「ちょっと岡部、聞いてるの?」
今日も今日とて紅莉栖がきゃんきゃんと喚き――いやまあ原因については半分ぐらいは俺のせいな気もするが、もう半分は紅莉栖のせいなのでよしとしよう。何がいいのかさっぱりわからないが。
実際問題このやりとりは割と恒例であり、その証拠にラボにいるダルもまゆりも今更何か特別なリアクションを返してくることもない。
ここにいないラボメン――フェイリスやルカ子、そして萌郁がいたとしてもそれは変わらないだろう。
あの三週間の世界線漂流の末にたどり着いた、ありふれた――しかし掛け替えのない日常。それらを味わいながら俺は携帯電話を取り出し、右耳に当てる。
「俺だ。いやなに、いつものことだ。助手が(ヴヴヴヴヴヴ)おうっ!?」
そして話し始めた途端に携帯が鳴り出して超びびった。幸か不幸かマナーモードになっていたので耳元で大音量とかそういうことはなかったが、そのかわりに振動したのでびっくりした。ついでに携帯を落としそうになってしまったが、とっさに握りしめてそれだけは回避する。
慌てて周りを見回すと、ダルは机をたたいて笑っていて、さすがのまゆりもこっちを見て苦笑いしていた。紅莉栖に至っては腹を抱えて笑っている。そして俺が握りしめている携帯は「早く出ろ」とでも言いたいのか機械のように震え続けている。いや、機械だが。
「ええいくそ、誰だいったい!」
毒づきながら窓の方――というか三人の顔が見えない方向を向いて電話に出る。
「もしもし?」
苛立ちを隠しきれずと言うか隠そうという気も回らず、いかにも不機嫌そうな声で電話に出てやしまったが、向こうはそれに気づかなかったのか気づいても意に介さなかったのか喋り始めた
『もう、何やってんのよ。電話ぐらいさっさと出なさい?』
時が止まった。
いや勿論電話レンジ(仮)に続く新たな未来ガジェットがDメールやタイムリープに続く新機能で時間停止を可能にしたとかそういうことではなく、あくまで俺の主観の話だが。
ともかく電話の向こうから聞こえてきた声は予想外ではあったが聞き慣れた声であり、もう一度ラボにいる三人の様子をうかがってから窓の方へと近づき、マイクのあたりを左手で覆って俺の声が漏れないように気をつけ、簡潔に会話をすませて電話を切る。
ふぅ、と一息ついてから三人の方へと向き直ると、さすがに俺の様子が普段と違うと感じたのか、興味深げな表情でこっちを見ている。
「ふむ」
なんと答えたものかと灰色の脳細胞を高速回転しつつも電話をズボンのポケットにしまい、言葉を続け――
「おばさん?」
続けようとしたらまゆりにそう問いかけられた。
また時間が止まった。もちろん今度も俺の主観的なアレである。言うまでもないことかもしれないが。
「あー、その」
「違うの?」
「いや、違わんが」
そう、その通りである。一瞬誤魔化そうかと思ったりもしたが、まゆり相手にそれが上手くいくとは思えない。ラボ内ではマスコット的立ち位置というか基本的にアホの子だと思われがちなまゆりだが、人間観察能力に関して言えばフェイリスに次ぐほどであり――
「まゆり、よくわかったわね」
「うん。だっておばさんと話してるときのオカリンっていつもあんな感じだもん」
恐るべし幼なじみ。この鳳凰院凶真のカモフラージュスキルが一向に機能していない。いや正直すると思ってもいなかったが。
「で、どうしたの?」
「うむ。その、あれだ。本日は解散とする!」
白衣の裾をバサァッと翻してそう高らかに宣言してみたが、特に反応はなかった。強いて言えば、それそろ夕暮れ時の外からカラスの鳴き声が聞こえた。アホーとか聞こえた気がするのはきっと気のせいである。
「つまり、オカリン今日は帰るってこと?」
「まあ、そうとも言えるな」
よく考えてみればわざわざ宣言などせず普通に帰ればよかったのだが、動揺のあまり余計なことをしてしまった。明らかなミスである。そしてある意味致命的とも言えよう。
「あれあれ、狂気のマッドサイエンティストな鳳凰院さんはママが怖いんでちゅかー?」
「くっ!」
案の定めざとく俺の隙を見つけた紅莉栖がちくちくと言葉の刺で突っついてくる。ええい、素直になれない小学生女子か貴様は!
