「また、一緒に暮らせるな…奈緒子」
「航…っ」
そんな再会の日の翌朝、俺はまどろみから目を覚ました。
カーテンの隙間から見える太陽の光は、何の偶然か俺の目の上にじりじりと光を落としている。
「うー……」
唸って布団から抜け出し、カーテンの隙間から見た外はもうすっかり昼だった。
そう言われてみればどこからか――まあ多分隣の家とかだろうが、昼食を用意しているのだろういい香りがしていたりする。
そしてカーテンの隙間からだはこれでもかと言わんばかりに陽の光が降り注いでいる。
「起きるか……」
呟いて首を回すと、ゴキゴキと骨の鳴る音がした。
昨日俺は慣れ親しんだ南栄生島からこの土地にやってきて、つぐみ荘(築35年)の202号室にて奈緒子と感動の再会を果たした。
んでもってその後食事をして風呂に入ってその、アレだ。察しろ。
と言うかもう風呂から一緒だったがと言うかそんなことはどうでもいい。
まあとにかくそんなわけで気がつけば昼である。
ふと自分の姿を見下ろすと、トランクス一枚と言うあまりにセクシーな姿だったりしたので着替える事にした。
「着替えどこだっけ」
昨日は玄関先で奈緒子に迎えられ、感動の抱擁を交わし合ってそのまま――ってだからそれはいい。
ごそごそと這い回っていると、部屋の隅に俺のボストンバッグが放り投げられているのが発見された。いや、放り投げたのは俺なんだが。
いやほら、一年ぶりだったし。
電話もしていたしメールもしていたけれど、やっぱり直に会うと色々とどうでもよくなって、ついついぽいっと。
まあ、割れものが入っているわけでもないと思うので大丈夫だとは思うが。
「んー……航?」
バッグの中から取り出した服に着替えてごそごそやっていると、俺の後ろから気だるげに声をかけられた。
「あ、悪い。起こしちゃったか?」
「……何やってんの?」
「荷物の整理」
バッグの中から取り出したものを並べながらそう答える。
とは言って見ても荷物なんかほとんどないわけだが。
荷物の大半は事前に奈緒子の家に――つまりここに宅配便で送っておいたので、中にあるのは当面の着替えぐらいだったりする。
シャツとズボンと下着と靴下と。
取り出したものを種類ごとに並べてみたりする。
その間に奈緒子も起き出したらしく、寝巻きの代わりなのか大きめのシャツを羽織っている。
「後で家具買いに行こっか。あんたの分のタンスとか必要でしょう?」
「いや別に、奈緒子のタンスのスペース分けてもらえば」
そんなに量があるわけでもないし。
何より俺も奈緒子もまだ学生である。バイトはするにしても基本的に親からの仕送りで生活する以上、無駄な出費は極力抑えるべきだろう。
そんな、理性溢れる常識的な俺の言葉に対する奈緒子の反応は、
すげぇ嫌そうな顔だった。
言葉で表すなら『えー』としか言い表せないぐらいの。『え』に濁点をつけてもいいかもしれない。
「あんたねえ。あれはあくまであたしのタンスよ? 服は勿論下着だって入ってるのよ?」
「いや、そりゃわかってるけど」
そう返すとまた『えー』って顔。
そして流れるように『なに考えてんだこのバカは』って顔にチェンジ。
ひょっとして、自分の下着が入っているタンスに触って欲しくないんだろうか。
そんなもん恥ずかしがるなんて今更何言ってんだと言う気もするが、口には出さない。
いやぶっちゃけ怖いから。
あんまり変なこと言って同棲二日目に部屋を追い出されて路頭に迷うとか言う愉快なエンディングは勘弁していただきたい。
まあ確かに、いつまでもこうやって着替えを並べているわけにもいかないし、必要最低限の家具ぐらいはそろえた方がいいのかも知れない。
これから最低でも四年は住む事になるわけだし。
そんなことを思っている間も手は動かし、結局のところ五分と経たずに荷物の整理は終わり、ボストンバッグは空になった。
「何よそれ」
「何って……見りゃわかるだろ?」
訝しげに問いかけた奈緒子に向かって、指差されたものを取って差し出してやる。
「いや、わざわざ見せてくれなくてもそれが蕎麦なことぐらいはわかるから」
そう、俺の手に握られた物は蕎麦。
その数、五束。
「あたしが聞きたいのはなんでそんなものを持ってきたのかと」
ああ、なんだ。そういうことか。
奈緒子の言いたいことがわかったのでその疑問に答えてやる。
「引越ししたら引越し先に蕎麦配るのが礼儀ってものだって」
「誰がそんなこと言ったのよ」
「海己が」
ぴき。
空気が、凍った。
いや、そんなわきゃないんだけど確かにそんな音がして空気が凍りついた気がしたって言うかもうすぐ春ですよ?
