Viaggiare di graduazione

「打ち上げをしよー!」
 演奏を終えてへとへとなはずなのに、そんなことは意にも介さずユニはそう言った。
 言ったというか半ば叫んだ。
 まだ演奏前の人たちに睨まれた。
 ひとしきり謝った後に控え室の隅の方に固まり、三人でユニの言うことを聞く事にした。
「……で、なんだって?」
「うん。だから打ち上げ」
 聞き返してみたが、ユニの言うことはかわらない。
 いやまあ、ここで空気を読んで『後でいいです』とか言いだすようなユニではない。
 それは俺もスーファも、そしてシャルだってわかっているのでその手で軽く頭を抑え、気を取り直すように頭を振ってからシャルはユニに語りかける。
 そう、やんちゃな子供に教え諭す母親のように。
「いい? ユニ。まだ結果発表もされてないどころか、演奏終わってない組までいるのに気が早い」
「そんなの関係ないよ。みんな頑張ったんだからお疲れ様ってことで。ね?」
「ね、じゃないでしょ……」
 そしてやんちゃな子供は大抵母親の言うことを聞かない。
 いやまあシャルとユニの身長から見るとどう間違っても母親には見えないわけだが。
 そんなことを思っている間もシャルの説得は続くが、ユニが諦めることは無い。
 そう言えばユニが誰かに言い負かされてるとこって見たことない気がする。
 実はユニって凄い奴なんじゃないか?
 その後数分の間行われたシャルの説得はことごとく空振りに終わり、さすがに疲れたのかぜーぜーと荒い息をついている。
 ちなみにユニは全然平気。
 まあ、シャルは興奮気味にまくしたてていたけど、ユニはいつも通りほわほわと受け答えしていただけだしなあ。
 やっぱり凄いな、ユニ。あれは俺たちには真似できない、ユニが今までの人生で身につけた固有スキルと言っても間違いではあるまい。
 もし俺がアレを真似したとしたら、間違いなくシャルのアッパーカットで沈められることになるだろう。
 まあでもそんな風にシャルをからかうのは楽しいので一度試してみるといいかも、とか思っていたらシャルに睨みつけられた。
 まさか俺の考えが――
「フィル、あなたからも何か言ってやって!」
 読まれたわけでは無いらしい。
「へ? 俺?」
「そう、あなたよあなた! 他人事みたいな顔をしてないで!」
 まさかこっちに振ってくるとは思わなかったので、何だか間抜けに聞き返してみたがシャルは変わらず俺を睨みつけ、あまつさえ指先からなんか出そうな勢いで俺の向かって指差してきた。
 念のためにスーファの方を見てみるが、スーファは俺の隣に座っているので角度があっていない。
 ふむ。これは間違いなく、シャルは俺を指名しているらしい。
 そんなことを考えているとシャルは早くしなさいよ、とか言いつつこっちを睨みつけてくる。
 このまま放っとくと地団駄踏み出しそうでちょっぴり愉快だが、その場合直後に高確率でアッパーカットが飛んでくる上に気づいてみると周囲の面々――俺たち以外の演奏者達が興味深そうにこっちを見ているのでそろそろ限界だろう。
 そんなわけで俺は席を立ち、ユニの前につかつかと歩いていく。
「ユニ」
「なにかな?」
 大輪の花のような笑顔を浮かべるユニを前に、俺は少し考える。
 ちらりとシャルの方を見てみるが、シャルは『早くなんとか言いなさいよ!』といわんばかりにこっちを睨みつけるだけである。
 まあ、そういうことならしょうがない。
 俺は俺の思う通り――
「いいねそれ」
「でしょ?」
「何でよっ!」
 思う通り言ってみたらユニは喜んでシャルは切れた。
 こうなると思ったから一回様子を見たというのに、それで切れるとは勝手な奴だ。
「いやだって演奏終わったんだし。打ち上げするのはおかしくないだろ?」
「でもまだ結果が出てないじゃない」
「大丈夫だよ。今回のは会心の出来だったし、シャルだってそうだろう?」
「まあ、確かにそうだけど……」
 俺にそう言われて、シャルの勢いも段々と弱くなっていく。
 シャルだって、『打ち上げをしよう』というユニの提案自体に文句があるわけではない。
 さっきシャルが言ったとおり、まだ結果も出てないし演奏してない組すらあるのに控え室でこういう話をすることに気が引けているだけだ。
 まあその気持ちもわからなくは無いけど、演奏が改心の出来だったことも事実だし、楽しそうにしているユニの気分をわざわざ沈めることも無いだろう。
 チラッと後ろを振り向くと、スーファは俺を応援するかのように、にっこりと微笑んでくれている。
 それなら俺に迷いはない。
 俺はクラリサ先生にバイオリンの腕を買われて、そしてこのカルテットのまとめ役としてスカウトされたのだ。
 こういう時こそ俺の出番というものだろう。
 そんなわけで俺はシャルの両肩に手を置いて、我が子に言い聞かせる父親のように落ちついた声で語りかける。
「それに、あれだけやって駄目ならもう駄目だよ。あははっ!」
「あんたは一言多いのよ!」
 真下から俺のあごを打ち抜くいいアッパーが炸裂した。
 父親は子供に打ち倒された。ドメスティックバイオレンス。
「……はぁ。まあいいわ。わたしもやること自体に反対する気はないし、何か考えましょう」
「やったね! さすが先輩!」
「だからそんなに騒がないの。スーファもいいのよね?」
「うん。私も楽しみ」
「じゃあ、実際の内容はまかせといて!」
 話がまとまると、待ってましたとばかりにユニが手を上げて主張する。
 誰がどう見てもやる気に満ち溢れているユニの提案を断るものなどいるわけもなく、シャルの「じゃあ、お願いね」という言葉でこの問題は解決した。
 ユニは楽しそうにニコニコ笑い、スーファも静かに微笑んでいる。さっきまで色々言っていたシャルだって、笑顔を隠し切れずにいる。
 皆笑顔でいることは、いいことだ。
 いつも笑っているわけには行かないけれど、できることなら泣き顔よりも笑顔でいたい。




「そんなわけで、そろそろ僕も助け起こしてくれるとありがたいんですが」
「あんたはもう少し寝てなさい!」
「いや、周りの人たちの目が痛くなってきましたし……」
 結局、シャルの怒りが収まってスーファに助け起こしてもらえたのは五分後だった。
 でもまあ、俺の犠牲だけで丸く収まって打ち上げをやることになったのはいいことだし楽しみだ。