「とにかく、さらばだ! また会おうラボメンたちよ! フゥーハハハ!」
「あ、こら。待ちなさい岡部!」
せめてもの報復とばかりに脱いだ白衣を丸めて紅莉栖の方に放り投げ、視界をふさがれてもがく紅莉栖を尻目にラボから駆け出す。
俺は狂気のマッドサイエンティストであり、戦士ではないのだ。だから不要な戦いを避けるのは当然のことであり、決して逃げたわけではない。明日また顔を出したら紅莉栖にこの件でからかわれるのは火を見るより明らかだが、決して逃げているわけではない。
◇
翌日、普段より少し遅めにラボにやってきた俺を迎えたのは、まゆりとダルという我がラボにおける古参メンバー二人だった。
「オカリン、トゥットゥルー☆」
「……ああ」
いつも通りのまゆりの挨拶になんとかそう返し、ぼすんと音を立ててソファーに腰を降ろす。『降ろす』と言うより『落とす』と言う方が正しかったかもしれない。
とにかくそんな風に俺が座り力なくうつむいていると、さすがにスルーできなかったのかダルが声をかけてきた。
「どしたん? オカリンが変なのはいつものことだけど、今日はいつもと違った感じに変だお?」
「うむ」
なんだかダルからひどいことを言われた気もするが、それに対して文句をつける気もしない。そんな俺を見てさすがのダルも若干心配そうな顔を見せるが、そのまま言葉を続ける。
「……家がリフォームするらしい」
「オカリンの家、結構古かったもんねー」
そう、まゆりの言うとおり俺の家は割と年季の入った作りである。岡部青果店自体も遡れば戦前ぐらいまで遡れるらしいが、そっちについてはさして興味もなかったのでよく知らん。
「別にいいじゃん。ひょっとして仮住まいに引っ越しするのがめんどくさいとかそういう話?」
「いや、引っ越しは引っ越しなんだが」
「ん?」
ここまで説明してもまだわからないのか――そりゃまあわからないだろう。俺だって昨日はこんなことになるなんて思っていなかった。
「……一人暮らしすることになった」
「え?」
「え?」
「昨日、家に帰ってからの話なのだが――」
◇
「ただいまー」
珍しいことに店は開いていないようなので玄関から中に入り、そう呼びかけながら廊下を歩く。
急な呼び出しに若干腹が立ったりもしたものの、冷静に考えてみれば夏休みの間はほぼ毎日のようにラボに泊まり込んで――いや、この世界線ではどうだったかまだ把握し切れていないが、漏れ聞く話からするとおおむねそんな感じだったんだろう。とにかくめったに帰ってこないと思ったら急に大怪我をして一ヶ月近く入院し、退院したと思ったらまた滅多に帰ってこないのだ。そりゃ親が文句を言いたくなるのもわかる。となると少しぐらいの小言は甘んじて受け入れるべきだろう。
「倫太郎、そこ座んなさい」
「なんだよ、藪から棒に」
「いいから」
居間に座っていた母さんはそう言って自分の向かい側を指し示す。もちろん岡部家は日本家屋なので畳敷きなのでどこに座ってもかまわないのだが、ここで妙な意地を張ってもしょうがあるまい。
一応そばにあった座布団を敷いてその上に正座ではなくあぐらをかいて座ったが、それについてはどうこう言う気もないらしい。
しかし電話をかけて呼び出したのだから、用件がないはずもない。俺が腰を落ち着けるのを確認したら、早速口を開いた。
「あんた、大学の夏休みも終わってるのに全然帰ってこないで」
「悪かったって。だから帰ってきただろ?」
大学の休み自体は九月前半に終わっているわけだが、退院が余裕でそれ以降だったのでなんだか『夏休みが終わった』と言う実感がないのも事実である。とは言っても大学に行ってないわけではなく、一応それなりに顔を出しているのだが。
逆に言えば大学に通うことだけを考えれば池袋の家より秋葉原のラボの方が断然楽なのである。
おそらくこの後来るであろう『学校にはちゃんと行ってるの?』と言う問いかけに対してそんな言い訳――もとい答えを用意していたが、我が母の次の言葉は想定外の言葉だった。
「まったく、女の子連れて池袋まで来たんなら家に顔出せばいいのに」
「ちょ、おま、え、何を」
「ほら、山本さん。あそこの奥さんが、アンタが髪の長い美人といちゃつきながらハンズのあたり歩いてるの見たって」
おのれ山本さん。
そりゃまあ池袋を歩いてて池袋在住の見られたとか当然すぎる話かもしれないが、親に告げ口することはないだろう!
