第三話「自宅、訪問する」

 学生は、勉強することが本分である。
 そんなことは親やら教師やらその他諸々の偉い人たちに言われるまでもなくわかっている。
 まあ、わかっているからと言って学校では勉強に全てを費やしているのかと聞かれるとそんなことはなく、授業を受けながら休み時間を待ち遠しく思うのは至って普通のことだと思う。
 そしてそんな授業を四回こなすと昼休み。昼食をとる必要があるために授業間の休み時間と比べると格段に長い時間が確保されており、学生達は昼食をとりつつ友人と会話を楽しんだり、食事を早めに切り上げて遊んだりと思い思いの行動を取る。
 言ってみれば放課後を除けば一番長い自由時間なわけで、食事も自分の席ではなく仲のいい者同士で適当に席をくっつけて食べたりする。
 とは言ってみたものの別に特別な話ではないし、今さら言うことはないかもしれない。
 俺もその例に漏れずに仲のいいクラスメイトと四人で昼食をとっていたりする。
 四人というのは例によって――というか俺のクラスメイトで曲がりなりにも仲がいいといえるのは他にいないんだけど、まあ一応言うと俺と咲耶と姫子とついでにサル。
 他のクラスメイトからすると昨日転校してきたばかりの転校生三人に加えてダブりが一人という特色ありすぎるメンツなので、ある程度距離を置かれるのも当然の話だと思う。思うんだけど。
「ちょっとこれは距離置かれすぎじゃないかな」
「いいじゃない、静かで」
「そうだぞ。男女2:2でちょうどいいじゃないか」
「というか、なんで貴方がここにいるんですか。ダブりならダブりらしく、一人体育館裏で焼きそばパンでも食べていて下さい」
 俺たちは教室のほぼ中央にある俺の席のまわりに集まっているわけだが、他に教室で食事をしているクラスメイトはというと隣の席にはいないどころかクラスの四隅に固まって食べている。明らかに避けられてるんだけどこっちの様子はしっかり伺って来ているので落ち着かないことこの上ない。
「まあいいじゃねえか。そのうち他の奴らも慣れるって」
「いや、お前も避けられてるからな」
 いまいち状況を理解しきっていない気がするサルにそう指摘してやるが、まあ確かにそうなのかもしれない。よくよく考えてみれば普通の転校でも、程度の差こそあれこんな感じだったような気もする。
 幸いながら、今回は一緒に食事をしたり休み時間に話したり部活をしたりする友人が三人もいる。最悪このまま進級までクラスに馴染めなくてもひとりぼっちで寂しい学園生活ということはないだろう。
「ミコトがどうしても気になるって言うなら、どっかほかの場所に移動しようか? どこかないの、サル」
「テメェ、いくら女だからって胸がでかくなかったら今頃ぶん殴ってるぞ」
「うわ、最低」
「情報とかいいので、とりあえず口をふさいで下さい。ついでに鼻も」
 そして、どうやらクラスのみんなからは恐れられているらしいサルの脅しに女生徒二人は全くひるみはしなかったというかむしろ反撃していた。
「ミコト。こいつら、とんでもねえアバズレだ。男二人で仲良く食事しようぜ!」
「断じて断るというか誰が見てもお前最悪だ」
 もうちょっと年食ってここが会社だったりしたらセクハラで訴えられてもしょうがないと思う。
「ありがと、湖乃葉さん。そこまで気になるってわけでもないから」
 不自然にならないように気をつけながら笑顔を浮かべて、咲耶にそう答える。
『湖乃葉さん』と呼んだ瞬間軽く睨まれたけど、どうしようもない。
 咲耶は転入初日から「咲耶って呼べ」と言ってくれてるんだけど、さすがに転入初日というかその時はあってまだ数分だったし、いくら本人に言われたからって「オッケー。よろしくな、咲耶」とか爽やかに言えるキャラでもないのでしばらく湖乃葉さんで進み、現在に至っている。
 まあ割とうち解けたというか仲良くなったことだし、昨日まで『岩永さん』と呼んでいた姫子も『姫子』『ミコトくん』と下の名前で呼び合うようになったんだから、咲耶を『咲耶』と呼ぶことには何の問題もないかも知れない。現に頭の中で考えているときはもうすっかり『咲耶』である。それに咲耶の方はほぼ初対面の時からずっと『ミコト』と呼んでくれているのに、俺だけかたくなに『湖乃葉さん』と呼び続けているのはちょっとおかしいかもしれない。でもあれだ。最初に断っちゃったので今さら呼び方変えるのには何か切っ掛けとかそんなものが。
 そんな感じなのでこの問題はとりあえず先送りすることにして話を進める。
「ちなみに、他のところで食べるとしたらどんなとこがあるんだ?」
 昼休みが始まったとたん、クラスの何人かは弁当箱らしきものを持って教室を出て行ったりしたからどこかに弁当スポット的なものがあると思うんだけど。
「あー、そうだなあ。メジャーなとこだと屋上・中庭・それに学食ってとこか」
「学食って……お弁当持ち込んでもいいのか?」
「ああ。他にも購買でパン買って持ち込むヤツもいるぞ。グループの誰かが学食で注文すればオッケー、みたいな感じだな」
 どこの学校にもある、暗黙のルールってヤツか。破ったからって罰則があるとかじゃないけど、空気読めてないヤツみたいに思われちゃうっていう。
「購買でパンも買えるんですか?」
「ああ。コンビニで買うよりは安くすむぜ」
 姫子に聞かれて、サルは自分の手元にあるカツサンドを見せる。確かにそのパンは俺が登校途中にコンビニで買ったものと比べると包装とかが違っている。