「じゃあユニ、よろしくたのむな」
「まかせといてっ!」
 俺の言葉に、ユニは元気にそう答える。
 この調子なら、ユニは多分全身全霊をもって打ち上げを企画するだろう。
 まあ確かに、こういうことを企画するならユニが適任だ。
 シャルやスーファじゃ考え込んでしまって全然決まらないだろうし、俺はというとそういうものに参加したことはあるけど企画したことは無い。
 ユニにそういう経験があるのかどうかは話からないけれど、ユニなら楽しいものにしてくれそうな気がする。
 後は当日を楽しみに待つだけだ。





 まあ、ユニに任せて不安が無かったといえば、嘘になる。
 言い出したときのことを見ればわかるだろうけど、ユニはいつだって唐突に俺たちの思いもつかないことをしてくれる。
 でもまさか。
「到着―」
 まさかユニの言う打ち上げが旅行なんて。
 いや、それぐらいは予想していたけど。
「では皆さん。お荷物は執事たちが部屋の方に運びますので、食事までの間は応接でおくつろぎください」
 まさか旅行先が国外だとは思わなかった。
 そう、ここはドイツ。
 シュトルツェンベルグ家の――つまり、ジゼルの家の別荘である。




 コンクールが終わって三日後、コンクールが終わった翌日は観光の真似事をして次の日は家に帰ってきたのでその翌日。
 さすがに疲れて惰眠をむさぼりまくっていた俺は、携帯の着信音で叩き起こされた。
 寝ぼけた頭で電話に出て、まあ予想通り電話の向こうにいたユニに言われたとおりにレッスン室に――まあ突然の話だったので多少の遅刻は多めに見てもらうとして――行った俺を待っていたのはユニとシャルとスーファ、それに加えてメイとシニーナとジゼルまでいた。ちなみにシャルとメイとシニーナはなんだか疲弊したような表情をしている。
 疲弊したようなと言うか、あれは明らかに疲弊しているな。普段だったら遅刻して入ってきた俺にシャルとメイの最強コンビから容赦のない罵倒の嵐がっていうか、だからどうしてここにメイたちが?
「フィル君、お悩みだね?」
「ああ、まあ」
 俺が悩んでいるのがそんなに楽しいのか、ユニはすこぶる笑顔でくるくる回りながら俺の方に寄ってきた。そして何だかいつにもましてぼーっとした目で俺をみつめて、言葉を続けた。
「なんと、メイちゃんとシニーナさん、そしてジゼルさんもぼくたちと一緒に打ち上げ旅行に参加することになったのですー!」
 高らかにそう宣言した後、どんどんぱふぱふー、と自分の口で言ってぱちぱちと拍手をする。うん。いつになくハイだ。
「ていうか打ち上げ旅行?」
「フィル君、旅行は嫌い?」
「いやそんなことは無いけど……」
「それはよかった!」
 声の方に振り向いてみれば、そこにはハンカチで軽く目を押さえて感激したようなジゼルの姿。
「ここでまさかフィルさまが『旅行が嫌だ』などとおっしゃられたら、わたくしはどうしたらいいのかわからなくなってしまうところでしたわ!」
「言ったでしょ。フィル君はそんな酷いことを言う人じゃないって!」
「ええ、そうでしたわね。ありがとうございます、ユニさん!」
「どういたしまして、ジゼルさん!」
 がっし、と。
 女性同士が抱き合うにしては何だか不釣合いな擬音をたてて二人は熱く抱き合った。
「――フィル」
「あ、ああ。スーファ。ごめん、ちょっと圧倒されて」
 どうやらまだ続くらしい二人の寸劇はさておいて、スーファの方に向き直る。
 アレに付き合っていてはいけない。アレに巻き込まれるときっとボロボロになる。例えばそのへんで疲弊しきっているシャルとメイとシニーナのように。
「で、なんだって?」
「うん。さっきユニが言っていた旅行の話なんだけど」
「スーファは知ってるのか?」
「うん。私は今朝ジゼルの家で聞いたから」
「ああ、そうか」
 そういやスーファはまだジゼルの家に厄介になってるんだった。コンクールも終わってあの爺さんも大人しくなったらしいから、そろそろジゼルの家を出ようと言う話にはなっているんだけど。
「で、なんだって?」
「昨日の夜にユニから電話があったらしくて、それで『皆で打ち上げ旅行に行きましょう』って」
 そんでもってその話題が盛り上がって、二人で徹夜して打ち合わせをしていたらしい。
 道理であんな状態になるわけだ。
「で、どこに行くって?」
「ジゼルの別荘だって」
「あー、なるほど」
 まあ、妥当な線だろう。ジゼルの別荘を使わせてもらえるなら金もそんなにかからないだろうし――
「ドイツの」
「……はい?」
 スーファの口から何だか信じられない単語が出たので聞き返してみたが、スーファは申し訳なさそうに微笑んで同じ言葉を繰り返した。
「ジゼルの別荘に一週間だって。――ドイツの」
「……はい?」




 そんなわけで俺たちは全員揃ってここ数日ジゼルの別荘にお邪魔しているわけである。
 スーファの言葉に嘘はなく、俺たちが案内された別荘はドイツ郊外の別荘地だった。
 ちなみに、旅費とか宿泊費は全てジゼルもちである。
 しかもこの場合の『ジゼルもち』と言うのは『ジゼルの家がもってくれた』というわけではなく、本当にジゼル・シュトルツェンベルグ本人がポケットマネーで払ってくれた。
 恐るべし、本物の金持ち。
 ついでに言うと、この別荘もジゼル個人の持ち物らしい。
 本当に恐るべし、リアル・ブルジョワジー。
 ちなみに俺はと言うと、別荘どうこういうよりそもそも優雅にドイツ旅行なんぞできるような金すら無い。
 俺は特待生なので免除されているが、本来ならマグノリア音楽院の入学金は勿論毎月の授業料どころか教材費すら払えないんだぞコノヤロウ。言っていて悲しくなってきたが。
 まあさておき、そんな俺にしてみると、こんな機会でもなければ生涯縁が無かったと断言できるぐらい立派な別荘だった。
「フィルさま、何かご不満な点でもございまして?」
「いやいや、そんなことないですよ?」
「でしたらよろしいのですけれど」
 自室で一人ボーっとしているところに問いかけられると、思わず敬語で答えたくなるぐらい立派だった。
 いや、建物自体はまあちょっと立派なぐらい――とは言っても俺のうちなんかとは比べてみると格段に立派なあたり悲しくなってくるが――なのだが、敷地が。
 到着したときに軽く案内して貰ったが、やたらめったら広かった。