「彼女ができて帰ってくるのがめんどくさいとかだったら、そう言いなさいってのに」
「いや、紅莉栖は彼女とかじゃなく」
「なるほど、紅莉栖ちゃんって言うのね」
「ぐぁっ……」
さすが我が親、恐るべし。何もかもお見通しというわけか。
冷静に振り返ってみるとこれ以上ないってぐらい見事な自滅な気もするが、振り返りたくないので気にしないことにする。
「でも、ほら。なんだっけ? 秋葉原のあそこ借りる時に保証人になったのは、そういうのの都合がいい場所を用意させてやったわけじゃないんだからね?」
「そんなことはしない!」
「まあ、アンタのことだからいちゃついてるとか言っても小学生みたいに口喧嘩ばっかりしてるんだろうけど」
お見通しにもほどがあった。
確かにあの日は紅莉栖が池袋に行きたいというので一応地元民として案内することになり――まあ実際のところ行きたかったのは『池袋』などという大ざっぱなくくりではなく乙女ロード周辺なのは誰の目から見ても明らかだったのだが、本人が頑なにそれを隠そうとするのでからかっていたのだった。山本さんに見られたのはその辺だろう。ええいくそ、タイミングの悪い。
「ところで、家賃とかはちゃんと払ってるの?」
「大丈夫だよ」
「一度挨拶に行こうか?」
「大丈夫だって!」
「あんたはそれでいいかもしれないけど、大人はそうもいかないの」
「ああもう、それより用事あったんじゃないのかよ!」
ああもう、本当にめんどくさい。母さんの言い分はわからなくもないが、あの横暴なる筋肉大家ことミスターブラウンにこれ以上弱みを見せるわけにはいかないのだ。
というかこのままおとなしく話を聞いているとろくなことにならないのは火を見るより明らかなので、さっさと用件を済ませて自室に引っ込むことにする。なんだったら、そのままラボに戻ってもいい。
そんな俺のもくろみを知ってか知らずか、母さんは「ああ、そうそう」とか軽く手をたたいてから口を開いた。
「父さんと母さん、旅行に行くことになったから」
そして閉じた。
これだけってことだろうか。
俺をわざわざ電話で呼び出して――確かになかなか帰ってこない息子を連れ戻すという意味もあったのかもしれないが、これだけなのだろうか。
「……それだけ?」
「『それだけ』って何よ。他に言うことないの?」
思わず聞き返してみたが、それだけだったらしい。母さんは心外そうな顔をしているが、果たしてなんと言ったものやら。
「はあ。いってらっしゃい」
「そうやって他人事みたいに」
「いやだって、他人事だしなあ……」
うちの両親は夫婦仲も良好で近所のおばちゃんたちに「倫太郎くんもお父さん見習わなきゃだめよ?」などとコメントに困る発言をさせるぐらいであり、夫婦旅行にも割と行く。
なので別に今更驚くこともない。
「ついて来いっていう訳じゃないんだろ?」
「何、夫婦水入らずの旅行をじゃまする気?」
「いや、しないってそんなこと。あ、それじゃあひょっとして俺に店番してろって」
「あ、それはいいわ」
「ならいいけど。何日ぐらい?」
「三ヶ月」
「……え?」
「正確に言うと、九十七日だったかしら」
「……はい?」
◇
「なんか『豪華客船で行く世界一周旅行が当たった』って……」
聞くだに怪しげな話だったが、チケットやパンフレットを見せてもらった――より正確には見せびらかされたのでネットでそれなりに調べてみたが、特に怪しいところもない定番のツアー会社みたいな感じだった。というか世界一周旅行に定番ツアーとか存在しているのを初めて知った。おのれセレブめ。
「ああ。それで店閉めるついでにリフォームするから、オカリンは一人暮らししろってことなん?」
「そうだ。一応家賃とかは出してくれるらしいが、今週中に部屋見つけろって……」
今更改まって言うことでもないかもしれないが、俺は実家住まいである。そして幸いなことに高校大学とも自宅から通える距離の学校なので自宅から出る必要はなく、よって一人暮らしの経験はない。ついでにいうと両親の仕事も八百屋なので引っ越しの経験もない。
