「オカリンおじさん。はじめまして……で、いいのかな」
「いや、俺はもうお前と会っている」
「そっか、前の世界線で会ったことがあるって言ってたっけ」
「ああ。さらにその前の世界線でもな」
「へー」
俺の目の前で『そうなんだー』とまるで人ごとのように言う少女。彼女とは、間違っても『はじめまして』なんて言葉を交わしあうようなよそよそしい関係ではない。
阿万音鈴羽。あの三週間の世界線漂流の時には俺にダイバージェンスメーターを託し、『まゆりの死』と『SERNによるディストピア』いう未来が確定したα世界線からβ世界線への道筋を示し、β世界線では今いるこの世界線《シュタインズゲート》に到達するために尽力してくれた2017年生まれのタイムトラベラー。
我が頼れる右腕こと橋田至の娘であり、ラボメンナンバー008。
もう二度と会えないと思っていた――いや、正確に言えばダルが結婚して娘が生まれるまでは会えないと思っていた彼女が、今俺の目の前にいた。このラジオ会館屋上に。
「えっと……それじゃあタイムトラベル云々って説明はいいのかな」
「そうだな。前の世界線でお前がダルの娘だと言うことは聞いているが……呼び名は阿万音鈴羽、でいいのか?」
「別にいいよ。正確には橋田鈴羽だけど、オカリンおじさんはそっちの方が慣れてるんでしょ?」
「ああ。ちなみに、母親の名前というのは聞いても大丈夫か?」
「阿万音由季だけど……気になる?」
「いや、あのダルと結婚しようと思う女性がどんな人なのかという純粋な好奇心だ。忘れてくれ」
あまり余計な知識を得てしまうと、また何か悪影響を及ぼさないとも限らない。しかもその原因が『親友の恋路が気になってちょっかい出しちゃって』というのは最低すぎるにも程がある。
「しかし、鈴羽がタイムトラベルしてきたと言うことは……ひょっとして、何か問題が起きたのか?」
「ん? あ、違う違う。あたしがいた未来は平和。確かに色んな問題はあるけど、ディストピアとか第三次世界大戦とかそんなSFみたいなことにはなってないから」
「ならよかった」
正直ほっとした。確かに今の鈴羽の服装はα世界線で見たジャージとスパッツという見慣れた出で立ちでありβ世界線で見た戦闘服のようなものではなかったが、どうにも鈴羽とタイムマシンを同時に見ると緊張してしまう。
「……しかし、だとすると何故お前がこの時代にやってきたんだ?」
びくうっ!
そんな擬音が見えた気がするほど、鈴羽は瞬時に固まった。
「観光、とか?」
「嘘をつくならもうちょっとばれないように努力しろ」
ここに紅莉栖あたりがいれば「あんたにだけは言われたくない」などと憎まれ口を叩くかもしれないが、いくら俺でも鈴羽よりはマシなはずである。マシだと信じたい。
ともかくそんな指摘を受けた鈴羽は少し考え込み、やがて諦めたかのようにうな垂れて溜息をついた。
「……やっぱりオカリンおじさんには敵わないな。ちょっと長くなるかもしれないよ?」
「ああ、かまわん」
特に差し迫った危機的状況がないというのなら、急ぐ理由もない。腰を据えてゆっくりと話を聞くことにしよう。
というか、一応鈴羽の名誉のために『やがて』などと言う表現をしてみたが、俺に指摘された鈴羽が悩んだ時間はどう長く見積もっても十秒がいいところだった。ザ・嘘のつけない女の称号を授けたいと思う。
「まず、さっきも言ったとおり2036年は概ね平和。タイムマシンは開発されたけど、ディストピアもできてないし第三次世界大戦も起きてない」