 庭が広いのはまあいいとして、裏に私有林まである別荘ってどうよ。
「もし興味がおありでしたら、狩りを楽しんでいただくこともできますが」
「いえ、結構です……」
 いつの間にか俺の横でライフルとハンチング帽を用意して控えている執事のおっさんの方を横目で見ながらそう答える。
 しかし俺のそんな態度が気に入らないのか、ジゼルはいつものように芝居がかった動作で嘆き悲しんでから口を開く。
「フィルさま。確かにここはわたくしの別荘ですが、今はコンクールの打ち上げと、そして何よりフィルさまたちのカルテットの上位入賞をお祝いするためのものなのです。それなのにフィルさまが遠慮なさっていては意味がありません」
 ですから、さあ。と続けると、ジゼルは俺の答えを待っている。
 ああ、そうか。
 そう言われて振り返ってみると、皆いっしょにいる時もジゼルは何だか一歩引いていてくれたような気がする。多分。
 そういうことなら俺も遠慮はやめよう。
「じゃあ、ひとつお願いしてもいいかな」
 そう言うと、ジゼルは待っていましたとでも言わんばかりににこりと微笑んだ。
「わたくしにできることでしたら」
 そう言ってくれると助かる。
 俺もジゼルの笑顔に応えるようににこりと笑い、
「夜、一人で寝るのが寂しいので」
「ダメです」
 最後まで言うことすら許してもらえなかった。
「いやせめて最後まで」
「いいえ、皆までおっしゃらないでください。確かにフィルさまとスーファさん、愛し合う二人を引き離すのは野暮というものなのかもしれませんが」
「いやそうじゃなくてですね?」
 このまま放っておくと限りなく暴走しそうだったので、引き止める。
 まあ確かにジゼルの言うこともその通りなのだが、さすがにそこまでは求めてはいない。いや、勿論それを許してくれるのならそれ以上のことはないが、さすがにそれはやりすぎだろう。
「ただちょっと寝る前に、そちらの女性陣の部屋に行ってお話に混ぜて――」
「ダメです」
 今度も最後まで言わせてもらえなかった。
「いやだから、せめて最後まで」
「フィルさまのお気持ちは痛すぎるほどよくわかります。しかしパジャマパーティーは乙女のたしなみ。そこに男性を混ぜるわけには参りません。やはり旅行の夜は男女別々に分かれて会話を楽しむと言うのが――」
「いや、男女別にわかれちゃうと僕一人になってしまうんですが……」
 今回の旅行にハンスは来てないから。
 あいつはコンクールに前後して入ったオーケストラの仕事とその準備が忙しいらしい。
 一応この旅行の話はしてみたんだが、返答はやっぱり『行けない』とのこと。
 『せめて一週間前ぐらいに言ってくれれば』とも言っていたが、それについては俺も全く同意である。いくらジゼルの別荘を使うとは言っても、仮にも国外への旅行の日程発表が前々日ってどうよ。
 まあ今更そんなことを言っても始まらないのでその件については置いておくが、俺の言葉を聞いたジゼルは少し悩んだあと、何か閃いたのか「そうですわ」などと呟きつつ一人うなずいている。
「えーと?」
「それでは、フィルさまのところには執事たちを」
「いえ、一人で寝させていただきます」
 最後まで言わせなかった。
 視界の隅に何だか残念そうな執事のおっさんの表情は気のせいということで。
 そんなわけで、今日も広い部屋に俺一人。
 そっち方面には疎い俺でもなんとなくわかる高級そうな家具と調度品、そして上等のベッドが置かれた部屋。
 でも俺は一人。
 窓の外は別荘の裏手にある林や湖が見え、ロケーションも抜群。
 でも俺は一人。
 窓を開けると、少し肌寒いけど都会では感じることの出来ない気持ちのいい空気。
 でも俺は一人。
 少し開けてあるドアからは女性陣の部屋から楽しそうな会話がもれ聞こえる。
 ちなみに女性陣は大部屋にベッドを並べて寝ている。
 部屋が足りないとか言うわけではないが、ジゼルとユニ曰く旅行の醍醐味らしい。
 昼間はああ言われたけど、さっきこっそり行ってみようと思ったらメイに見つかって睨まれた。即逃げた。超怖かった。
 そんなわけで俺は一人である。
 繰り返すうちに段々寂しくなってきた。
 でも泣かない。だって男の子なんだから。
 まあ別に夜更かししなきゃいけないわけでもないし、暖かい布団に車って寝てしまってもいいのだが。
 内装の豪華さもさることながら、造りもしっかりしているこの別荘なら、ドアをきっちり閉めてしまえば室外の音はほとんど聞こえてこない。
 だからドアをきっちり閉めきって、なんなら執事の人に頼んで寝酒の一杯も飲んでベッドに横になればすくに眠れると思う。
 でもそれって何だか負け犬っぽいよなあ。
 そんなことを考えてボーっとしている間も、女性陣の部屋からは楽しそうな笑い声などが聞こえてくる。声が聞こえてくるんだから、ドア閉めてないのかなあ。
 ドア閉めてきってないなら、さも偶然通りかかっただけですよって言うことで言ってみたら中入れてくれないかなあ。
 シャルとメイの攻撃さえ何とか耐え切れば、ユニやシニーナ、それにスーファだったら中に入れてくれ――
 コン、コン。
「はいすみません部屋で大人しく寝てます!」
 不埒なことを考えているジャストタイミングでノックされたので、即座に謝って布団に包まって静かにした。
 例えて言うなら修学旅行で消灯時間後に教師がやってきた時のように。
 そのまましばらく息を潜めているが、何の反応もない。時計の秒針が時を刻むチクタクと言う音が響くのみである。
 つうか、よく考えたらノックされたぐらいで布団に包まってガタガタ震えながら謝らなきゃいかんのか。
 よし。
 気を取り直してドアの向こうに返事をしてみることにする。
「……はい?」
 ちょっと腰が引けていたが。
 そしてそのまま少し――多分実際には数秒だったと思うんだが、時間が経ってから扉の向こうからは小さく、でもはっきりと、俺が聞き間違えるわけの無い声が聞こえてきた。
「――私」
「スーファ?」
 予想だにしなかった声に驚き一瞬呆然としていると、スーファは何だか不安そうに言葉を続けた。
「入っても、いい?」
「そりゃもちろん!」
 そう答えるのと同時に布団を跳ね除けベッドから飛び起き、即座に扉の前に駆け寄ってスーファを招き入れる。
「こんばんは、スーファ」
「うん。こんばんは、フィル」
 そう言ってスーファは、俺の大好きな笑顔を浮かべてくれた。