確かに親元を離れて一人暮らしというのには憧れるし、このラボを借りているのにもそういう意味合いがあったことを否定はしない。
だからといって話が急すぎるだろう。今週中って、土日までと考えてもあと四日である。話が急すぎるにも程がある。
ちなみにそう文句を言ったら「『そのうち帰る』とか言って全然帰ってこないアンタが悪い」とか言われた。全くもって返す言葉もない。
「このラボじゃだめなの?」
「うむ、それは最終手段だな……」
実質ここに住んでいるようなものだとはいえ、本格的にここに住もうと思ったら家具を持ち込む必要が出てくるし、ラボ内の配置を色々換える必要があるだろう。個人的にそれは避けたい。
「でも、オカリン個人のじゃなくおじさんおばさんが使ってる家具とかはどうするん?」
「それはなんか倉庫借りて入れるとか言ってたな……。俺の不要物も置いていいらしいが」
というか、不要物もとっとと仕分けしなきゃいけないのか。ああ、気が重い。
そんなことを考え頭を抱えていると、ギギギというきしみ音を立ててラボが扉を開いた。
そっちの方に目をやると、扉の陰からずるずると足を引きずるようにしながら女が入ってくる。
「……紅莉栖?」
そう、紅莉栖だった。その生気のない足取りから一瞬萌郁と見間違えそうになったが、よく見るまでもなく紅莉栖だった。
「クリスちゃん、どうしたの?」
まゆりにそう声をかけられた紅莉栖の表情は明らかに憔悴しており、ひょっとしたら一睡もしてないのではないかという疲弊具合だった。
そして紅莉栖はよろよろと歩き、俺の座っているソファーの横にぼすんと腰を落とす。
座って初めて俺が隣にいることに気づいたのか、俺の方を見て一瞬驚いたようなそぶりを見せたが、『そんなこと気にしている場合じゃない』とでも言うかのように視線を落とすと深々とため息をついた。くそ、無視されたみたいでなんだか腹が立つ。
しかしそんな俺の苛立ちをよそに、紅莉栖は重々しくその口を開いた。
「……一人暮らしすることになった」
「て、牧瀬氏今までだってホテルで一人暮らしだったじゃん」
「短期間ならそれでよかったんだけど……」
「ひょっとしてクリスちゃんもお引っ越しすることになったの?」
「ええ、そう……って、『も』?」
「オカリンも一人暮らしするからお引っ越しなんだよ」
「え、そうなの?」
まゆりの言葉を聞いた紅莉栖が驚いてこっちを見る。ソファーの隣なので思いの外近くて一瞬どきっとしたがそんな場合でもない。
「ああ。親が長期間旅行に行くついでに家をリフォームすることになってな」
「……そうなんだ」
「お前の方はどうしたのだ。帰国は取りやめになったのか?」
「う、うん。実は昨日――」
◇
「ハロー、ママ」
久しぶりの国際電話。前の電話は岡部と再会できたことを報告した時なので半月ぐらい前だろうか。そこそこの頻度でメールはしあっているけど、月に一度ぐらいは向こうから電話がかかってくる。電話代も正直馬鹿にならないと思うんだけど、『たまには直にお話ししないと』ということで、私もその気持ちはよくわかるので習慣になっている。とは言っても今までとは違ってアメリカと日本の国際電話なので、さすがにちょっと考えるべきかとは思うけど。
『ハロウ、紅莉栖。日本はどう? 満喫してる?』
「うん、それなりに」
『よかった。紅莉栖ったら誰に似たのか友達作るの下手くそだから心配してたのよ』
「もう、ママ!」
電話口の向こうのママはどうやら元気そうだった。
確かに私は友達を作るのが得意な方ではなく、ママが気にしていたのは知っている。だからといって楽しそうにからかってくるのはやめてほしいんだけど――
『それで、岡部くん……だっけ? 彼とは最近どうなの?』
「どどどどどど、どうって」
それどころではなかった。なんだろう、数千キロ離れているママの楽しそうな表情が目に浮かぶ。そしてそういう時のママは止まらないのだ。