「それはひとまず安心だが……大丈夫なものなのか?」
「うん。それについては何だか独立的な管理組織が運用してるんだけど……それについては一応機密ってことになってるんだ。あたしも細かくは知らないし」
「今ひとつ不安が残るが……」
「うん。でも小さい頃あたしがそう言ったらオカリンおじさんが『安心しろ。もしも彼の組織が何か企てることがあればこの鳳凰院凶真が自ら動こうではないか。フゥーハハハ!』って」
「……そ、そうか」
未来の俺がそう言っているなら安心していいんだろうか。というか俺は未来でもそうなのか。さすがにちょっと色々考えるべきかもしれないと思ったりもしたが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「それじゃあ、タイムマシンは厳しく管理されていると言うことか」
「うん。使う資格を取るのにはすごい厳しい試験を受けなきゃいけないし、タイムトラベル先はもちろん普段から監視とか報告とか行動の制限とかが色々あるんだ」
「なるほど。ちなみに用途は――」
「過去に失われた機械や記録の記録・確認が主かな」
「……IBN5100みたいなものか」
「そうだね、あとは色んな再生機器とか部品とか」
「なるほど。すると鈴羽もその試験とかをくぐり抜けたのか。さすがだなバイト戦士」
はっはっは、と爽やかに笑いながら目の前のお下げの少女に賞賛と祝福の意味を込めて声をかける。
返事はなかった。
それどころか明後日の方向を向いて口笛を吹いていた。しかも鳴っていない。
「……鈴羽?」
「いやまあ、その」
ザ・嘘のつけない女の称号はダテじゃない。いや、その称号をつけたのは俺だが。
一応言ってはみたものの、鈴羽がそう言った正規の手段をとらずにタイムトラベルしてきたのは明白だった。もし鈴羽が説明したような理由できたのなら、最初に聞かれた時点でそう答えるだろう。
そして俺にいともあっさりと追い詰められた鈴羽のとった行動は。
「ごめんなさいっ!」
土下座だった。全力の土下座だった。
一瞬前には立っていたとは思えないほどの、見事な土下座だった。
「いや、俺に謝られても困るのだが」
「でも、タイムマシンに悪戯するとオカリンおじさんすっごく怒ったから」
「あとそれだ。おじさんっていうのは……」
「いやだって、2036年には45歳だよ?」
「ぐあっ」
なんかショックだ。
そりゃ2010年に18歳の俺が2036年に45歳になるのは当然な話なんだが、なんとなく。
「オカリンおじさんの誕生日をみんなでお祝いした次の日に家出したんだから間違いないって。ちゃんとロウソクの数も数えたし」
「そうか。そういうことなら……って、今凄いこと言わなかったか」
「あ」
『しまった』と言う顔をして自分の口を両手で押さえているが、時すでに遅かった。最近視力が若干落ちてきた気もするが、耳の方は絶好調である。三日前に耳掃除したばかりだし。
「お前、家出するためにタイムマシンって……さっき得意げに説明していた資格がどうとか国際的な管理組織とか、ひょっとしてあれは全部嘘なのか?」
だとしたら鈴羽には詐欺師の才能があると思うが。
「いや、本当なんだけど……」
「じゃあどうして」
なおも問い詰めるとようやく観念したのか、まるで悪戯を見つかった子供のように、おそるおそるといった感じで口を開いた。
「『自家用タイムマシンだ』って」