「その分、昼休み始まった直後の購買は正に戦場って感じだけどな」
 まあそれもどの学校にもある定番ってやつだ。前にいた学校でも買い出し当番とか決めて色々頑張った記憶がある。
「なんならお前等の分も買ってきてやろうか?」
 そう言ってサルは誇らしげに自分の前にあるパンを見せる。手に持っているカツサンド以外にも中々に人気がありそうなメニューが並んでいる。
「それは助かるけど、大変なんじゃないのか?」
「まあ慣れてるし、俺ダブりだから二年のヤツは遠慮してくれるんだよ」
「……お前、昨日『気を遣われるのは嫌だ』とか言ってなかったか?」
「嫌なことは間違いないが、この問題に限っては全く別だ! カツサンドは食べたい!」
 必要以上に堂々と宣言していた。こういうこと言っているからクラスに馴染めないんじゃないかと思うんだけど、今回に関して言えば助かることは事実である。
「ちょっと待ってろ」
 そしてサルはそんなことを言い残すと自分の席に戻り、机の中をしばらく引っかき回すと一枚の紙を取りだして、こっちに持ってくる。
「これの中から選んで、昼休みが始まる前にまでに注文したいものメモしてくれれば買ってきてやるよ。金は後払いでいいや」
 手渡された紙は購買で毎月配られているものらしく、今月の購買メニューが一覧になっている。値段を見ると、やっぱりコンビニよりは十円か二十円ぐらいは安い。
 大した差ではないようにも見えるけど、それが毎日ともなると結構大きい。
「そんじゃ頼むかな……姫子はどうする?」
「そうですね。ミコトくんが頼むなら私も」
「そのメニュー表、もう無いかもしれないから帰りにコンビニで人数分コピーしとけよ」
「うん。それじゃあ俺と姫子と……湖乃葉さん?」
「何よ」
 ふと気づいてみると今までの会話に全く入ってこなかった咲耶の方を見たら、なんだかすこぶる不機嫌だった。
「あの、パン」
「いらない」
 そして即答だった。
「なにをいきなり不機嫌になってるんですか。確かにあんなセクハラ発言する人間に頼むのは気にくわないかもしれませんが、こんなところで意地を張っても意味がないでしょう」
「お前、感謝する気ねえよな」
「そうだよ。確かにことあるごとに胸の話をするサルは同じ男から見てもどうかと思うけど、買ってきてくれるパンに罪はないんだから」
「やっぱり買ってくるのやめるぞコノヤロウ」
「なんですか、ついさっき自分で言い出したことをもう撤回ですか」
 とりあえずサルに関しては姫子に任せるとして、俺は咲耶の方に向き直る。
「そんなわけで湖乃葉さんもパンを――」
「だから要らないってば」
 取りつくしまもなかった。そもそも最後まで言わせてすら貰えなかった。
 無理に勧めるのもどうかと思うけど『じゃあ俺と姫子の分だけ』とか言って話を進めたら進めたで問題が起きそうなので悩んでいると、咲耶は軽くため息をつくと口を開いた。
「あんたら、これ見えないの?」
 そう言って差し出されたものは、お弁当だった。
「いやだから、弁当買うのも馬鹿にならないから――」
「手作りよ」
 また遮られた。言われて見てみると、確かに弁当の容器はコンビニでよく見るあれではなく、いわゆる弁当箱だった。
「ああ、そういや湖乃葉さんは一人暮らしじゃないんだっけ」
「あんたら誤解してるみたいだから言っとくけど」
 咲耶はそう言うと、手に持っていた箸を置くと言葉を続けた。
「これ、わたしが作ったの」
『これ』とは言うまでもなく咲耶の目の前にある弁当であり。
 料理の知識がほとんどゼロな俺が見ても、そのおかずが冷凍食品詰めただけとかそういうことではないことがわかり。
「「「ええええええ?」」」
 思わず三人揃って驚愕の声を上げたら、咲耶の表情がまた一段と不機嫌になった。
「……何よ、わたしが料理得意じゃおかしい?」
「いやだって、なあ?」
「うん」
「ええ」
 不機嫌になるのもわかるが、正直アレだ。何かイメージとかそんなのが。
 しかも弁当の中身は煮物とか和え物とかなんか鶏肉とか、言ってみると渋いというか悪い言い方をすると地味と言ってもいいものばかりである。
 料理の知識はからっきしなのでこれらがなんて言う料理なのかを一つ一つ説明することは出来ないけど、美味そうなのは確かだった。
「あげないわよ」
「いや、さすがに人の弁当たかろうとは思わないけど」
 あまりにまじまじと弁当を見つめていたからか、咲耶にそんなことを言われたので弁解したらまた不機嫌になった気がする。なんだ、今日はよくわからんうちに墓穴を掘りまくる日か?
 しかし不本意ながら、昨日からこういう状況には何度も体験している。そして人間は成長する生物なので、対処法だって学んでいる。
「でもあれだな、料理できるといいよな。家計も助かるし」
 すなわち話題をそらすこと。
 サルがなんだかニヤニヤしているけど、今はこんな鼻のでかいダブりの相手をしている余裕はない。
「コンビニ弁当とかレトルトを食べるよりは身体にもいいし」
 そして対処は成功したらしい。
「ミコトとそこのサルが料理できないのはまあ、聞くまでもないだろうけど」
 そして咲耶は面白そうに口の箸を歪めると。
「ひょっとしてあなたも料理できないわけ?」
 姫子を見下すかのようにそう言い放った。と言うか見事に見下していた。
「なんですか、料理できることがそこまで自慢ですか?」
「いえいえ、こんな『女性としてはできて当然』みたいなことを自慢する気なんて」
 あれ? ひょっとして俺、対処に失敗してる?