『え? 好きなんでしょ?』
「ちょ、おま」
『……紅莉栖ちゃん。ママ、娘の趣味にあんまり口出しする気はないけど@ちゃんねるはそれなりにしておいた方がいいと思うの』
「いや、だから」
『紅莉栖ちゃんが重度のねらーだってバレたらその岡部くんにも嫌われちゃうわよ?』
「……」
『紅莉栖ちゃん?』
「もう、とっくに……」
『ばれてるの?』
「うん」
『ちなみに岡部くんの反応は?』
「たまにからかわれるけど、それくらいで……」
『あら、よくできた子じゃない』
ママが岡部を褒めてくれるというのが嬉しいことは事実なんだけど、こんなことで褒められても困るというか。
いや確かにあの日ラジオ会館で命を助けてもらって、帰国予定が迫っていたけどママに『探したい人がいるの』と連絡をして色々調整してもらい、あの日再会してからも帰国の予定をずるずる引き延ばし。ついついメールであれこれと脚色しつつ報告したけれど。
『それじゃ、荷物とかどこに送ればいいのか教えてね』
「荷物って?」
『紅莉栖ちゃんの生活用品』
「いや、別に足りてるけど……」
『え? 日本に定住するんじゃないの?』
「どうしてそうなるの!?」
我が母親ながらノンストップ過ぎた。
なんだろう、ちょっと気を抜いて岡部やラボのみんなと過ごしている間に状況がすごく進展してる気がする。主にママの脳内で。
『岡部くんのそばから離れちゃ駄目よ』
「いや別に今は離れてもメールとかskypeとかあるし」
『遠距離恋愛とかうまくいかないから絶対』
「でも」
『ママとパパみたいになるわよ』
抜群の破壊力過ぎた。反則級だった。
いや、いろんな意味でなんとコメントすればいいのやら。
『とにかく。研究は一段落してるんでしょ?』
「うん。一応……」
『それとも岡部くんはライバルなんて欠片もいない、どフリーな子なの?』
「いや、全然……」
幼なじみのまゆりを筆頭にフェイリスさんに桐生さん、さらには漆原さん。最後のは勘ぐりすぎだと思いたいんだけど、実は一番危険度が高いんじゃないかと思えてしょうがない。
『よし、それじゃあ話は決まりね!』
「いや、ちょ――」
そして娘の反論を聞くことなく、通話は一方的にぶち切られたのであった。
◇
「――なんて言えるかあっ!」
「どうしたのだ。考え込んだと思ったら急に」
「五月蠅い、なんでもないから! ともかく私もしばらく日本に住むことになったから!」
「わーい、じゃあクリスちゃんのおうちも一緒に探さないとねー」
説明を始めたと思ったらいきなり黙って考え込み、次の瞬間怒られた。目の前にちゃぶ台があったらひっくり返しそうな勢いだった。まゆりはそんなこと気にせず紅莉栖の手を取って大喜びしているが。
「ダルよ、ここは俺が怒るべきとこだと思うのだが」
「ぼくにもよくわからないけど、とりあえずオカリンに『リア充爆発しろ』って言っとけば間違いない気がするお」
いや、言われても。
この状況をどうしたものかと色々考えていると、まゆりが何か閃いたような顔をして口を開いた。
「そうだ、オカリンと紅莉栖ちゃんが一緒に住めばいいんじゃないのかな」
すさまじい爆弾発言だった。
「ちょ」
「何を」
「るーむしぇあっていうやつ? フブキちゃんもお友達と始めたけど、家賃とか光熱費が半分で済むから便利なんだって」
「そのフブキちゃんとやらは同性の友達と住んでるんだろ?」
「ううん、男の子」
「えっ」
まゆりよ、それは多分世間一般で言う『ルームシェア』とは意味合いが違うと思うぞ。もちろんその可能性もゼロではないと思うが、限りなく低いだろう。
「だからオカリンと紅莉栖ちゃんも」
「その考えはおかしい」
「嫌なの?」
「いや、そういうことはないが」
嫌か嫌じゃないかと聞かれれば確かに嫌ではなく、ルームシェアすれば家賃をはじめとして光熱費その他も折半になるし家事も――まあ家事に関しては紅莉栖に任せると俺の命が危ない気がするのでそこは俺が――って違う! 何を真面目に検討しているのだ俺は!