そんなことを思ってみても状況は変わらない。
そしてその冷気の中心にいる女性は――いやまあこの部屋には俺と奈緒子しかいないわけだが――その口を静かに開かれました。
「どうしてここで海己の名前が出てくるのかしら?」
「いやあの、どうしてとおっしゃられましても……」
奈緒子は笑顔だった。でも俺は見逃さない。そのこめかみには血管が浮いている!
「ど う し て か し ら ?」
そしてこめかみの血管はぴくぴくと動いていた。超怖いです隊長。
「その、メールで……」
「航」
俺の言葉は途中で遮られた。
「そこに座りなさい」
「いえ、座ってますが」
睨まれた。いやマジ怖いです勘弁して下さい。
奈緒子はすっくと立ち上がり、おびえる俺を見下ろしている。
一年前――あのつぐみ寮にいたころを思い出させる位置関係だった。
いや、別に付き合うようになったからと言ってその位置関係は基本的には変わらなかったけれど。
気がつけば俺は自然と正座をしていた。
恐るべし条件反射。
「航、あんた私に何て言った?」
「いや、あの何とおっしゃられましても」
「『お互い身辺整理しよう』って言ったわよね」
ああ、懐かしい。そう言えばそんなことも――
「言 っ た わ よ ね」
「はい、言いました!」
高見塚学園生徒会は体育会系上下関係が形成されている。
いや、俺はこの春めでたく高見塚学園を卒業したし、奈緒子に至っては一年前に卒業しているわけだが、体に染み付いた上下関係は中々抜けないものである。尻に敷かれてるとか言うな。
「じゃあ何で海己とメールのやり取りなんかしてるのかしら?」
「……ああ」
ここまで言われてやっと奈緒子の言いたいことが理解できた。
いや、理解できたんだが。
「奈緒子」
「何よ」
もういい加減こめかみから血管は見えなくなっているが、まだ不機嫌そうに奈緒子はそう答える。
ぶすっと膨れたその顔は、実は魅力的だったりするのだがそれはさて置いて。
「いや、あの……海己だぞ?」
「だから何よ」
「いやまあ確かに女性のうちに入るかもしれんが……だって、海己だぞ?」
「……海己だから言ってるのよ」
埒があかない。
会話のキャッチボールが出来ていないどころか、見事な平行線。
お互いそれは理解しているからかその後に言葉は続かず、窓の外から聞こえてくる車の音やら何やらだけが聞こえてくる。
そのまま沈黙はしばらく続き、なんで俺は同棲二日目に自分の彼女とこんな不毛なにらめっこをしているのかと思いそこはかとなく居た堪れない気分になり始めたころ、やっと 奈緒子が口を開いた。
「まあ、わかったわ」
「え?」
「……何よ、不満なの?」
「いや別にそんなことは」
ただ、あっさり引き下がったのが拍子抜けだっただけで。
「これについては別勘定ってことにしといてあげる」
「そりゃどうも」
せっかく向こうが引き下がってくれたというのにこっちが難癖つける理由もない。
ただまあ、このままと言うのもアレなので、
「俺は奈緒子一筋だから」
「……バカ」
そう宣言してやると、奈緒子は顔をそらしてそう言った。
言った俺も恥ずかしくなって顔をそらして頬をかいたりしてみたが。
いかん。なんだかんだ言っても一年ぶりだから、どうもこういう場合の呼吸と言うか駆け引きが今ひとつ。
しかしまあこうしているわけにもいかないわけで。
どうしたものかと思っていると、やがて奈緒子の方から問いかけてきた。
「――で、その蕎麦をどうするって?」
「そりゃ、配るんだが」
引越し蕎麦だし。
まあ確かに切っ掛けは海己のアドバイスだったが、引越し先の隣近所に挨拶すること自体は何の問題も無いと思う。やっといて損はあるまい。