 何だかにらみ合っている女性二人を直視するのは心臓に悪いので、ここにいるもう一人を見てみる。
 サルはとっても楽しそうだ。うん、後で殴ろう。俺とサルの体格差を考えると相当な反撃を受けそうな予感もするけど、だからといって嘗められっぱなしは良くない。女性が料理の腕で意地を張りあうように、男は拳で意地を張り合うことが必要なのである。
「そうですね、認めましょう。わたしは料理ができません」
 そして俺が来たるべき戦いに向けて決意を固めていると、姫子は思いの外あっさりと自分の非を認めた。非というほどのことでもないと思うが。
 まあさておき、姫子が『料理』という限られた分野のこととはいえ咲耶に劣っていると言う現実を素直に認めるのは珍しい。
 そんなことを思ったのは俺だけではなく、サルと――そして当の姫子まで驚いている。
「ですから、昨日もミコトくんの手を煩わせてしまいました」
 そしてそんな一瞬の隙を突いて、爆弾を一つ投下した。
「……どういうことよ」
 そして咲耶は見事に食いついた。
 いけない、この話題は大変なことになる。それは解ったんだけど、でも俺に口を挟む隙を見せる姫子ではなかった。
「お恥ずかしい話ですが、昨日の晩ご飯を失敗しまして。魚を焦がしてしまい、ちょっとしたパニックに陥ってしまったんですけど――」
 そこまで言うと、一息ついてから言葉を続ける。
「ミコトくんが颯爽と助けに来てくれたんです」
 おおー、と言う歓声が聞こえた。ちなみにサルだけの言葉ではなく、いつの間にかこっちに聞き耳を立てていた――というかまああれだけ大声で言い合っていたら普通に過ごしていても聞こえるとは思うが、とにかく教室に残っていたクラスメイトたちも一緒に感心していた。まばらだけど拍手すら聞こえた。なんかもう、サルだけじゃなくこのクラスを丸ごと薙ぎ払いたくなった。もちろんそんな特殊能力はないので、思うだけだけど。
「そして夕ご飯もご馳走になりました。二人で。差し向かいで。同じ釜のご飯を」
 そんな姫子の追い打ちを聞いてまた歓声が。ついでにさっきより大きめの拍手が。今、俺の手元に銃があったら明日の朝刊各紙の一面を『高校生、白昼の教室で銃乱射』という文字で独占していただろうことは間違いない。
 しかし幸か不幸か俺の手元に銃はないのでクラスは平和である。
 その後結局いつものような――いや、昨日転入してきたばっかりでまだ二日目でありそんなに多い回数を繰り返したわけではないんだけど、まるで前世から繰り返されたかのように見慣れた言い争いやらあれやこれやは昼休みが終わるまで続いた。
 そしてクラスメイトは放課後になるとそれなりに挨拶を交わした後に別れたが、俺は部室でその続きを味わうことになった。
 一緒にいたサルと大山先生はそんな二人と間に挟まれた俺を見て超楽しそうだった。もし俺が校内暴力で捕まるとしたら、現場は部室だ。間違いない。





 美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れると言う。逆だったかもしれないけど、そこは今回関係ない。
 そんなことわざだか故事成語だかにもある通り、とりあえず人間は三日もすれば大抵のことに慣れるらしい。何のことかというと、つまり俺は日向学園に転入してきて三日で慣れた。何にって、新しい学校に。さらに詳しく言うなら学園生活に。要するに咲耶と姫子のあれやこれやに板挟まれる日々に。
 まあ今日は土曜日なので半日で済んだからって言うのもあるかも知れないけど。
 本当は今日も部活があるらしいんだけど、そういえば色々あって引っ越し後の片付けが完全放置だったことを思い出したので遠慮させて貰った。と言うかよく考えたら入部の時に『別に毎日出なくてもいい』とか言われてたので気にするのはやめておこう。
 ともかくそんなわけで、俺は部屋の整理に勤しんでいるわけである。と言ってもまあ俺が整理できるのなんて自分のものぐらいなわけで、親父の荷物を勝手にいじるわけにもいかないのでそれは箱のままでまとめて部屋の隅へ。食器やら何やらを出したりするが、元々そんなに数が多いわけでもない。一時間もしたら楽に終わった。というか終わってない部分はめんどくなってやる気がなくなった。
 汗だくになるとかいうことはなかったけど、それなりに疲れた気がするので座り込む。何となくテレビをつける気もしないのでボーッとしていると、目に入るのは真っ白い壁。
 壁にはポスターも何も貼られていないので見ていても面白いことはなく、自然と意識はその向こうになる。つまり隣の部屋。すなわち姫子の部屋。
 一昨日、ちょっとしたアクシデントのせいで――いや、おかげでかもしれないけど入った姫子の部屋も整理はされていなかった。まあ姫子が引っ越してきたのは俺より後だし、やっぱ女一人だと色々大変なんだろう。
「……手伝った方がいいのかな」
 なんとなく、そんなことを呟いたりする。
 いや、変な意味じゃなくて男の俺だって疲れてるんだから女性であるところの姫子はもっと大変だろうっていう純粋な善意で。うん、善意で。
「よし」
 そう言って立ち上がる。お隣さんなんだし、変な意味はないんだから訪ねていっても問題ないよな。もし迷惑そうだったらその時は素直に帰ってくればいいわけだし。
 そんなことを思いながら玄関に向かい、サンダルをつっかけてドアを開けて外に――出て戻った。
「いくら隣だからってサンダルはやめた方がいいかなあ」
 サンダルというか、裸足で行くと嫌がられるかもしれない。嫌がられなかったとしても、それで逆に気を遣わせちゃっても悪いし。
 そんなわけで中に戻って靴下を履く。下駄箱から靴を出して、ついでに汚れたりしてないこともチェック。問題ないので靴を履いてドアを開けて外に――出て戻った。
「汗臭くないかな」