「……」
なんだろう、凄く嫌な予感がしてきた。今の今まで俺は一方的に鈴羽を責めていたはずなんだけど、嫌な予感がひしひしとしてきた。そして多分この嫌な予感は当たると思う。
とは言ってもまさかここまで来て「よし、じゃあ細かいことはいいから飯でも食うか!」などというわけにもいかず――正直そっちの案にもひかれはするが、覚悟を決めて聞くことにする。
「……だれ、がだ」
「オカリンおじさん」
「ですよねー」
「あとパパ」
「ですよねー」
ああ、目に浮かぶ。『開発者特権だ!』と言ってダルと二人でこせこせ頑張る姿がありありと目に浮かぶ。
「ちなみに聞くが、助手は」
「助手って紅莉栖おばさんのことだよね? すっごい怒ってた」
うん、そっちも目に浮かぶ。ついでにいうと言い争った後に隠れて作ったり、紅莉栖は紅莉栖でなんだかんだと言いつつ邪魔はしないどころかたまに手伝ってくれるのまで目に浮かぶ。ひょっとしてリーディング・シュタイナーに続く新たな魔眼が開いたんじゃないかと言うぐらいはっきりと浮かぶ。
「ああ、それで『C205』なのか」
「うん。型番はオカリンおじさんが決めたらしいけど、意味は秘密だって」
それも俺なら言いそうだ。そして鈴羽はともかくダルやまゆりにはあっという間にばれてそうだ。紅莉栖に気づかれているかどうかは色んな意味で怖いので想像したくない。
「とにかく、その自家用タイムマシンに乗って家出してきたわけか」
「うん」
言われて見てみると、確かに鈴羽は手ぶらで何も持っていなかった。計画的な家出とか言うことではなく、衝動的な家出なのだろう。衝動的に時を越えた家出というのもどうかと思うが。
「ちなみに、理由は聞いてもいいのか?」
そう、まずはそれからだ。もし可能ならば、色々難しいかもしれないがみんなに事情を話して――
「父さんが過保護すぎて」
事情を話すことができないことが確定した。
「……それだけ、か?」
「それだけって――!」
「ああ、すまん。俺の言い方が悪かった」
鈴羽にとっては色々と積もり積もっての家出なんだろう。確かにダルが結婚して鈴羽みたいな娘が生まれてすくすくと育ったとすれば――考えるだに恐ろしい。
しかしそれが事実であり、事細かにラボメンの皆に『ここにいる阿万音鈴羽は未来のダルの娘なんだが、父親の過保護がうざくて家出してきた』などと説明したとしたら、ダルは間違いなく再起不能である。それは避けたい。
となると当面の間は適当に理由をつけてごまかさなければいけないわけで。
「ちなみに、どれくらいの期間こっちにいるつもりなのだ」
「飽きるまで」
少なくとも明日帰るとかいうことはないっぽい。
となると色々と考えなければいけないことがあるわけだが――
「しかし、さすがにあんまり時間がかかるようなら何らかの手段で連絡をとった方がいいのではないか?」
「ちっちっち。帰るときには家出した五分後ぐらいに行けば万事解決だよ」
「ああそうか。それならいい……のか?」
確かに、それならどれだけ長い時間家出をしていても向こうの主観で考えれば鈴羽がちょっといなかっただけである。もちろん今回の場合は2036年のダルにも色々考えてもらわなければいけないと思うので、もうちょっと時間をおいたポイントに戻るべきだとは思うが……ああもうめんどくさい。
「一応聞くが、住む場所のアテとか……」
「ないよ!」
「いばるな」
なぜか自信満々に言い切る鈴羽にそうつっこむが、よく考えたら俺の家も探さなきゃいけないんだった。ああもう本当にめんどくさい。