それぐらい奈緒子だったらわかっているだろうと思うんだが、まだなんだか不服そうな顔をしたまま言葉を続ける。
「で、それどうやって配る気よ」
「いや、よろしくお願いしますって」
「『202号室の浅倉奈緒子と同棲する事になった星野航です』って?」
「……それは恥ずかしいな」
言われて気づいたが、そのシチュエーションはかなり恥ずかしい。
相手にどんなりアクション取られても恥ずかしいぞ。うわっ。
「やっと気づいたか、バカもの」
「いやでも、挨拶しないってのも……」
「大丈夫よ。あたしがここに越してきたときに一通り挨拶はしておいたから、あんたは改めて挨拶に回らないでも、今後近所の人たちにそれなりに明るく挨拶しとけば大丈夫」
さすがにその辺抜かりはないらしい。
「蕎麦はそのうち茹でて食べましょ。なんなら今日の昼ご飯にしてもいいし」
「別に俺も引越し蕎麦に特段こだわりがあるわけじゃないからそれはいいんだが」
それでもなんだかこう、やりきれないものが。
やっぱり引っ越してきた区切りと言うかそんな感じで挨拶はしとかないとと思ってしまうわけで。
でも奈緒子の言うことはもっともで、だからひょこひょこ挨拶に行くわけにもいかなくて。
奈緒子に『まだ何か悩んでるのかコイツは』って顔をされても、ちょっとすぐにはすっきりと整理がつけられない。
だから呼び鈴がキンコンとか鳴ってもすぐには反応できなかった。
「はーい」
「下の部屋に引っ越してきたものなんですけど」
奈緒子が返事をすると、ドアの向こうからそんな声が聞こえてくる。
「あ、今――」
今出ます、と言おうとしたら奈緒子に止められた。
「何だよ」
「服を着なさい、服を」
「……おおぅ」
言われて気づいたが、相変わらずトランクス一枚のセクシーな格好のままだった。
とりあえずさっき並べた着替えの中からシャツとズボンを取りだしわたわたと着替えている間に、奈緒子は手早くズボンを履いて玄関の方に出ていた。
鍵を開け、チェーンロックを外してドアを開ける。
「あの、下の部屋……え?」
「……え?」
そしてドアの向こうとこっちがわからそんな間抜けな声が聞こえて、沈黙が戻ってくる。
沈黙はしばらく続き、俺が慌てて着替えを済ませてもまだそのままだったりした。
そんなもんで俺も玄関に顔をだして見ることにしたわけだが――
「……え?」
俺も間抜けな声を出して呆然とするはめに陥った。
三人で間抜け面して見詰め合う。
そんな時間がどれくらい続いたのかはわからないが、とりあえず最初に復帰したのは
来客だった。
「あの、下の部屋に引っ越してきた沢城凛奈って」
「いや、名前知ってるから。俺も奈緒子も」
とりあえず即座にそう突っ込んでみたが、それだけしかできなかった。
そして凛奈も――そう、俺と奈緒子の部屋に引越しの挨拶に来たのは凛奈だった。
その脚を買われてどこぞの体育大学の付属校に行った沢城凛奈だった。
「って言うかなんでお前が?」
「大学に進学したから引っ越すってメールしたじゃない」
「いや、にしてもそんな」
偶然としてもこれは出来すぎだ――
「航?」
俺が偶然とか運命とか神様の悪戯とかに思いをはせていると奈緒子がそう言ってこっちに振り返った。
すこぶる笑顔だった。さっきにも増して笑顔だった。そしてさっきにも増して怖かった。
「ふぅーん、凛奈ともメール交換してたんだー」
「いやさっきつぐみ寮の仲間は別勘定だって」
「『海己は』別勘定だって言ったのよ」
そう言った奈緒子は笑顔をやめてぎぬろとこっちを睨みつけてきた。