 そして、俺とスーファは色々な話をした。
 俺の話、スーファの話、みんなの話。
 今までの話、この旅行中の話、そしてこれからの話。
 なんだか、久しぶりな気がする。
 いや、実際にはそんなことはない。今日の昼間も皆で連れ立って街の方にいったし、皆揃って夕食も食べた。
 夕食後、部屋に戻るまではリビングでカードゲームにいそしんだ。
 そう言う意味から言うと、スーファといっしょにいなかった日はほとんど無いといってもいい。
 でも、二人きりになれるのは。
 他に誰もいない状態で何の気兼ねもなく二人出いることが出来たのは、本当に久しぶりな気がする。
 コンクールが終わって、観光をして、家に帰って次の日呼び出されて、あわただしく準備をして出発。そしてドイツに到着して今日に至る。
 ……まあ、それでも一週間経つか経たないかと言うところだけど。
 それでも、二人でいられることは嬉しかったし、楽しかった。
 でも、楽しい時間はすぐに過ぎ去る。
 ボォーン、ボォーン、ボォーン……
 ホールに置かれていた年代ものの柱時計が時を告げる鐘をきっちり十二回鳴らし、やがて静かになる。
 夜の十二時。
 学院の旅行と言うわけではないので特に就寝時間なんていうものは無いけれど、さすがにもう限界だろう。
 なんとなく二人とも言葉を失い、部屋の中には時計の秒針が時を刻む音しか聞こえない。
 十二時の鐘が鳴り、シンデレラは帰って行ってしまう。
 王子様なんて柄じゃないけど、だからと言ってシンデレラを困らせるわけにもいかない。
 ていうかこのまま一緒にいると、シャルとメイあたりが文字通り殴りこんできそうだ。
 残念だけど、これが最後の機会ってことも無いだろう。
「スーファ。そろそろ……」
 そう言って立ち上がり、スーファのほうに手を差し伸べる。
 後はスーファの手を取って、部屋までエスコートさせてもらおう。
 それぐらいはやったってバチはあたらないはずだ。
 ユニやシニーナあたりにはからかわれそうな気もするけど、それぐらいは我慢しよう。そんなことを決めてスーファの前でじっと待っているが、いつまでたっても立ち上がる気配はない。
「……スーファ?」
 不思議に思って声をかけてみるが、返事はない。スーファは少し俯き、さっきまでと変わらず椅子に腰掛けたままでいる。
「スーファ、ひょっとして体調が悪かったり――」
「ううん」
 もしかして、と思って聞いてみたけど、違うらしい。
 スーファは辛いことがあっても我慢しちゃうタイプだから、ひょっとしてと言うことがあるかとも思ったんだけど。
 また部屋には静寂が訪れ、時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。
 ……どうしよう。
 今この場で誰もいないから告白するが、実はこの俺、フィル・ユンハースは女性と付き合った経験というものが無い。いや、無いと言うと嘘になるか。実際今はスーファと付き合っているわけだし。
 いや問題はそこではなく。まあとりあえずそんなわけで、最近俺の周りには女性が多い気がするのだけども、だからと言ってこういう時にスマートに対応できるわけでは無いと言うかぶっちゃけ困る。
 そんなことを考えつつおろおろとしていると、少ししてスーファは顔を上げてくれた。
 そしてそのまま、何か決意を固めた表情でまっすぐ俺を見つめる。
「フィル」
「は、はい」
 真剣な口調に押されて、こっちも何だか緊張して返事をする。
 ごく、と唾を飲み込む音が聞こえたのは俺なのかそれともスーファなのか。
 何だか張り詰めた空気の中、スーファはゆっくりと口を開く。そして静かだけどはっきりと声を出した。
「一緒に……寝ちゃ、駄目?」
 時が、止まった。
 いや勿論実際に止まった訳ではなく、時計の秒針は変わらずチクタク言ってるし、スーファは俺の方を見つめたままでいて、時々まばたきをしている。
 まあつまり止まったのは俺だけなんだが。
 えーと、なんだ。
 スーファが、俺と、いっしょに寝る?
「……駄目?」
「もも勿論オッケーですよ!」
 不安そうにもう一度聞いてくるスーファに何とかそう返した。多少噛んでしまったのはしょうがない。さすがに動揺した。いや、今もしているが。
 いや別にスーファとはもう既に一度ならずそういうこともしている仲なので、そんな騒ぐほどのことじゃないと言うかもしれないけれど。
 でもまさか、今この場でそんなことを――
「って、大丈夫なのか?」
 具体的に言うとシャルとかメイとか。ついでに言うとユニとシニーナとジゼルって言うか要するにスーファを除いた女性陣全員。
 シャルとメイはそんなこと知っていたら殴りこんで来そうだし、ユニとシニーナは……
 思いついて扉を開けて廊下を見てみたが、誰もいなかった。
 漫画のように、扉のところに聞き耳をたてているポーズで座っていたりはしなかった。
 ついでに廊下をぐるっと見渡してみるけれど、廊下には誰もいないことがわかった。
「シニーナが」
「ん?」
 まだ安心できなかったので二度三度、軽くフェイントを織り交ぜつつ見回していると後ろから声を掛けられた。
「シニーナが、『たまにはあいつのところに行ってやりなよ』って。『シャルたちは上手くごまかしといたげるよ』って」
 ……すまん、シニーナ。
 扉の向こうをチェックしに行く時、頭の中に浮かんでいたのはお前とユニだった。
 ちなみに次点はジゼル。
「『あたしもその気持ちわかるからさ』って」
 シニーナにそんな話があるとは初耳だったが、まあわからなくもない。実際あいつとハンスの仲がどうだったかは知らないけど、結局ハンスは今回の旅行に来られなかったわけだし。
 まあ、なんだ。シニーナとハンスのことも気になるけどそれより――
「……フィル?」
 ぎゅ、と。
 椅子に座ったままでいたスーファの傍らに立ち、その頭を抱きしめた。
 そしてそのまま、何も言わずにスーファの感触を確かめる。
「ああ、スーファだ」
 そんな当然のことを実感して、俺は本当に安らいだ。
 スーファも最初こそ驚いていたようだけど、やがてその眼をすっと閉じる。
「フィルと一緒にいれなくて、寂しかった」
「俺もだ」
 そうして二人で、何日かぶりのお互いの感触を確かめるようにじっとしていた。