「どうしたもんか……」
俺が天を仰ぎ悩んでいる横で、鈴羽は何故か楽しそうにストレッチをしていた。なんだこれ。
◇
「あ、オカリンおかえリン〜」
「……まゆりよ、それは流行らせようとか思っているのか?」
「ん? 何が?」
「いや、なんでもない」
ラボに帰った俺を迎えてくれたまゆりに問いかけてみたが、勿論そんな他意とかはないみたいだった。
「やっと帰ってきたわね、岡部」
「何だ、そんなにこの俺の帰りが待ち遠しかったのか?」
「なっ! そ、そんなわけないでしょう!?」
そして紅莉栖はいつも通りだった。
うむ、いつも通りの我がラボである。
「で、オカリン何してるん? 早く入ってくればいいのに」
「ああ、そうだな」
「……岡部?」
「わかってる」
そう、わかっている。わかっているのだ。いつまでも入り口で突っ立っていてもしょうがない。
よし。
覚悟を決めてラボに入る。
入り口から大股で一歩中に。そしてそのまま向きを変えずに横に動いてスペースを空ける。
そして空いたスペースから――
「おっはー」
鈴羽が入ってきて挨拶をした。とても朗らかに。
と言うか鈴羽よ、その挨拶は世界線が変わっても譲れないものなのか。
「おっはー」
そんな突拍子のない挨拶にも即座に返事をするまゆりはさすがだと思う。
「えっと、新しいラボメンさん?」
「ああ、阿万音鈴羽だ。仲良くするんだぞ」
「はーい」
「はーい」
うむ、早速馴染んだようで何よりだ。まあ、まゆりも鈴羽も人懐っこいというか物怖じしない性格なのでこの二人に関しては心配していなかったが。
それじゃあ紅莉栖はどうなのかというと。
「……」
なんだか睨んでいた。
勿論、鈴羽を睨みつけているわけではない。確かに紅莉栖はそれなりに警戒心を持っているタイプだが、だからといって初対面の相手にむやみやたらと敵意を向けるような人間ではない。むしろα世界線では鈴羽が一方的に紅莉栖に対して敵意をむき出しにしていた。
まあそれも色々と事情があったからでありこの世界線では関係ない。
そんなわけで鈴羽に敵意を抱いていない紅莉栖が誰を睨んでいるのかというと。
言うまでもなく俺である。前置きをしなくてもわかるだろうとは思うが一応念のためにと言うか、俺にだって観測したくない現実というものはあるのだ。察してくれ頼むから。
とは言っても紅莉栖に睨まれているのは事実であり、『目は口ほどにものを言う』という言葉を証明するかのようにメッセージを送って来ている。
『また女のラボメンか』と。
いや別にラボメンは女性限定とかそんな決まりはなく、そんなつもりは毛頭無い。勿論俺が秋葉原で気に入った女性を見つけては『ラボメンにならないか』などという台詞でナンパして回っているわけではない。というかそんなナンパが成功するならこの世に独り身の男はいないと思う。
「いや、鈴羽はなんでも親元から自立するために単独上京してきて知り合いもいないというのでな」
嘘ではない。
結局あの後『ラジ館屋上で悩んでいてもどうしようもない』ということで鈴羽をラボに連れて行くことを決めたとき、この展開は十分すぎるほど予想できたので言い訳も準備しておいたのだ。
いや、よく考えるとこのラボの家賃をたまに滞納しつつも払っているのはこの俺であり、未来ガジェット研究所の責任者も俺なのだ。言ってしまえばたかが助手である紅莉栖に言い訳する必要など無いのだ!