怖かった。ただひたすら怖かった。
とりあえず俺は救いを求めて――いやまあ無理だとは思うが今この場に居る俺と奈緒子以外の人物であるところの凛奈の方を見ると、凛奈はなんだか驚いたような表情をした後になぜか顔を真っ赤にしていた。
「わわ、航と会長さんの邪魔する気はなかったの、ごめん!」
そう言って深々とお辞儀をする、もとつぐみ寮体育会系チーム筆頭。ちなみにチームと言っても他には俺しかいないが。
まあそんなことはどうでも良くて、凛奈が何を見てそんなことをいいだしたのかと視線を戻すとそこは寝室なわけで。
真ん中にはなんだか寝乱れた感じで布団が敷かれているわけで。
さらにふとよく見てみるとあそこに見えるのは昨日脱ぎ捨てた服ですね。俺のはもちろん奈緒子の服や下着も散乱して――
「いやちょっと待て!」
「ホントにごめん! とにかく今日は帰るから!」
「いや待てだから俺の話を聞け!」
いや多分凛奈の想像はすべからく事実なので何を言えばいいのかさっぱりわからんが、それでもこのまま返すわけにはいかないきがするので必死に呼び止める。
でも凛奈はそんなことに聞く耳をもたず、ぎしぎし言う階段を駆け下り――てからまた駆け上ってきた。さすが陸上会期待のホープ、見事なターンだったがそんなことは問題では無く。
「とりあえずこれを!」
凛奈はそう言うと俺の目の前に何かをつきだした。
「何だよ」
半ば反射的にそれを受け取って見る。
蕎麦だった。
乾麺だった。
いや、そんなことは問題ではなく。
「だって『引っ越したらお蕎麦を持っていかなきゃ駄目だよ』って海己が!」
「アホだろうお前」
「あんたにアホって言う資格はない」
凛奈に即突っ込みを入れたが奈緒子にあっさり迎撃された。
ああ、なんだか懐かしい空気だ。
そう、一年前まで俺たちの周りにあったあのつぐみ寮の空気に近いものを感じて――
「しかも普通生のまま持ってくるか?」
「茹でてみたら台所が大変なことに……」
「ほんとアホの子だろうお前」
「うるさいなあ、航は」
俺は凛奈とそんなやり取りを続ける。
なんだか嬉しくて。
あの島を出てきて奈緒子と一緒に入れることだけで十分過ぎるぐらい幸せだったって言うのに、それに加えて一年前に別れたはずの――ひょっとしたらもう二度と会えないかもしれないと思っていたつぐみ寮の仲間がいてくれることが嬉しくて。
俺と凛奈がそんなやり取りをしていると、やがて奈緒子もやれやれと言う感じで息をついてから口を開く。
「あー、わかったわよ。蕎麦ぐらいなら茹でてあげるから中入りなさい」
その口調はあのころの、高見塚学園生徒会の会長で、つぐみ寮の陰のボスだったころのもので。
「ほら、航は部屋片付けて」
「了解」
だから俺も迷わずそう答えて、奈緒子の指示に従う。
「……いいの?」
「いいんじゃね?」
まだ不安なのかそう聞いて来る凛奈にそう答えてから奈緒子の方を見ると、ちょっと不機嫌そうに――でもどこか楽しそうに俺の方にんべっと舌を出していた。
「いいみたいだぞ」
「アンタがそう言うなら……お邪魔します」
そう言って凛奈はおずおずと玄関で靴を脱ぐ。
そして俺は部屋を片付けて、奈緒子は凛奈から蕎麦を受け取って茹で始める。
そんな風に俺と奈緒子と――そして凛奈の新らしい生活は始まった。
それぞれの新生活は予想していたものとは違うけれど、きっと楽しいものになるだろう。
俺たち三人はそれぞれ別々なことをしていたけど、そんな予感だけは三人揃って一緒だった。
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