 そんなことを思いつつ自分で匂いを嗅いでみると、若干臭う気もする。
 片付けで特に汗をかいたつもりはないけど、それなりに体は動かしたので少しは汗をかいたのかもしれない。自分の体臭は気にならないって言うから、向こうからしたら相当臭うかもしれない。
「汗臭い男に『手伝いに来た』とか言われてもありがた迷惑だよな」
 そんなわけで、シャワーを浴びることにした。





 そして三十分後、コーポ笠木二○二号室にはシャワーを浴びてさっぱりした後に軽く制汗スプレーなど使用し、個人的には割と気合いを入れた部類である服に身を包んで差し入れ用の菓子を適当に何種類か入れたコンビニ袋を持って部屋の隅っこで体育座りしている男子高校生がいた。つまり俺だった。
 賢明な人であれば現在の状況から推測できると思うが、あの後出て戻って改善してを数回繰り返したけど、結局ここにいるわけである。あ、一応弁解させて貰うと姫子の部屋の前までは行ったのだ。呼び鈴すら鳴らさず帰ってきてしまったが。思春期の中学生か俺は。なんというか『隣の部屋に住む幼馴染みとはしばらく疎遠だったけど、とある切っ掛けでまた話せるようになったので休みの日に遊びに行こうと思い立ったけど結局ヘタレて行けなかった』的な感じだった。ゲームとかで見たときは『なんだコイツ情けない』とか鼻で笑っていた自分が恥ずかしい。穴があったら入って埋まってオケラやミミズと仲良く過ごしたい気分だった。
「もうあれか。こんなヘタレな俺は一人で菓子食って寝てろって言うことか」
 思わずそんな自虐的な考えにまで行き当たる。
 そんなテンションダダ下がりで気のせいか部屋の空気まで暗く淀み始る中、そんな全てをかき消すかのような電子音が鳴り響いた。
 Trrrrr……
 電子音というか携帯の着信音だったので、半ば条件反射のように携帯を手にとって通話ボタンを押す。
「はい。新井木だけど……」
「えっと、咲耶だけど……大丈夫?」
 電話してきたのは咲耶で、第一声で心配された。いかん、俺が落ち込むのは自由だと思うけどそれを他人に心配させるのは本当にいけない。しかも女の子に。
「ごめんごめん、大丈夫大丈夫。んで、何だっけ?」
「何ってワケじゃなく、暇だったから電話してみたんだけど」
 そういや昨日、携帯の番号とメアド交換したっけ。粉砕された携帯の代替えを用意していないサル以外の三人で。まあサルも「仲間はずれは嫌だ!」とか喚いてメモを押しつけてきたから一応登録だけはしておいたけど。
「ああ、うん。俺も暇してたとこだよ」
 若干自虐的な気分になりつつもそう答えると、電話の向こうから「よし」とか何とか聞こえた気もした。
「も、もしそんなに暇してるなら料理とか教えてあげようか?」
「料理?」
「うん。昨日お弁当食べながらそんな話したじゃない」
「ああ、そういえば」
 確かにそんな話したっけ。正直なところ話をしたって言うよりその後すったもんだあったことの方が印象は強いけど、確かにそんな話をしてた気がする。
「あんまり難しいのは無理でも、少し知ってれば便利じゃない。だからどう?」
「えっと、俺の家で?」
「ウチ来る? ミコトの家だとどうせ材料どころか調理器具だって揃ってないでしょ?」
 返す言葉もなかった。
 一応鍋とフライパンぐらいはあるけど、調味料とか正直ロクに使っていない。せいぜいがラーメンに胡椒振るとか買ってきたフライに醤油とかソースかけるぐらいだ。
「そんじゃお言葉に甘えさせて貰うけど、いつ行けばいい?」
「うちはいつでもいいけど……そっち、どれくらいで出れる?」
「何なら今すぐ出れるけど」
「そ、それは準備いいわね」
「お、おう」
 言いながら自分の姿を確認するが、三十分近くかけて出かけたり戻ったり用意したり確認した俺の準備はバッチリだった。
「それじゃ、この前のスーパーあるでしょ?」
「しまむら?」
「そう。あそこから坂になってる方を上って五分ぐらいまっすぐ行くとウチなの。家の写真後で送るから来てみてくれない?」
「ん、わかった。わからなくなったら電話するわ」
 咲耶と話しているといつの間にか気分も晴れてきた。とりあえず、休日に一人引きこもってコンビニ菓子をむさぼり食うという寂しいことにはならずに済むッぽい。
「姫子には私から電話しとくから、出れるんだったらミコトはもう出ちゃって」
「? うん。わかった」
 咲耶が姫子を自宅に呼ぶって言うのは正直意外な気もしたけど、自分からそう言ってるなら異論を挟む必要もない。実はアレで二人とも仲がいいのかも知れないし。喧嘩するほど云々とかそんな感じで。
 あと正直「誘ってきて」とか言われると困ってしまったので都合がいい。理由があるなら大丈夫って気もするけど、ついさっき挫折したばっかなのでちょっと。
「それじゃ、二十分ぐらいで着くと思う」
「うん、待ってる」
 そんな咲耶の声を聞いてから電話を切り、軽く深呼吸をする。
「とりあえず、もっかい髪の毛チェックしとくか」
 そして洗面所に向かった。





 またもや三十分後、俺はとある家の前に来ていた。とあるも何も表札には『湖乃葉』と書いてあることからもわかるように咲耶の家なわけだが。と言うかこの展開で全く違う家に行くとか意味わからんだろう。
 さておき、咲耶の家である。いっしょに「伊澤」と書かれた表札もあるので一瞬悩んだけど、そういえば祖母と一緒に住んでいるとか言っていたからそのお婆ちゃんの名字なんだろう。
「さて、どーしたもんか」
 そんなことを呟いてみるが、別に悩む必要はない。目の前にはインターフォンがあるので、ボタンを押せばいいだけである。
 別に当然の訪問というわけでもないどころか、この家の娘であるところの咲耶に招待されてるんだから後ろめたいことは何もない。
「よし」