 それから数分。ひょっとしたら数秒だったのかもしれないけど、少し時間が経ってから。
「……そろそろ、寝ようか」
「うん」
 そう言って互いに手を解き、離れる。
 個人的にはこのままずっと抱き合っていてもかまわなかったけど、さすがにずっとそうしているわけにもいかない。
 まあさすがにこの旅行中にあんまり凄いことするのはまずいだろうから素直に寝ることにしよう。俺の部屋は個室だけど、幸いながらベッドはかなり大きいサイズなので二人寝ても支障は無いと思う。
 俺はもう寝間着に着替えてあるから、あとはベッドに入って寝るだけである。
 なのだが。
「スーファ?」
 そう、スーファは普段着のままだった。
 そりゃそうだ。スーファは明らかに手ぶらで来ていたし。まあ俺もじっくり見ていたわけじゃないけど、すくなくとも寝間着を持ってきている様子はなかった。
「……どうしようか」
「うん……」
 さすがに今の服のまま寝るわけにはいかないだろう。
 寝られないことは無いと思うけど、服はしわになるだろうし、どう見ても気分よく眠れるとは思えない。
「部屋に帰ればあるのだけど……」
「まあ、そういうわけにもいかないよなあ……」
 いくらシニーナがごまかしてくれるとは言っても、まさか部屋に戻ってきたと思ったら寝間着を持って部屋から出ていこうとしたら間違いなく呼び止められるだろう。
 そして間違いなく部屋でスーファを待つ俺のところにシャルとメイがやってきて以下略。
 と、するとだ。スーファの荷物を取りに行けないということはこの部屋の中にあるもので何とかしなければいけないということで。
「――あ」
「フィル?」
 思わず上げてしまった声を聞いてスーファが問いかけてくるが、すぐには答えない。
 考えろ、フィル・ユンハース。時間はない。せっかくのチャンスを無駄にはするな。
 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ――よし、いける!
 よし、気取られるな。極力冷静にことを成し遂げないと――
「お、俺のシャツを貸してやぶばっ!」
 どもった上に舌噛んだ。超痛い。
「フィル、大丈夫?」
「はっはっは。全然平気ですよ。なにかありましたか?」
 怪しまれちゃいけない。いやもう手遅れな気もするけど怪しまれちゃあいけない。
 スーファがそこはかとなくびっくりしているけど、これ幸いということで軽く深呼吸。よし、落ちついた。そういうわけでりぴーとわんすもあ。
「俺の服貸してやるよ」
 よし、今度はちゃんと言えたぞ。
 思わずポーズを取って前髪掃いたくなるぐらい決まった。
 そんな俺をみてスーファも安心したのか、口元にかすかに笑みを浮かべて「ありがとう」と言ってくれた。
「よし、それじゃあちょっと待っててくれな!」
 そう言い放つとクローゼットへ。
 着替えは全てクローゼットと洋服ダンスにきちんと整理してしまってある。
 いや、勿論きちんと整理しているのは例によって執事軍団なわけだが。
 正直なんとなく落ちつかなかったりもしたが、今となってはとてもありがたい。
 クローゼットを空けるとそこにはきちんと整理されたシャツや上着類がかかっている。
 その中から目的のものをすばやく取りだし、回れ右してスーファのところへ。
「まあ、これでも使って。スーファだったら俺とそんなに背丈変わらないし、線は細いから楽だと思う」
 今度は噛まずに言えた。凄いぞ俺。
 そこはかとなく自分をねぎらってみたりもする。そして手に持った着替えをスーファに手渡し、スーファはそれを確認する。
 白いYシャツが一枚。サイズ的には微妙に大きいかもしれないが、さっきも言った通り寝間着として使う分には楽でいいはずだ。
 よし、あとはそのまま――
「ズボンは?」
 着てはくれなかった。現実は割とシビアだった。
 まあ待て、まだ挽回はきく。ここでうまい言い訳を――
「あいにく今切らしてまして」
「……」
 失敗したっぽい。
 ここはどうするべきか。あれだ。その、なんだ。困ったぞコノヤロウ。
 えーと、その。なんだ。
「ユニとメイの寝巻きはこれだったね」
「そう、それ!だからちっとも恥ずかしくない!」
「……」
「……」
 スーファの話にあわせてみたけど駄目だった。
 それなら諦めるか? いや、そんなことはできない。
 こんな千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
 それならば、俺のするべきことはただ一つ!
「スーファさん、一つ俺に見せてやってくださいお願いします!」
 土下座だった。全身全霊込めて即座に土下座した。
 それは男としてどうよとかプライドがどうとか色々あるのかもしれないけど、そんなことはどうでも良かった。
 見たいものは見たいんだ文句あるか!
 そんな固い決意を込めて土下座していた俺に聞こえてきたのは、くすりと言う笑い声と、
「……わかった」
 肯定の声だった。
 顔を上げてスーファの顔を見ると、そこに見えるのは確かな笑顔。
「えっと……本当ですか?」
 自分で望んでみたことだけど、だからこそすぐには信じられずにそう聞き直してみる。
 そんな俺に返ってきたのは、
「うん」
 やっぱり肯定の言葉だった。うん。間違いない。
「ひゃっほう!」
 状況を理解すると同時に、俺は飛び上がっていた。
 音楽家は自らの感情を表現するべきである。マグノリア音楽院での教えを守り、俺は飛び上がった。
「じゃあ着替えるね」
 飛び上がって喜ぶ俺を見て、スーファも嬉しそうに笑いながら自分の背中に手を廻す。
 そしてパチ、と音を立ててホックを外し、スカートを落とす。
 そしてそこから足を抜くとスーファの細くて長い、滑らかな肌を持つ脚が――
「す、すいません。俺後ろ向いてます!」
 慌てて背を向けた。
 思わず見入っていた。魅入っていたといっても過言では無い。って言うかその通りだ。
 人種が違うからなのかなんなのかはわからないが、きめ細かい滑らかな肌が部屋の照明にぼんやり照らされて――
「別にいいのに」
「いえ、そう言うわけにはっ!」
 いかんいかん。果てしなく魅力的な申し出だけどそれはいかん。
 まあ確かにスーファの裸を見たことが無いわけではないけど、さすがに着替えをじっと見るのは恥ずかしい。
 て言うか普通そう言うのは逆じゃないのか?
