。
このうちに住むことになって、タマ姉や雄二に、あまつさえは叔父さん叔母さんにも『自分の家と思って好きにして欲しい』とか言われても、そんなに好き勝手には振舞えない。
まあそれでも最近は慣れてきたこともあって、それなりに色々と好きなようにやらせてもらってるんだけども。
でもそれは今のこの状態とは関係ないと思う。
それだったらタマ姉は『今更遠慮なんかしないの』とか諭して終わりだろう。
今みたいに自信なさそうに俯いてる理由はないし、タマ姉がそんな態度を見せるはずが無い。
タマ姉がこういう態度をとるときは、どっちかと言うと個人的な―――っていうか俺がらみのことが多いんだけど、えーと、それから考えると。
「あ」
思いついた瞬間、顔が赤くなるのがわかった。
そんな俺を見て、タマ姉も俯いたままでもわかるほど顔を赤くする。
「いや、あの。その、それは」
だめだ。何か気の聞いた返事をしなきゃと思うんだけど、口が回らないどころか考えが纏まらない。
脳細胞は絶好調で色々思い出せるんだけど、全然制御できなくて考えたいことが考えられないって言うかあの時のことばかり思い出されて。
『タカ坊の好きなことしてあげるから』
……だからダメだってそれは。いや、それが嫌かって聞かれたりすると
「タカ坊……嫌なの?」
「そんなわけないだろっ!」
思わず全力で否定してしまった。
こーん
俺の叫び声の後、思わず静まり返った部屋の中にししおとしの音が響き渡る。
「嫌なんて、そんなことあるわけないよ。うん」
本音を包み隠さず大声で叫んだおかげか、だいぶ落ち着いた頭でそう告げる。
「あ、うん。ありがと」
タマ姉も、俺の言葉に反応してそう返事をしてくれた。
いや、お礼言われる場面じゃないと思うんだけど、タマ姉の気が済むならよしとしよう。
ああ、もう、なんだ。
俺は心を決めて、立ち上がった。
そしてそのままものも言わずに、タマ姉の横に座る。
それでもって右手を伸ばして……ええい。
「あっ」
何も言わずにタマ姉の肩を抱いた。
一瞬、何が起きたのかが理解できなかったのかタマ姉は唖然としていたけど、少し経つとその体から力を抜いて俺の肩に体重を預けてくれた。
俺の肩にはタマ姉の頭が乗り、その綺麗な髪の毛からはなんと言ったらいいかわからないいい匂いがする。
ドキドキする、本当にドキドキして、動きすぎて止まるんじゃないかとさえ思える心臓を必死に落ち着けながらタマ姉に声をかける。
できる限り自然に、できる限り優しい声で。
「あせらなくて……いいよ。まだ俺も、これが精一杯だから」
そう言って空いてる手でタマ姉の髪の毛をすくと、タマ姉は「うん、うん」とうなずきながら、それに身を任せてくれた。
そう、まだこれが精一杯。
俺だって一応健康的な男子高校生なんだから色々あるけど、今はこれが精一杯。
いつかはその、これ以上のことをしたいと思うけど、今は本当にこれが精一杯。
でも、俺の側にいてくれるタマ姉が幸せそうな顔をしてくれているからいいんだと思う。
焦らず、一歩一歩。
二人で一緒に歩んでいけば。
おまけ
「不安だったのよ」
「不安?」
「タカ坊何もしてくれないし、その、タカ坊の部屋の中にHな本が……」
「ええええぇぇっ!?」
「ううん、それはいいの。ちょっと悔しいけど、タカ坊だってそういう本を」
「いや、それ本当に俺のじゃないってば!」
濡れ衣である。
まごうことなき濡れ衣である。
いくらタマ姉は『うんうん、恥ずかしいのはわかってるけどそんな隠さなくていいのよ。お姉ちゃんわかってるから』とか言う優しい表情をしてくれても濡れ衣は濡れ衣である。
俺は断じてそんな本を持ち込んでいない。
いや、持ってないとは言わない。
とりあえずその手の本は実家に置いてきた。
つうか、俺はタマ姉のいる家にその手の本を持ち込むほどチャレンジ精神にあふれてはいない。
そんなわけで全力で否定していると、タマ姉もそれが本当だと理解してくれたのか、表情が変わる。
タマ姉がこんなことで嘘をつくなんていうことはありえない。
しかし俺の部屋にそういう本が隠してあったということは事実なわけで、そうするとその本の持ち主は―――
俺とタマ姉が、恐らく同時に犯人を割り出したときに部屋の外で床のきしむ音がした。
瞬間、タマ姉は駆け出してその右腕を繰り出す。
そしてその手は狙いたがわず、ふすまの向こうにいる犯人を捕らえた。
犯人を捕らえるタマ姉の右手は結構高そうなふすまを貫いてたりするけど、この際それには目をつぶろう。
「痛たたたたたた! 割れる、割れるっ!」
ふすまの向こうからはそんな悲鳴が聞こえるけど、それはこの際問題ではない。
少なくとも俺とタマ姉は問題にしようと思わない。
「そこで何をしていたのかしら?」
「いやその、やっぱり姉と親友の行く末はとても興味深あたたたたたた!」
質問はしたけど答えを聞く気は無いらしく、タマ姉の右手には渾身の力を込められているみたいだ。
「こら、貴明! 親友のピンチなんだから助けようとか思わないのか!」
「いや、俺ふすまを親友にした覚えはないし」
「そうね。私もふすまを弟にした覚えは無いわ」
「てめぇら、わかってやってるだろあ痛たたたたた割れる割れる割れる!」
「安心しろ、雄二。頭蓋骨割れてもその他の組織が無事なら生きてられると思うから。多分」
「多分ってなんだよって言うか貴明、今『雄二』って呼んだだろ! わかってるんなら助けろ!」
「あ、俺の田舎でふすまのことを『雄二』って呼ぶ風習が」
「嘘付けっ!」
「まあとにかく、自分の恥ずかしい本を他人の部屋に隠すような卑劣な男には罰が必要よねえ……」
「いや、あの。姉貴?」
「大丈夫」
「ああ、それなら」
「いい脳外科医の先生知ってるから」
「大丈夫じゃねえぇぇぇぇぇ!」
年明けの退屈な昼下がり、向坂家にはふすま(命名:雄二)の悲鳴が響き渡る。
その後どうなったかは秘密。
とりあえず、次の日の食卓では親の敵のようにカルシウムの摂取をする雄二の姿が見受けられたと言う報告例が上げられています。
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