 気合いを入れ直して後ろを振り向き、ちょうどそこにあるカーブミラーでおかしいところがないかどうかをチェックする。オッケー、問題ない。
 しかしながらどうやら緊張は自分でも隠せないっぽく、微かに震える人差し指で呼び鈴を鳴らす。
 ピンポーン、というありふれた電子音が聞こえてから十秒か二十秒か。しばらく待ってみるが、返事はない。困った。
 とは言っても困ってばかりもいられない。いくら友人の家とはいえ、他人の前で延々うろたえていたらただの挙動不審な人物である。ちなみに今の自分が挙動不審であることぐらいは自覚している。
 まあ、呼び鈴を一回押しても反応がないときの対処法というのは決まっている。もう一回鳴らせばいいのだ。至極簡単な話である。
 至極簡単な話であるので、俺はもう一度カーブミラーで身だしなみを確認して、ついでに大きく深呼吸をしてから呼び鈴を――
「はい」
 鳴らそうと思ったら返事が聞こえた。
「あ、あの、新井木ミコトと申しますけどこの、咲耶さんはご在宅で――」
「こっち、こっち」
 焦ってインターフォンに向かってまくし立てていたら、何だか愉快そうな声が聞こえた。
 声に従って視線を上げると入り口のドアが開いていた。そしてそこには声の主であろうお婆ちゃんが、楽しそうに微笑みながら立っていた。
 考えてみれば確かに声はインターフォンを通したにしてはとってもクリアで、そもそも声はインターフォンから出ていなかった。かなり恥ずかしかった。
 言うまでもなく一般常識として挨拶をするべきだとは思うわけだが、上手く言葉が出てこない。
 そんな俺を見てお婆ちゃんはまた楽しそうに微笑むと、口を開く。
「新井木ミコトくん?」
「は、はい」
「中に入って待っててくれないかしら。咲耶ちゃん、何かドタバタしてるみたいだから」
「それじゃあお邪魔します」
 促されるままに中に入って、出されていたスリッパを履く。
「そこが居間だけど……咲耶ちゃんの部屋に行くならそこの階段を」
「お婆ちゃん!?」
 まさにそこの階段から、慌てた様子の咲耶が下りてきた。と言うか駆け下りてきた。
 その様子を見れば、俺でもわかる。多分咲耶にとって自分の祖母が出てくることは予想外だったんだろう。
「だめよ、咲耶ちゃん。お客様お待たせしちゃ」
 しかし、さすがに祖母なので慣れているのか咲耶の剣幕にも一切動じることなく冷静に諭していた。しかも「めっ」とか言う感じで。何というかチャーミングなお婆ちゃんだった。別にそう言う趣味はないが。
「それは……」
 そして咲耶も祖母には余り強く出られないのか、軽く口ごもったのを見ると咲耶のお婆ちゃんはまた楽しそうに微笑みながら俺に向かって口を開いた。
「ごめんね、この子ったらミコトくんが来るって言って一生懸命おめかししてたから」
「お婆ちゃん!」
「じゃあ私は出かけるから。ゆっくりしていってね」
 そして言いたいことを言ったらさっさと出て行った。物腰は柔らかかったけど、なんというか間違いなく咲耶の祖母だった。
 間違いなく気を利かせてくれたんだろうけど、それがわかるだけに逆に気まずい。
 とは言ってもこのまま二人でうつむいているわけにもいかず、咲耶のお婆ちゃんの言葉が事実だとしたら俺には言うことがある。『おめかししていた』っていうのが事実だったとしたら、言うべきことがある。
 咲耶には気づかれないように注意しながら軽く深呼吸をして、口を開く。
「その服、似合ってるな」
「……ありがと」
 二人とも言葉を交わした後はまたうつむいてしまったけど、そこはしょうがない。
 あと、本当は『可愛いな』とか言うべきだったのかも知れないけど、それはさすがに無理だった。次の機会があったら頑張るので、勘弁してやって下さい。





 今度はさすがに三十分後というわけではない。
 まああの後若干のお見合い状態に入ったことは否定しないが、少し経ってから居間に通された。そんでもって咲耶は「お茶でも煎れるね」と言って奥に消えていったので、多分あっちが台所なんだろう。
 家族で住んでいるらしい咲耶の家はしっかりと片付いていて、引っ越しの時に使っただろうダンボールなんて影も形もない。
 しっかりとした作りのソファーに座って「気合い入れて片付けないとなあ」とか思いつつメールを打っていると、咲耶が戻ってきた。
「ごめん。探してみたんだけど、お茶請け切らしてるみたい」
「お構いなくっていうか……一応こんなんで良ければ持ってきたんだけど」
 言ってコンビニ袋の中からお菓子を取り出す。ポテチとかチョコ系とか、とりあえず色々。
「別に気を遣わなくても良かったのに」
「いや、うん。まあ俺も食べるから」
 さすがにここで「姫子の家に持って行こうと思って用意したやつだから」とか言うほど俺はチャレンジャーではない。と言うかそんなこと言うヤツがいたらそれはただの馬鹿である。それどころか人間失格と言ってもいいかもしれない。
 まあさておき、咲耶がまた台所に引っ込んでなんだか年季の入った菓子鉢を持ってきたのでそこに色々入れてみる。何の変哲もない、言ってみりゃ見飽きたと言っても嘘じゃないコンビニ菓子だけど容器が変われば印象も変わるものである。
「あ、そういえばその、ごめん。姫子にメール送ったんだけど返事なくて」
「うん、大丈夫」
 そういやそんな話をしてたっけ。まあ確かに咲耶がメールするとは言っていたけど、返事がないのは咲耶のせいじゃないと思うんだけど。
 案外律儀なところもあるんだな、とか思ってお茶――とは言っても紅茶とかじゃなく本当に日本茶なのは一瞬驚いたけど、とにかくお茶を飲みつつポテチを一枚かじったら咲耶も自分の湯飲みを持って席に着いた。
 俺の隣に。
「何よ」
「いえ、なんでも」
 俺が口を開く前に軽く睨まれたので即引き下がる。ここで「ソファーは向かい側にもあるんだからそっちに座れば?」などと言う根性もないし言う気もない。