 真後ろで聞こえる衣擦れの音から必死に意識を逸らし、必死に耐える。いやでも、スーファは嫌がってないんだからちょっとぐらい見ても……
「フィル?」
「な、なんでしょうか?」
 誘惑に負けて振り返りそうになったところで声をかけられた。いやだからスーファは見てもいいって言ってるんだから振り向いてもいいと思うんだけど、それでもやっぱり。
「シャツのボタン、全部しちゃっていいの?」
「いえ、それはスーファさんがなさりたいようにしていただければ……」
「じゃあ、第一ボタンまで閉じちゃうね」
「……」
 言葉を返せずにいるとスーファはまたくすりと笑い、「もういいよ」と声をかけてきた。
 極力音が鳴らないように気をつけたはずなのに、スーファにまで聞こえたんじゃないかと思えるほどの音を立てて唾を飲み込む。
 そして、凄い勢いで鳴り響く心臓の音を落ちつけて――結局のところちっとも落ちつきはしなかったんだけど、落ちついたことにして極力平静なふりをしてくるりと振り向く。
 そして底にいたスーファは。
 線が細いながらも豊かな体に、俺が渡したYシャツだけを着て。
 Yシャツの色と比べて見ても遜色ないような白い――本当に白い美しい肌を晒して。
 その長い脚には何もつけず、そしてYシャツの胸元はボタンが留められていなくて――
「……どうして?」
 多分凄い間抜け面をさらしながら、気がつけば俺はスーファにそんなことを聞いていた。
 さっきスーファはボタンを上まで全部留めると言っていたのに。
 スーファの胸元は開かれ、シャツの胸元はその豊かなふくらみで押し上げられて、かすかに身じろぐ度にその下の素肌が見えてきそうで。
 まあつまり、Yシャツのボタンは第三ボタンまで外されていた。
「閉じてた方が、良かった?」
「いえそんな滅相もない!」
 反射的にそう答えた瞬間、また柱時計の鐘が鳴った。今度は一つ。夜の一時である。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「そそそ、そうですね!」
 スーファに言われ、即座に振り向いてベッドに向かう。
 ダメだ。これ以上スーファを直視していると、色々とまずい。何がまずいか具体的には言えないし言うわけにはいかないけど、とにかくまずい。
 そんなわけで俺はそのままベッドにもぐりこむ。
 そしてそんなに間をおかずスーファも同じベッドに――!?
 いやまて、それは当然だ。この部屋にはベッドが一個しかないんだから、スーファが『一緒に寝る』と言ってきた時点でこの状況は想定していたはずだ。
 ダメだぞ、フィル・ユンハース。お前は男なんだから、しっかりしなければいけない。スーファは同じ年齢だけど、誕生日から言うと俺の方が早いのだ。
 いや、例えそれが逆だったとしても俺はスーファを守るって決めたはずだ。そんな俺がスーファを前にうろたえていてどうする。そうだ、俺はしっかりと――
 ふよ。
 背中に押し付けられた一つの感触で、俺の決意とか思考とか結論とか信念とか、その他もろもろはものの見事に吹き飛んでしまった。
「すすすスーファさん?」
「……何?」
 うろたえる俺の問いに、スーファはいつも通り静かな声でそう答える。俺の耳元で。
「いやそんなにぴったりくっつかれると」
「でも、シャツのボタン開けてるから、くっついてないと寒い」
「いやまあ、その。そうかもしれませんがもうちょっと!」
 ダメだ。いけない。
 決意とか思考とかええともうよく覚えてないけど色々に続いて最後の砦である理性が吹き飛びそうになる。
 いくら裸ではないといってもそのシャツの前は開かれ、露出した部分は俺の背に押し付けられているわけで。
 まあ俺は寝間着をしっかり着ているので素肌と素肌と言うわけではないけれど、それでも寝間着の薄い生地の向こう側の感触はしっかり伝わってくるしその体温はバッチリ。
 何がバッチリかはよくわからないけど、まあとにかくまずいわけだ。色々と。
 だからここは毅然とした態度を
「……くっつかれると、嫌?」
「いえ決してそんなことは!」
 取れるわけないじゃないか!
 ここできっぱり『もう少し離れてくれ』とか『くっつかなくても寒くないだろう』とか言えるほど俺は人生経験豊富じゃないし、そうなりたいとも思わない。
 俺はスーファを守ると決めたのと同時に、スーファを幸せにするって決めたんだから。自分が惚れた女を幸せにするって決めたんだから。
 だから俺は、耐えられる。
「じゃあフィル、お休みなさい……」
 そう言って安らかな息を立てて眠るスーファを悲しませないために。
「ああ、お休み」
 そう返事をして、このまま俺も静かに眠る――
「ん……」
 ぎゅ。
「眠れるかっ!」
 眠ろうとしたら、寝ぼけたスーファに抱きつかれた。
「……フィル?」
「いやいや、なんでもないですよ」
「ん……」
 いけないいけない。思わず声を荒げてスーファを起こしてしまった。
 俺が眠れないからといって、スーファの眠りを妨げてはいけない。
 だから俺は眠れなくても静かに目を閉じて、じっとしていることに決めた。
「んぅ……」
 ぎゅっと抱きついてきたスーファの寝息が俺の耳もとをくすぐってもじっとしていることに決めた。決めたんだってば!