……まあ勿論そんなこと怖くて口に出せないわけだが。くそ、腹立たしい。
ちなみにここにいるもう一人のラボメンことダルはと言うと。
「……」
こっちも俺を睨んでいた。
いや、ダルに関しては目を見なくても言いたいことはよくわかる。なんだかんだ言ってもダルとのつきあいはまゆりに次いで長いし何より。
「今度はスポーツ少女とかオカリンはいいかげん爆縮するといい」
思いっきり口に出していた。
「しかも、爆発どころか爆縮とまで」
「全くオカリンはちょっと牧瀬氏と喧嘩して逃げたと思ったら次の娘! 一人ぐらい僕に分けるべき!」
机をバンバン叩いて力説していた。
もうあれだ、こいつ将来娘に家出されるだけじゃなく思春期の娘に『父さんの下着と私の服一緒に洗濯しないで!』とか言われて落ち込めばいい。後で鈴羽にそう頼んでやろう。
「とにかくだ。そんなわけで俺と紅莉栖の他に鈴羽の住む家も探すのだ!」
「正気?」
「せめてそこは『本気?』と聞いてほしいのだが……」
「いやでもオカリン。正直いくら何でも無理があると思うお」
「ええい、この鳳凰院凶真の助手と右腕が揃って後ろ向きな。住む場所を二人分探すも三人分探すのも対して手間は変わらんだろう!」
「いやだから、そもそも二人分でも無理があるんだって」
「と言うか岡部、そう言うあんたは何かいいアイディアがあるわけ?」
「……無いッ!」
「ハンッ、やっぱりね。相変わらずよくもまあそう根拠のない発言を――」
「何を!」
「何よ!」
売り言葉に買い言葉。
その時々で理由は違うが、この未来ガジェット研究所においてもはや恒例になりつつあるやりとり。今日も今日とて繰り広げられ、時にはまゆりがやんわりと止めに入ったりするのだが。
「スズさん、唐揚げ食べる?」
「いいの?」
「うん。お近づきの印にジューシー唐揚げナンバーワンをプレゼントー」
新しいラボメンが入って嬉しいまゆりは鈴羽の接待に夢中らしい。
と言うか鈴羽よ、お前の住居を探す探さないで論争になっているというのに、ほくほく顔で唐揚げ泊ついてるのはどうかと思うぞ。
「美味しい!」
「おでん缶もあるのです」
そんな微笑ましいやりとりを見つつも紅莉栖との口論というかもはや口喧嘩となりつつあるそれはどんどん激しさを増し、声のボリュームも上がっていき。
その大声は、このラボに――より正確に言うと大檜山ビルの最高権力者を呼び寄せる。
「うるせぇぞお前ら!」
そう、いわずと知れたミスターブラウンである。
「こ、これはミスターブラウン。今日は実験したりはしていませんが」
「実験とやらをしてようとしてなかろうと、これだけうるさけりゃ変わんねぇよ」
至極正論だった。
しかし、その正論を認めるわけにはいかない。なぜなら家賃を上げられてしまうから。
これからどうやら一人暮らしをすることになり物入りになることは明白なのに、これでこのラボの家賃まで上げられたら死んでしまう。
「まあ、そっちはとりあえずいい。今日の用件はそっちじゃねえんだ」
「は?」
全力で警戒していたのだが予想外なことをいわれ、思わず間抜けな声で聞き返してしまった。
この未来ガジェット研究所で騒ぎが起きるとミスターブラウンがやってきて「家賃上げるぞ!」と脅してくるのもまた恒例だったので、正直なところ拍子抜けである。
そしてそれは紅莉栖やダルも同じらしく、キョトンとしているが――
「なんだ、そんなに家賃上げてほしいのか?」
「いや、そんなことはないぞ!」
いかん、藪から蛇が出てきそうだ。さっきも言ったとおり、これから一人暮らしもしなければいけないのだから出費はできる限り抑えたい。
「それで、ミスターブラウン。どういった用件ですかな?」
「相変わらず無駄に偉そうだな……」
呆れ顔で言われてしまったが、そんなことはどうでもいい。今もっとも重要なのは、この家賃を値上げを阻止することなのだ。
「まあいいや。岡部、住むとこ探してるんだって?」
「え? ああ、はい」