 そんな感じで隣り合って座ったんだけど、会話はない。そしてこういう体勢で座っていると思い出されるのは、アレだ。転入初日の応接室。
 なんかもう結構前な気もするけど、考えてみると実際には一昨日な転入初日。
 最近のあれやこれやな騒動の発端になった、あの時あの場所。あの時も今みたいになんだか会話しづらくて、居心地が悪買ったので身じろぎをしたら咲耶の太もも――
「どうしたの?」
「いや、何も!」
 初対面で事故とはいえ太ももを撫でるという、割と衝撃的な出会いを思い出して真っ赤になった顔を必死にそらす。
 もし今この状況で咲耶に俺がそんなことを気づかれたら、どうなるかなんて考えるまでもない。そう。
「何考えちゃってるのよ、うりうり」
 こんな感じで楽しそうにほっぺたをグリグリされたりすることだろう。
 というか今現在、現在進行形でグリグリされていた。つまり、バレバレだった。
「いや、何でもないって!」
「何よ、チラチラと人の太もも見てるくせに」
「見てねえよ!」
 勿論嘘だけど。制服とは違い今日は私服だからなのか自宅なのかはわからないけど、今日はニーハイソックスを履いていなかった。つまり何を言いたいのかというと、生足だった。そしてどうやらそれを隠す気は無いどころか誇っているらしい咲耶のスカートは短めだった。なんというか、『白い肌が眩しい』という言葉はこういうときに使うんだろうという感じだった。
「そんなにこそこそ見なくても」
「いや、見てないって!」
 誰がどう見ても嘘だったが、ここで認めるわけでにはいかない。ここで認めると恥ずかしいとか変態みたいじゃねえかとか、そんなことはこの際どうでもいい。
「ほら、見たいんならそう言いなさいって。そんなこそこそ見てないで」
「だから見てないって!」
 ここで認めたら咲耶が止まらなくなる。ここはいつもの学校じゃないから、止める人間ところかツッコミ入れる人間すらいない。そんな、正にリミッター解除状態の咲耶に俺が一人で立ち向かえるわけがない。
 思えば出会ってからこれまでの間、わずか三日とはいえ結構な回数こうやってからかわれてきた。でもそう言うときは必ずと言っていいほど姫子が一緒だったので、俺が自分でどうこうして事態を収拾したことはなかった気がする。言ってて情けなくなってくるがそれは事実である。
 そんなわけで気づいてみると例のごとく咲耶の過度なスキンシップは止まることなく、気づいてみるとどこのキャバクラだという状態だった。いや、行ったことないので実際には違うのかもしれんけど。
 そして健全な男子高校生である俺は、多分同年代の女子と比べてもプロポーションに恵まれた咲耶にあんまりひっつかれると何というか色々大変なことに。と言うか具体的に言うとさっきからこっちに詰め寄ってくる度に俺の肩とか二の腕に柔らかなものっつーかぶっちゃけると胸が押しつけられてぐにぐにと密着してもう大変なことに。っていうか今まで何度かこういうことはあったけど、さっきも言ったとおりこういうときは誰かが――大抵の場合は姫子が止めてきたので、ここまでの密着したのは初めてだったし長時間密着しているのも初めてだった。
 そう、初めてなのだ。更に言うなら今日ここには誰もいないわけで――咲耶のお婆ちゃんはさっき出かけたし、確認はしてないけど今まで見ないと言うことは両親もいないんだろう。つまり俺は今、他に誰もいない家の中で咲耶に色々と押しつけられているわけであり、さすがにこんなことは初めてだった。
 一度意識してしまうと止まらない。緊張とか――ええとまあ、平たく言うと興奮とかは加速する一方で、俺はもう顔が赤くなっていることを隠すことに気を払ってはいられなくなってくる。
 いやほら、顔の色より何より男には反応しちゃうところがね?
 俺としてはそれに気づかれないように頑張るので精一杯であり、段々と「やめろよ」とかいいってた口数も減ってくる。更に言ってしまえば俺は役者でも何でもないので隠すというのも限界があり。
「あ、その。ごめん」
 何分後かはわからないというか正直そんなことを気にしている余裕はなかったんだけど、とにかくちょっとしたら咲耶は何かに気づいたらしくて、そんな風に謝ると素直に離れた。
「あ。お茶、冷めちゃったみたいだから入れ直してくるね」
 そしてそんなことを言って、どう見てもまだ冷めてはいないお茶を持って台所に引っ込んでいった。なんというか、最悪だった。
 最悪だったけど、悪いのは俺だけじゃないと思う。と言うか生物的というか生理的な反応だからしょうがないじゃないか。俺は健康な男なんだ!
「お待たせ」
「うん、ありがと」
 そんなことを思っていたら咲耶がお茶持って帰ってきたので素直にお礼を言った。
 いやだってお礼はしっかり言うべきだし。
 咲耶はそのまま俺の隣ではなくテーブルを挟んで向かい側に座ったけど、それは別に俺が嫌だったとかではなくてそれが普通だからだと思う。言ってみればさっきまでが変だったのだ。そんな風に納得した。間違っても直接聞く勇気はないが。
 二人で向き合ってお茶を飲むが、言葉はない。うん、さすがの咲耶も気まずいっぽい。勿論俺だって気まずいけど。
 とは言ってもこのまま二人とも無言のままひたすらお茶を飲むというのは避けたい。
 なんだかんだ言ってはみたものの後ろめたいことは事実なので、ここは俺が話しかけるべきだろう。男はこういうとき損な生き物な気がするけど、そんなことはどうでもいい。と言うか正直何か喋っていないと気まずいにも程がある。
 えーと、話題はっと。
 さすがにここで天気の話とかは有り得ないが、考えてみると俺と咲耶の共通の話題というのが中々思いつかない。まあ会って三日目なので当然っちゃ当然な話なんだけど。
 共通の話題というとすぐに思いつくのは学校の話だけど、さすがにこれが地雷なのは考えるまでもなくわかる。学校の話をするとほぼ間違いなく姫子がらみの話になるし。