 気がついたら朝だった。
「……あー。一応眠れたのか、俺」
 そんなことを呟いて、誰にともなく確認してみる。
 まあ、答える人間なんていないわけだが。
 あの後――あの後は地獄だった。いや、ある意味天国だったけど地獄だった。
 どのへんが地獄かと言うと、全然嫌じゃないあたりが地獄。
 スーファの感触とか温度とか寝息とか、なんかもう色々押し流されて行ってしまいそうになったけど、それでも何とか耐え切った。
 いや別に行ってしまってもスーファは嫌がらないしまあお互い楽しいことは楽しいのだけれど、さすがにこの旅行中は。
 昨夜のスーファの話によればシニーナが色々と手を廻してくれているそうなので、同じ部屋に寝たぐらいなら皆許してくれる気はする。でもまあさすがに、その先は。
 いくら広いし防音がしっかりしているとはいえ、ここはジゼルの別荘なわけだし。
 さすがに人の家で事に及ぶほどの根性は無い。まあ初めてはレッスン室だったんだけど。
「……いかんいかん」
 ダメだ。このままボケた頭で考えていても、ろくな考えに行き着かない気がする。
 そんなわけで俺は温かいベッドから跳ね起きると、そのまま窓へ。
 カーテンを開け、そのまま勢いよく窓を開けると朝の爽やかな風が部屋の中に吹き込んでくる。
「んー……よし。大分しゃっきりしてきた」
 よし、まあ何はともあれ朝だ。
 正直色々ヤバかったけど、何事もなく朝を迎えた。自分の忍耐力と理性に惜しみない拍手を贈りたい。
 そんなことを思いつつ深呼吸をしていると、後ろの方から声が聞こえてきた。
「うぅん……」
「あ、ごめんごめん」
 この部屋で俺以外にいる人間と言えばスーファだけなわけで。
 つい一人のときの癖で跳ね起きたけど、スーファを起こしてしまったのかもしれない。
 俺はまあこのまま起きて、あとで軽く昼寝でもさせてもらうとしても、スーファにはもうちょっと寝ていてもらってもかまわないだろう。時計を見るとまだ朝食の時間まで余裕があるし。
 そんなことを考えつつふりむいて――また、時が止まった。
 いや、別に本当に止まったわけじゃない。昨夜と同じで、ただ俺の思考が止まってしまっただけ。
 時計はチクタク言っているし、窓から入る風はカーテンを揺らめかせている。そしてベッドに眠るスーファの胸元は、その呼吸にあわせてゆっくり上下していた。
 そしてまあ、なんというか。一瞬停止した後に再起動した俺の意識からは時計とかカーテンとかそんなものは転がり落ちて、ただ一つのことでいっぱいになっていた。
 それが何って、アンタ。
 今この状態でスーファ以外のものを見ることができる奴は男じゃないと思う。いやだからといって俺以外の男に見せる気などさらさらないが。
 いやもう、なんつーかですね?
 俺が跳ね起きたからか、上にかかっていた毛布と布団は足元に押しやられていて、スーファの上にはほとんど何もかかっていなかった。
 そんでもってスーファは昨夜寝入ってから起きてないわけで、そうすると着ているものは変わらないわけで。
 つまりスーファは裸にYシャツ一枚なわけで。
 寝ているうちにそうなったのか、俺が起きる時にそうなったのか。昨夜の時点で結構際どかった各所はより一層際どくなって、胸元なんかもう身じろぎ一つしたら見えてしまうんじゃないかっていうぐらい――
「うぅん……」
「!」
 ……びっくりした。
 思わずスーファを凝視していたら、スーファが何だか寝苦しそうに身じろぎしたりしたから。
 いや、別にやましいことはまだしてないが。まだってなんだ。
 ダメだダメだ。まず落ちつかないと。
 さっき『スーファにはもうちょっと寝ててもらおう』と決めたばかりじゃないか。
 今俺がするべきことはここでスーファを見つめることではなく、とりあえず毛布と布団を掛けなおしてスーファが寝やすい環境を作り直すことだ。
「よし」
 する事が決まったなら、あとはそれを実行に移すだけだ。
 俺はスーファが起きないように極力足音を殺して、いや別にやましい事をしようと言うのではなくただ単に安らかな眠りを提供するために、スーファの足元へと近づいていく。
 抜き足、差し足、忍び足。
 前にスーファから聞いた、東の方の国に伝わる足音を立てないおまじないを念じながら進んでいく。
「……ふぅ」
 やっとの思いでたどり着いた。苦労したかいあってスーファはまだ安らかに眠っており、起きる気配は感じられない。
 よし、あとはこのまま布団を――
「ん……」
 ごろり。
「!?」
 ……びっくりした。超びっくりした。
 足元の布団を手に取ろうとした瞬間に、スーファが寝返りを打ったのだ。
 慌てて手を引いたから何もなかったけど、指先がスーファの脚にかすっていた。かなり危なかった。
 まだ心臓がドキドキ言っている。深呼吸をして、何とか心を落ちつける。
 一回、二回、三回――よし、何とか落ちついた。
 しかし、あれだな。寝返りを打ったということは、眠りが浅くなってきたということで。それなら、起こしてあげた方がいいのかもしれない。
 スーファにかけてあげようと思っていた布団は、さっき寝返りをうった時にスーファの足の下に敷かれてしまったし。
 この状態からスーファに気づかれずに布団を抜き取り、掛けなおすなんて言うのは不可能に近い話だ。
 まあ、多少早いかもしれないけど起きてもおかしくない時間だ。
 早めに起きてもらって二人でみんなを待つと言うのもいいかもしれない。
 そんなことを思いながらスーファの方に視線を向けて、ものの見事に固まった。
 いや何がって当然俺が。
 何があったかって言うとですね。その、なんだ。
 寝返りをうったスーファは現在横向きに寝ている状態で、服もちょっとよじれている状態で。
 まあ詳しく言うのはあえて避けるが、ちょっとさっきまで見えてなかったところが隠し切れてないわけで。
 いや、まああれだ。端的に言うと。
 スーファさん、ぱんつはいてないように見えるのですが気のせいですか?