「そこの嬢ちゃんも」
「は、はい」
そんな風に話の流れを見極めきれずにいる俺と、そもそも話しかけられるとすら思っていなかった紅莉栖が揃って狼狽えているのを見たミスターブラウンはにやりと笑ってから言葉を続ける。
「ぼろいアパートでよけちゃ、ここの近所で紹介してやれるぜ」
「……え?」
「は?」
意味がわからなかった。
いや、もちろん突然失語症を発症して意味がわからなくなったとかそう言う話ではない。突然の急展開について行けてないというか何というか。
「いや、さっきお前が駅の方に走っていった後にまゆり嬢ちゃんが降りてきてな。お前と嬢ちゃんが住むとこ探してるって言うからよ」
「ええと、それはつまり」
「ああ。知らない仲ってわけでもねえし、まゆり嬢には綯も世話になってるしよ。どうだ?」
「おお、やったじゃんオカリン」
「店長さん、ありがとうございます。それにまゆりも」
「へっへっへー。まゆしぃにお任せなのです」
まさに棚からぼた餅。結局のところ俺と紅莉栖は不動産屋巡りをすることすらせず、住むところのアテができた。ミスターブラウンが言う『ぼろい』というのが実際にどれくらいのものなのかという問題はあるが、逆に言えばそれさえ我慢すれば入居できると言うことである。
そしてミスターブラウンが俺に紹介してくれると言うことは、ぼろい分家賃も安いのだろう。紅莉栖はどうだか知らないが、俺の予算は限られているのだ。まさに好都合である。
しかし。しかしだ。
普通に過ごしていて、棚からぼた餅が突然出現することなどあり得ないのである。
「ミスターブラウン」
「ん、なんだ?」
やはりだ。
俺に名前を呼ばれても驚いたりせず、むしろ『待ってました』と言わんばかりに顎髭を撫でながらにやにやと笑っている。
「タダと言うことはあるまい」
「おう、さすがに察しはいいな」
そう。ミスターブラウンがこの俺に無償で何かしてくれると言うことなどあり得ないのだ。
しかしここでミスターブラウンの申し出を断った場合、また一から家を探すことになる。いや、実際には探してないんだけど。それは避けたい。
そしてそれは紅莉栖も同じらしく、さっきからしきりにアイコンタクトで『YESと言え』と伝えてきている。
くそ、紅莉栖め。ミスターブラウンの出す条件がどんなものでもお前にも手伝わせてやるからな。絶対だ!
心密かにそんな決意をしたり覚悟を決めたりしていたが、そんな俺を見てミスターブラウンは軽く笑った。
「まあ、構えるな。そう難しい話でもねえからよ」
「……まず、話を聞かせてもらいましょう」
「疑り深ぇなあ……。まあいいけどよ」
そう言ってから軽く息をつき、言葉を続ける。
「まあ、俺の知り合いのじいさんが持ってる物件なんだがな? さっきも言ったとおり結構年季の入ったアパートで、今時風呂もついてないような物件なんだよ」
「待て。風呂がないとさすがに困るぞ」
「近所に銭湯もあるし、お前だったらイザとなったらここでシャワー浴びてきゃいいだろうが。まあともかく結構前に建てたまま建ちっぱなしみたいになってるアパートなんだが、じいさんももう年だから、なんかトラブルが起きる度に呼び出されるのがきついらしいんだわ。それで『住み込みで管理人の仕事をしてくれる貧乏学生とかいないかね』とか言われて、真っ先におめえの顔が浮かんだってわけだ」
「待て、ミスターブラウン! 貴様、この鳳凰院凶真を貧乏学生などと――」
「なんだ、貧乏じゃねえのか。じゃあ今月分の家賃を今すぐ払ってもらおうか」
「すいません、貧乏学生です」
「弱っ! オカリン相変わらず弱っ!」
五月蠅いぞダル。お前なんぞ一銭も払ってないだろうが。
「もし住み込みで管理人の仕事をしてくれるなら家賃はいらないし、気持ち程度だけどバイト代も出してくれるらしいぜ。それにそこのアパート今は一人しか住んでないらしいから、空き部屋に入りたいなら家賃も多少は勉強してくれるんじゃねえか?」