 そうすると学校以外での話になり、学校以外で会ったことというと初日のあれだけど、あの時は姫子がいたしなあ。というかその話をしだしたらその後のことに触れざるを得ないので大惨事確定である。
 残るはもう今日の話しか残ってないわけだが。
「あ」
「何?」
 思わず声を出してしまったのを咲耶に聞かれてしまったけど、そんなことを気にしている場合ではない。
「さっき出てくれた人って、湖乃葉さんのお婆ちゃんだよね?」
「うん、そう。ナミお婆ちゃん」
 何か今さっき割と衝撃的なあれこれがあったので忘れかけていたが、そういえば咲耶のお婆ちゃんとも会っていた。割と面白いお婆ちゃんだったし、咲耶も仲が良かった気がする。
 そしてその判断はどうやら間違っていなかったっぽく、素直に話題に乗ってくれた。
「なんというか、明るくて楽しそうなお婆ちゃんだよな」
「うん。でも、人をからかうのとか好きなのが困りものなんだけどね」
『咲耶とそっくりだな』と思ったけど、それを口に出さないぐらいの理性は俺にも備わっています。
「お婆ちゃんも一緒に引っ越してきたの?」
「ううん。ここ、元々お婆ちゃんの家だから」
 ちょっと意外だったので軽く驚いた俺を見ると、咲耶はちょっと楽しそうに話を続ける。
「うち、共働きな上に二人とも忙しいから夜も帰ってこないことが結構多いんだけどね。そう言うときはお婆ちゃんち――っていうかここなんだけど、よく預けられてたりしたのよ。そんな感じだったから、お婆ちゃんも結構な年だし一緒に住んだ方が都合いいんじゃないかっていう話になって」
「それじゃ、前に住んでたとこってのも近いの?」
「うん。さすがに隣街とかそういうワケじゃないけど、県は一緒」
 一口に引っ越しって言っても、色々あるんだな。
 そんなことを思っていると、今度は咲耶が口を開いた。
「じゃあ、次はわたしが聞いてもいい?」
「うん。何?」
 さっきまでの変な空気はすっかり無くなり、大分和やかな感じになってきたので咲耶の問い掛けに迷わずそう答える。
「何で一昨日、姫子といっしょに晩ご飯とかいうことになったの? しかもミコトの部屋で」
 そしてそれは失敗だったと気づいたけど時すでに遅かった。
 正直なところ話をそらしたくてしょうがないが、真っ正面から言葉をぼやかすことなく見事なまでに本題を聞かれてしまったので、そういうわけにもいかない。
「いやその、姫子が料理に失敗して落ち込んでたから」
「ふーん、それで優しいミコトくんは可哀想な姫子に晩ご飯ご馳走してあげたわけ」
「いや、ご馳走とか言っても米炊いたぐらいであとはレトルトのカレーとスーパーで買った豚カツぐらいだって」
 考えてみると何でこんな必死になって弁解しているのか解らなくなりそうになるけど、だからといってこの弁解を辞めるとろくなことにならない。それは理性じゃなく本能とかそんな感じのところでよくわかる。
「まあ、それはわかったわ。正直納得しきったわけじゃないけど、一応『お隣さん』だしね」
 そして咲耶は思いの外あっさりと引き下がってくれた。
 いやまあ引き下がってくれるも何も、俺には何一つ後ろめたいことはないんだから当然なんだけど。
 とりあえず目の前に突きつけられた問題は何とか回避できたので、目の前にある湯飲みを手にとる。大して話したわけじゃないんだけど、正直なところ喉がカラカラである。
 そんなわけでまだ熱いお茶を火傷しないように静かに飲むと。
「で、何で姫子のことを『姫子』って呼ぶようになったの?」
 第二段が待っていた。
 というか、どう見てもこっちが本題だった。咲耶の目が明らかに本気な目だった。
 幸運なことに口に含んだお茶を噴き出すとかいう自体は避けられたので、慌てず騒がず冷静に答えを返す
「流れで」
 とりあえず一言で。色々説明しても良かったけど、それだとどんどん墓穴を掘りそうな予感がしたので。
 しかしまあそんなおざなりな説明に咲耶が納得するわけもなく。
「わたしは未だに『湖乃葉さん』なのに?」
「いや、それは何というか」
 今さら名前を呼ぶのがなんだか照れくさい。理由は真実それだけなんだけど、多分それを言っても納得しては貰えないだろうなあ。
 そんなわけでどうしたものかと悩んでいると、咲耶はすっくと立ち上がって俺にその綺麗な人差し指を突きつけた。爪の色が違った。マニキュアしてるんだろうか。
 軽く現実逃避する感じでそんなことを考えていると、咲耶は口を開いた。
「『咲耶』って呼びなさい」
 最早お願いとかではなかった。見事な命令だった。拒否なんてゆるさねーって感じだった。
 とは言っても、そこで「うん、わかった」と言ってすぐに改善できるんだったらとっくの昔に咲耶と呼んでいる。いや昔って言ってもまだ会ってから三日目ってそれはもういい。
 とにかくどうしたものかと思っていると、はっきりしない俺に苛立ったらしくてどっかと足を踏み出してもう一度口を開いた。
「呼べ!」
 最早命令どころか脅しと言ってもいいかもしれない。ソファーに座っている俺からすると態度どころか物理的にも見事に上からだった。
 いや、それはこの際いいんだけど。
「ちょっと、こっち向きなさい!」
 思わず顔をそらしたので怒られたけど、ごめん無理。
 嫌だって咲耶は現在テーブルの上に片足を上げているわけで、片足を上げているって言うことは反対側の足は床に残っているわけで。更に言うなら咲耶はスカートで、丈も割と短い。つまり、何を言いたいのかというとだ。
 ぱんつ見える。
 いや違うぞ、見たわけじゃない。見ちゃいけないと思っているから必死になって顔をそらしているのだ。いや、全く見えなかったのかというとそういうわけではなく、そりゃ色ぐらいはって駄目! 思い出しちゃ駄目!