 いやいや、まさかまさか。
 確かに俺は寝間着を要求されてYシャツ一枚しか渡さなかったけれど、スーファは元々下着を着けていたわけで。
 皺になるから服を着替えるというのは当然だけど、だからといって下着を脱ぐ必要なんてないわけで。
「……でも、ブラつけて無かったよな」
 ぐびり。
 もう抑えることも出来ずに、思いっきり生唾を飲み込んだ。
 いや待て。落ち着け、フィル・ユンハース。いくらそれが気になるからって、まさかここでスーファの服をめくってその下を確かめるなんて下卑たことを――
「うん……」
「!?」
 スーファがまた寝返りをうった。思いっきり考え込んでいたので、驚いた。
 いや、驚いたけどそれだけじゃない。さっきまでかなり際どい状態だったシャツがいよいよ限界ギリギリのところまで捲れあがっていて。
 もう何と言うかはいてないのはほぼ確実で、後は確証を得るだけで。
 確かに自分でめくったり剥いだりするなんて出来ないけれど、スーファがもう一度寝返りを打てば。そうすればきっとその下が。
「そう。めくる訳にはいかないけど、俺が何もせずにめくれちゃうって言うんなら――」
「どうなるのかしら?」
「どうだって言うんだ?」
 その声は、まるで罪人が聞く死刑宣告の鐘の音のようで。
 ギギギ、と。本来ならそんな音がなるはずのない、自分の首をまわして後ろを振り返ってみると。
 壁際で楽しそうに笑うユニとシニーナがいて。
 その前で顔を真赤にしながらこっちを興味深そうに見つめているジゼルがいて。
 そしてさらにその前には――俺の間近には、おそらくジゼルとは違う理由でその顔を赤くして、俺の方を見つめると言うより睨みつけているシャルロット・フランシアとメイ・アルジャーノの最強コンビが仁王立ちしていた。
「ええと、みなさん……いつの間に?」
「ちょっと前かな。フィル君が窓際からベッドの方に忍び寄るあたりから」
「いや、声かけてくださればよかったのに……」
「声かけたんだけど、ぜんぜん聞こえてないみたいだったからな。まあ、端から見てて実に面白かったよ」
 はっはっは、と本当に楽しそうに笑うユニとシニーナ。
 なんだろう。二人の後ろに小さな悪魔の羽と尻尾が見える気がする。
「フィルさま。お二人の関係は存じ上げておりますが、さすがにこの用なことは――」
 ジゼルがそう切りだし。
「まあ待て、ジゼル」
「後は私たちに任せて頂戴」
 メイとシャルがそれを遮り。
「何か最後に言い残すことはあるか?」
「……あった場合、聞いてもらえるんでしょうか」
「勿論」
「NOだ」
 死刑執行人の無情な一言ともに、俺は空へと舞い上がった。




「おはよう、スーファ」
「……シャル?」
「スーファさん、おはよっ!」
「ユニ?」
 スーファが目覚めてみると、そこにはみんながいた。
 昨日はシニーナに薦められてフィルの部屋で寝たはずなんだけど。
 夢でもみたのかと思い周りを見回してみるが、そこは確かにフィルの部屋だった。
「……フィルは?」
「ああ、ちょっと今日は執事の人の仕事を手伝ってもらうことになっててな。今さっき出て行ったよ」
 メイにそう言われてジゼルの方を見ると、ジゼルは「申し訳ありません」と言って何だか複雑な表情でぺこりと頭を下げた。
「私たちは手伝わなくてもいいの?」
「ええ。男手の要る仕事ですので――」
「そう……」
 そう言うことならしょうがない。
 ジゼルが言うからには嘘じゃないだろうし、フィルが引き受けたのならそれは必要なことなんだろうと思う。それを手伝えないのは少し残念だけど――。
 そんなことを考えていたら、シニーナに肩をたたかれた。
「あいつが帰ってきたら、精一杯もてなしてやればいいよ」
 そう言ってウィンクを一つ。
 うん、その通りだ。
 無理についていっても足手まといになるのなら、それが一番いいだろう。
 シニーナは、ことこういうことに関してはとても頼りになる。
 年はそんなに離れていないはずなのに、まるで姉のような、そんな信頼感を感じる。
「うん。そうする」
 だから私は素直にそう言って、着替えてからみんなと一緒に食事をとることにした。
 フィルが帰ってきたら、とびっきりの笑顔で迎えてあげようと思いながら。




「……で、何を手伝えばいいんですか?」
 俺はとなりを歩く執事さんに問いかける。
 シャルとメイのマグノリア最強コンビの見事な連撃を受けた後、俺に言い渡されたことは『執事の手伝い』だった。しかも今日一日。
 何もしてないのにそこまでさせられるというのは納得行かない気もしたが、まあ多少は疚しい事も事実だし、この旅行中世話になりっぱなしと言うのも少し気が引けていた。
 まあこの機会だから少し恩返しと言うのもいいな、と思いその罰を甘んじて受けることにしたわけだ。
「食材の調達を手伝っていただきたいのです」
「はあ、なるほど」
 山道をどんどん進み、そろそろ道とは呼べなくなってきたあたりを歩きながら俺はそう答える。
 俺たちが毎日美味しく食べていた料理は、こういう苦労の末に手に入れられるものだったのか。
 うん、それは一つ気合を入れて手伝わないとな。
 そう決意して、俺はもう一度問いかける。
「で、食材はなんなんですか?」
「ええ」
 執事のおじさんはそう言うと肩に担いだケースを開け、その中から黒光りするそれを取り出した。
「――熊を」
 そして俺に手渡してくる。
 黒光りする猟銃を。
「いやあの、え?」
「フィル様、来ました」
 そういう執事さんの指差す先には、
「え?」
 優に3メートルほどはありそうな、巨大な肉食獣がいた。
 そう、執事さんの言葉に間違いはなく、そこにいるのは熊。
 そして俺と執事さんと俺の手にあるものは、間違いなく猟銃。
「フィル様」
「はい?」
「――ご武運を」
「いやその?」
 会戦の合図は、怒りに燃える熊の雄叫びだった。
「いや無理だって!」
「自分の身は自分で守る、それが狩人のルールと言うものです」
「いや俺狩人じゃないし! っていうかアンタも執事でしょ!」
「今日こそ決着をつけますぞ――赤カブト!」
「いやしかもそんな強そうな名前つきの熊!」
 その後俺がどうなったか、それについては別の機会に語りたいと思う。
 ……語れれば。
「無理無理! 死ぬ! こっちくんなー!」





後書きとおぼしきもの


 そんなわけで、今度はうけけさんとこで書いたQuartett!本の原稿を公開。
 舞-HiME小説本と負けず劣らず売れなさそうなこの本ですが、完売したんでしょうか。全然残ってそうな気もしますが、俺の本じゃないので知ったこっちゃありません。
 で、これ書いてる時はどうにもなかなか進んでくれず、〆切直前に「こりゃ落としたな」と思ったのですが、なんか終盤の淑花がやって来るあたりからまるで奥歯を噛んだかのようにスピードアップして無事完成しました。
 周囲の人から「さすがですね」と言われてなんだか褒められてる気はしませんが、まあ事実なので気にしないことにします。
 つうか、Little witchの作品でももうちょっと色々書きたいっつーかロンド・リーフレットとか面白そうかなあと思ったり思わなかったり。
 まあ、あそこの会社の問題はちょっと油断するとロリペドるってことだな!

 あと、タイトルは多分「卒業旅行」と言う意味になってると思うんだけど違っていたらおかんのような優しい目で見てあげてください。もしくは正解教えてくだちい。

2007.04.22 右近