思いの外いい話だった。確かに風呂なしというのが若干引っかかりはするものの、それ以外は申し分ないと言ってもいい。
「ちなみにその管理人の仕事というのは」
「まあ、雑用全般だわな。共用部分の掃除とか、あとはどっか壊れたとかトラブルが起きたときの処理とか。電気関係もちょっとは大丈夫だろ?」
「多少なら大丈夫だとは思いますが……」
これでも一応電機大学の現役学生である。軽いトラブルなら何とかできるだろう。
「で、どうする? 引き受けるんならアパートまでの地図描いてやるが」
「それはありがたいが、鍵はかかってないのか?」
「ああ、それは預かってあるから地図と一緒にやるよ」
「最初っから俺に押しつける気満々ではないか!」
「何だぁ? 嫌ならこの話無かったことにしても――」
「ああいえ、すみません。ありがとうございます」
「オカリン弱っ!」
くそ、ダルめ心底楽しそうに。
もし電気トラブルが起きたら深夜だろうと呼び出してやる。拒否権を与える気はない。なんと言っても今の俺には切り札があるのだ。
よく考えてみると、未来のダルに対する切り札にはなっても今のダルに対して有効かどうかは怪しい気がしてきたが。
まあいい、何かあったら呼び出すことは確定だ。
「それじゃあ一応向こうにも電話入れておくが……住むのは岡部とそこの嬢ちゃんと……」
「はいはーい! あたしも!」
どうやらジューシー唐揚げナンバーワンをまゆりと二人で間食したらしい鈴羽ががばっと立ち上がり、天をも貫く勢いでその右手を挙げつつそう言った。
「……岡部、見ない顔だが」
「ああ、その」
そうだ。あまりに見慣れた光景なのですっかり忘れていたが、この世界線において鈴羽は俺以外の全員と初対面だったのだ。
となるとつまり紹介する必要があり、間違っても『他の世界線においてブラウン管工房でバイトしていた鈴羽です』と言う紹介をするわけにもいかず。
「新しいラボメンです」
いくらとっさのこととは言え、我ながらどうかと思う紹介だった。
しかしそんな紹介を聞いたミスターブラウンはと言うと、意外なことに気を悪くした様子すらなかった。
ただ感慨深げに鈴羽を見てからまゆりを見て、最後に紅莉栖を見た後になにか納得したかのように一つ大きく頷くと、俺の肩に手を置いて重々しく口を開いた。
「アパートの壁薄くて結構音聞こえるからよ。気をつけるんだぞ」
「何をだ!」
そして俺の返事など気にもせずがっはっはと豪快に笑いながら階段を下りていった。
くそ、将来あの小動物が思春期を迎えて『お父さんと一緒に歩くの恥ずかしい』とか言われればいいのだ。
もしそんなことになったらどうなるのか、考えるだに恐ろしいが。少なくともその現場にはいたくない。
◇
ミスターブラウンから地図と鍵束を渡され、地図に書かれたとおり歩いて数十分。本来ならもう少し早く着きそうなものだが、紅莉栖や鈴羽は勿論、まゆりとダルもついてきたので色々喋りながら歩いていたので結構な時間がたってしまった。
そして夕日に照らされたアパートは。
「……たしかにこれは、年季が入ってるわね」
「今日びエロゲの貧乏学生な主人公だってもうちょっとマシなアパートに住んでるお」
「でもでも、なんだか雰囲気があってまゆしぃは好きだなー」
「そうだよ、ちゃんと屋根も壁もあるし!」
好き勝手言われているところからわかるとおり、確かにボロアパートという言葉がふさわしい、年季の入った建物だった。
ちなみに約二名なんの参考にもならない意見を述べているが、多分それは遺伝である。未だ見ぬダルの未来の奥さんにエールを送りたい。
そう、確かにボロアパートだった。
「岡部、どうしたの?」
俺がいつになく静かなことが気になったのか、不思議そうな表情で俺の顔をのぞき込み、そう聞いてきた。
「……そんな気はしていたんだ」
「何がよ」
「そもそも道からして見覚えがあったしな」