 俺の葛藤に咲耶は気づくことなく――いまあ気づかれたら気づかれたで大問題になりそうなので困るけど。
 そんなことを考えていたけど、考えているだけでは何も伝わらない。
「ミコト!」
 そしてとうとう堪忍袋の尾が切れたのか何なのか、テーブルを乗り越えて俺の目の前に立ち、『もう逃がさない』と言わんばかりに俺の両手を押さえつけて俺の名前を呼ぶというかもはや叫んでいた。
 さすがにこうなると顔をそらしているわけにもいかないというか、もうテーブルを乗り越えたのでパンツが見えることはないのでまっすぐ咲耶の方を見てもいいんだけど、今度は何というか。
「近くね?」
 思わず呟いた。
 呟いた直後に失敗したかと思ったけど、言っちゃったものはしょうがない。
 更に言うとそれは誰がどう見ても事実であり、俺が近いと思ったと言うことは当然のごとく咲耶もそう思うわけである。
 俺と咲耶の間は三十センチ足らず。下手すると互いの息すら感じられそうな距離な上に、俺の両手は二の腕のところで咲耶に押さえつけられていた。
 なんというか、これは端から見ると咲耶が俺を押し倒しているように見えるんじゃないだろうか。というかそれは半分ぐらい事実なんじゃないだろうか。
 それは咲耶にだってわかるはずなんだけど、もうここまで来て引くことは出来ないらしい。
「咲耶って、呼びなさい」
 まるで熱にでも浮かされたかのように――ある意味本当に熱に浮かされていることは事実だと思うんだけど、とにかく咲耶はその頬を染めながら囁くようにそう言った。
 ここで断ったらどうなるのか。それはわからないけど、きっと関係が決定的に変わってしまう気がする。それが嫌とか言うわけではない。嫌というわけではないけど、とりあえずここまで来て俺が意地を張っている理由もない。
 だから俺も息を吸って――気のせいか咲耶の体温と匂いを感じながら、口を開く。
「……咲耶」
 やっとの思いで何とかそれだけ言う。
 本当はその後に何か気の利いた言葉を続けるべきなのかもしれないけど、俺にはそれが限界だった。
 でも咲耶はそれで満足だったらしく、顔は真っ赤なままだったけど嬉しそうに満面の笑顔を浮かべると口を開いた。
「もう一回」
「咲耶」
「もう一回!」
「咲耶」
 何がそんなに嬉しいのかは正直わからないけど、それで咲耶の機嫌が直ってくれるならお安いものである。一度下の名前を呼んでしまえば何か色々楽になったので、俺も望まれるままに咲耶の名前を呼ぶ。
 そして咲耶の嬉しさの表れなのか、その綺麗な顔が段々と近づいてきている。それは俺にはもちろん咲耶にもわかっているはずなんだけど止まることはなく。咲耶の名前を四度呼んだ頃には本当にお互いの顔が目前という感じだった。
 あと数回呼んだら、何が起きるのか。
 そんなことは誰の目から見ても明らかで、だけど俺は咲耶の名前を呼び、咲耶はそれを求めた。
 そして――


「……こんな昼日中から何をしてるんですか貴女は」


 まるで酔っぱらって深夜に帰ってきた旦那にバケツで冷水をぶっかける奥さんのような声だった。
 ギギギギギ、と気のせいか――いやまあ間違いなく気のせいなんだけど、油を注し忘れてさび始めた玩具が動く時のような軋んだ音を響かせながら俺と咲耶が声の方を向くと。
 そこには姫子がいた。ちなみに私服だった。そして勿論不機嫌そうと言うかその視線はもはや殺人光線みたいに感じられた。少なくとも俺は死ぬかと思った。
「え? なんで?」
 そして咲耶の当然と言えば当然の問いに答えたのは、予想外の人物だった。
「お友達が家の前で困ってたみたいだから連れてきてあげたわよ」
 そう、まあ俺と咲耶と姫子じゃないんだから残る一人である、いつの間にか帰ってきたらしいナミ婆ちゃんだった。
 そのナミ婆ちゃんはと言うと、例によって言うこと言ったら奥に引っ込んだ。多分、お婆ちゃん的には『孫が友だちを連れてきたんだから年寄りが邪魔しないように』とかそんな気遣いをしてくれたんだと思う。
 出来ればやめて欲しい気遣いだった。
 そして咲耶が俺の上から飛び退くのを確認してから、姫子は俺に向かって口を開いた。
「ミコトくん、メールありがとうございました」
「ああ、うん」
「メールって何よ」
 何とか立ち直ったのか咲耶がそう聞くと、姫子はポケットからシンプルなデザインの携帯を取りだした。そして何度か操作をしてから咲耶の方に画面を向ける。
 俺も咲耶の横から覗き込むと、送信済みメールの一通だった。

 宛先:新井木ミコト
 題名:今どこですか
 本文:なし


 続いてまたちょこっと操作してからこっちに画面を向ける。
 今度は受信メールの一通。

 差出人:新井木ミコト
 題名:湖乃葉さんの家
 本文:なし


 それを確認した瞬間、咲耶は俺の方を振り向いた。と言うか睨まれた。いや、睨まれても困るって言うかまあ状況は大体掴めた気がするけど、俺このメール打ったとき――この家に来たばっかの時って状況掴めてなかったんですもの。
 そんなわけで俺のメールから状況を把握して、どうやって場所を知ったのかはしらないけど咲耶の家まで来たけどさすがにそのまま押し入るわけにもいかず、困っていたところをナミお婆ちゃんに案内されて来たようだ。
 そして咲耶も睨んでは来たもののそれ以上何かを言うことはなく、姫子の方を向いて朗らかに笑った。
「ごめんなさいね、わたしもメール送ったんだけど届いてないみたいで」
「あら、遅延してるんですかね。さすがにまだ着信拒否とかは設定してないので届くと思うんですけど」
「困ったものねえ」
「本当ですね」
 ほほほほほ、とか二人が上品に笑いあっているのが超怖い。と言うか帰りたい。出来ることなら今すぐに。
「それで今日は、どういう集まりなんでしょうか」
「ごめんなさい、説明してなかったわね。あなたとミコトに簡単な料理を教えてあげようかと思って」
「そうですか、それは助かります。わたしも早々ミコトくんの家でご馳走になるわけにはいきませんから」
 マジ帰りたい。
 二人はあくまで仲よさげに明るく喋りながら台所に向かう。そう、台所に。料理をする場所に。包丁とかナイフとかフォークとか空の鍋とかがある場所に。なんだろう、何か嫌な想像しかできないから俺はやっぱりここで帰――
「ほらミコト、アンタもとっとと来なさいって」
「そうですよミコトくん。人の好意は受けるものです」
 帰るわけにはいかないみたいだった。
「はい、今行きます」
 十三階段を上る死刑囚ってこんな気持ちなのかな。そんなことを思いながら、俺は二人が待つキッチンに向かった。




 とりあえず、肉じゃがの作り方をおぼえたことだけ記しておこう。あとはお願いだから忘れさせて下さい。この歳で胃薬の世話にはなりたくないです。





 つづく



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