「紅莉栖、お前からも何か言ってやれ!」
「えっ、岡部――」
「ん?」
紅莉栖が変な顔をしていた。正確に言うと俺の方を見て驚いて、何か言いたいけど言葉にならないようで口をぱくぱくさせ、その頬はなぜか真っ赤に染まっていて――
「わぁ、オカリン。早速クリスちゃんを下の名前で」
「うあ。違う、違うのだ! つい!」
言われて気づいた。つい癖で――あの世界線漂流の時の呼び名は出さないように気をつけていたのだが、動揺のあまりぽろっと。
そして俺に下の名前で呼ばれて紅莉栖はなんだかもじもじとしていて可愛――
「やっぱりさっきの『リア充爆発しろ』という僕の言葉は間違ってなかったお」
「ええい、五月蠅い! この鳳凰院凶真は多忙なのだ! 俺はラボより離脱するので、これより各自個別の判断で動くように!」
ダルのつっこみのおかげで何とか立ち直った俺は、慌てて鳳凰院凶真モードでそう告げると返事を聞かずにラボから駆け出した。
「あ、オカリン。逃げちゃだめだよー」
「フゥーハハハ! さらばだラボメンたちよ!」
呼び止めるまゆりの声など気にもせず。
もう戦略的撤退がどうこうとか考える余裕もなくダッシュで逃げたのだった。
◇
ラボから脱出して、何事か声をかけてきたミスターブラウンをあしらってあてもなく走り――途中で疲れたので歩いていたが、ふと気づくと駅前にいた。
いつもならこういう場合メイクイーンに逃げ込むところだが、まゆりから逃げる場合はその手段は使えない。というかそもそも徒歩三分の場所にある店に逃げ込んでどうなるわけでもないが、紅莉栖やミスターブラウンの追跡を回避するには好都合なのだ。二人ともあの店には入って来づらいようだし。
ミスターブラウンはともかく紅莉栖があの店に興味を持っていることはラボメンならば全員が知っているであろう事実なのだが、本人は未だにひた隠しに隠せているつもりである。いい加減諦めろと言いたい。
さておき、秋葉原駅電気街口である。ヨドバシカメラができたあたりから昭和通り口方面を使う機会も増えたとはいえ、やはり『秋葉原』と言われて真っ先に思いつくのはこちらである。
勿論我がラボ、未来ガジェット研究所に向かうために都合がいいということもあるのだが、それだけではない。
電気街口の側には、UPXとは違う意味で秋葉原の象徴ともいえる建物が存在している。秋葉原に来ていてそのビルの名前を知らない人間というのは少ないだろう。
そう、ラジオ会館だ。
このビルの前に立つたびに、このビルであった様々なこと――巡り歩いた無数の世界線での出来事を思い返す。俺の望む未来を掴み取るために犠牲にしてきた様々な思い。それを忘れることは決して許されない。だから全ての始まりとなったこのビルの前に立つたびに、視線を上に向ける。
当然そこにはビルの壁面を破壊しめりこんでいる人工衛星なんて存在しないし、屋上にもなにも――
「……え?」
いつものように屋上を見上げると同時に、ズゥンという鈍い音と震動が走った。
周囲の人々が『地震?』『爆発?』と口々に言いながら落ち着かない様子で周囲を見回している中、俺はラジオ会館屋上から目を離せなかった。
とは言ってみても、ラジオ会館は八階建てのビルである。下から見上げたところで屋上にあるものが見えるはずはない。だが俺が、あの光を見間違えるわけがない。
先ほどの鈍い音――爆発音にも聞こえるその音とそれに伴う震動、そして閃光。
上を見上げていた奇特な人間は俺しかいなかったのかその光に気づいた人間はいなかったようだが、そんなことはどうでもいい。俺は即座にビルの中に入った。
そして迷わずエレベーターへと向かったが、ボタンを連打してみてもなかなか降りてこない。逸る気持ちは押さえきれず、エレベーターを諦め階段を駆け上がる。鍛えていないどころか運動不足な体は悲鳴を上げるし息苦しいけど、それでも足は止まらない。
フィギュアやガレージキット、電子部品やトレーディングカードという本当に様々な店が並ぶフロアを駆け抜け、普段使う機会の少ない貸しホールや事務所のある八階も無視して、屋上に。
そして扉を開けると、さっきの光を発した物体がそこにはあった。
一見すると人工衛星に見えるもの――しかし俺にはわかる。あれは人工衛星なんかじゃない。
その証拠に『C205』と記されたプレートの横が開き、中から現れた人物は。
「あれ、オカリンおじさん……はじめまして、でいいのかな」
ラボメンナンバー008、バイト戦士こと阿万音鈴羽その人だった。
つづく
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