紅莉栖の問いに一応答えてはいるものの、理解させようとはしていない。どちらかというと俺の独り言に近い言葉だったが、それでも牧瀬紅莉栖は伊達に『天才少女』と呼ばれてはいない。たとえ少ない情報であろうと、その頭脳で正解にたどり着く。
「一人でまたぶつぶつ言って。ひょっとして知ってる場所だったの?」
「ああ、その通り」
そう答えると、俺は一人で建物の脇にある古くさい階段に向かう。
二階建てで各3部屋ずつの小さなアパート。そして階段を上った先――二階の中央にある『202』とだけ記され、表札すら出てない部屋の前に立つと、何の迷いもなくその扉をノックする。
一度目は何の反応もなかったが、何度か繰り返すとやがて中で人が動く気配がした。
しかし中で動く気配はするモノのなかなか扉は開かず、やがて下にいたラボメンも不思議そうにしながらも階段を上がり、狭い廊下にずらりと並んだ。
「ここに住んでいるのは――」
そしてまるで俺の言葉にタイミングを合わせたかのように扉が開き、住人が姿を見せる。
「そう。ラボメンナンバー005、桐生萌郁だ!」
気分的にはここで一発派手なSEがほしいところだが、そんなものはないので各自の脳内で思い思いに響かせていただきたい。
「えっと……おはよう?」
「うむ、指圧師よ。この時間に『こんにちは』ならまだしも、いくらなんでも『おはよう』は無いと思うぞ」
「久しぶりにアルバイトがお休みだったから……」
「そうか」
「あの、オカリン」
「ん?」
どうやら寝起きらしい萌郁と話していたら、ダルに声をかけられた。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「なんだ、改まって。言ってみろ」
「えーとさ。オカリン、何で知ってたん?」
「何のことだ?」
「だからさ、桐生氏の家がここだって」
「……あ」
そうだった。
この世界線においてラボメンナンバー005の桐生萌郁はブラウン管工房のバイト店員ではあるが、それだけなのだ。
萌郁もバイトの合間や終わった後にラボに顔を出してそれなりに馴染んでいるとは思うが、間違っても家に遊びに行くような仲ではなく、俺がここに来たのも初めてである。少なくともこの世界線では。
「えーとだな」
「……ストーカー?」
「違うわっ!」
お前にだけは言われたくないという言葉は何とか飲み込んだ。俺も大人になったものである。
しかし俺が大人になったかどうかというのは、この世界においては誤差に過ぎないちっぽけな事象であり。
「ゆっくり説明してもらいましょうか」
そして紅莉栖にとっては全くもってどうでもいいことらしい。
「し、しかしあまり騒いでは萌郁のお隣さんに迷惑が」
「大丈夫。この前引っ越したから」
「え、あのおばさんいないのか」
そう言えばミスターブラウンも『一人しか住んでない』とか言っていた気もする。これはこの鳳凰院凶真には似つかわしくないケアレスミス――
「……岡部くん」
「ん?」
「なんで、隣がおばさんだったって知ってるの?」
「あ」
気づいたときには遅かった。
夜中にこのアパートに押しかけ、騒ぎを起こして隣に住んでいるおばさんに見とがめられたのはこの世界線ではない。あれはそう、α世界線の出来事であり――
「岡部」
「……はい」
「とりあえず正座」
「いや、さすがにここで正座したら萌郁に迷惑じゃないかと……」
「じゃあ、鍵」
「……はい」
紅莉栖に言われるままに、ミスターブラウンから預かった鍵束を手渡す。
そして俺はそのまま首根っこを捕まれて隣の203号室に引きずり込まれ。
「まゆり、萌郁に俺たちが引っ越してくることになったと――」
「わかった。伝えとくねー☆」
なんとかまゆりにそれだけ伝えるのが精一杯だった。
◇
「そもそも、なんで桐生さんとか阿万音さんは下の名前で――」
「いや、それ今関係あるか?」
その後、なんだかんだで俺が解放されたのは一時間後だったことも記しておこうと思う。
つづく
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